2009年09月30日
「中行説の桑」41
間諜・・スパイのことである。敵にはもちろん、味方のほとんどにも正体を知られてはならぬとあらば、他には考えられない。軍臣は否定しなかった。
(そうか)内心、説は頷いた。宿営を離れて蚕を埋めていた深夜に軍臣と出逢ったのは、軍臣が毎夜密かにその間諜と連絡を取っていたからに他ならない。
「なぜ、その者を私に引き合わされます?」
「お逢いしたい、とその者のたっての願いでした。公主様に浅からぬゆかりあれば、と」
公主は空を見た。月光に負けず血のように赤く輝いていた星は、今にも山の端に消えようとしている。
「誰も知ってはならぬ」
という間諜が、まもなくここへ現われる。
(単于と太子しか知ってはならぬことを、知ってしまう)説は慄然とした。
この場を逃げ出したかった。匈奴の機密など興味もない。知りたくもない。漢の公主付の宦官が知ってよいことでもない。(私は・・殺される)
そっと、公主のほうを見た。こめかみに汗が浮いている。
(かなりご気分が悪いのを、耐えていらっしゃる)逃げるわけにも行かなかった。
公主は、単于の妻・太子の義母ともなる身である。考えあって軍臣がその諜人を引き合わせるのだから、無論機密を知ってもその身は無事であろう。だが・・
(仕方がない。私は公主様の側を離れることはできない。宦官や侍女は、昔からよくこんな目にあうものさ・・)小心者なりに、覚悟を決めた。
「あの・・」軍臣に呼びかけた。
「何かな」
「私は桑畑の婢(はしため)、でしょうか?」
「桑畑の、婢?」軍臣はきょとんとして、がたがたと震える中行説を見た。
(そうか)内心、説は頷いた。宿営を離れて蚕を埋めていた深夜に軍臣と出逢ったのは、軍臣が毎夜密かにその間諜と連絡を取っていたからに他ならない。
「なぜ、その者を私に引き合わされます?」
「お逢いしたい、とその者のたっての願いでした。公主様に浅からぬゆかりあれば、と」
公主は空を見た。月光に負けず血のように赤く輝いていた星は、今にも山の端に消えようとしている。
「誰も知ってはならぬ」
という間諜が、まもなくここへ現われる。
(単于と太子しか知ってはならぬことを、知ってしまう)説は慄然とした。
この場を逃げ出したかった。匈奴の機密など興味もない。知りたくもない。漢の公主付の宦官が知ってよいことでもない。(私は・・殺される)
そっと、公主のほうを見た。こめかみに汗が浮いている。
(かなりご気分が悪いのを、耐えていらっしゃる)逃げるわけにも行かなかった。
公主は、単于の妻・太子の義母ともなる身である。考えあって軍臣がその諜人を引き合わせるのだから、無論機密を知ってもその身は無事であろう。だが・・
(仕方がない。私は公主様の側を離れることはできない。宦官や侍女は、昔からよくこんな目にあうものさ・・)小心者なりに、覚悟を決めた。
「あの・・」軍臣に呼びかけた。
「何かな」
「私は桑畑の婢(はしため)、でしょうか?」
「桑畑の、婢?」軍臣はきょとんとして、がたがたと震える中行説を見た。
Posted by 渋柿 at 16:29 | Comments(0)
2009年09月30日
「中行説の桑」40
「はい。匈奴のため、素晴らしき手土産をご用意くださったと・・酒を強いて中行説の口を割らせました」
「中行説を飲み潰すなど、赤子の手をひねるようなものだったでしょうね。でも、その蚕はみな、死んでしまいました」公主は、悲しい目をした。
「しかし、わが父の妻となるお覚悟、はっきりわかりました」
漢兵の天幕の辺りから、にぎやかな声が聞こえ始めた。
「お人払い、なさいましたのね」
「実は・・公主様に引き合わせたいものがおりまして」
「引き合わせたいもの?どなたであろう」
軍臣はすぐには答えず、しばらく空を見ていた。十六夜の月の光にもかかわらず、大河のさざ波のように星が瞬いている。
「今しばらくお待ちください」
「太子は星を読まれるのか」思わず説は、裏返った声を挙げた。
星や太陽月の運行で季節時刻を知る知識は、漢の宮廷でもごく一部のものしか知らぬ。
「いえ、待ち人は読星に習熟しておりますが、私はその者に初歩を習っただけで。火曜(火星)が沈む頃、ここに参ることになっております」
宿星(恒星)は一日でほぼ元の位置に戻ってくる。だが火曜・太白星(金星)や箒星(彗星)の出没運行は甚だしく不規則である。その不規則さに「天」の意思が顕われると信じた古代中国では、惑星の習合や彗星の出現を観測し、それを予測する天文学の萌芽があった。だが、その知識は漢でも宮廷の大史と呼ばれる専門集団が独占している。
軍臣は、その知識で「引き合せたい者」が、ここに現われる時間をあらかじめ定めていたのだ。驚くべきことであった。
「漠北の単于の許から来られるのですか?」
「いいえ、その者は獏縁からずっとわが隊と、付かず離れず動いております」
「なぜ一緒に動かれぬので?」
「事情がございまして、その者は日常身を窶して暮らしております。その真の姿を知るは父単于と我のみ。我の家来初め何人も、知ってはならぬことなのです」
「そのお方は間諜ですね」公主がいった。
「中行説を飲み潰すなど、赤子の手をひねるようなものだったでしょうね。でも、その蚕はみな、死んでしまいました」公主は、悲しい目をした。
「しかし、わが父の妻となるお覚悟、はっきりわかりました」
漢兵の天幕の辺りから、にぎやかな声が聞こえ始めた。
「お人払い、なさいましたのね」
「実は・・公主様に引き合わせたいものがおりまして」
「引き合わせたいもの?どなたであろう」
軍臣はすぐには答えず、しばらく空を見ていた。十六夜の月の光にもかかわらず、大河のさざ波のように星が瞬いている。
「今しばらくお待ちください」
「太子は星を読まれるのか」思わず説は、裏返った声を挙げた。
星や太陽月の運行で季節時刻を知る知識は、漢の宮廷でもごく一部のものしか知らぬ。
「いえ、待ち人は読星に習熟しておりますが、私はその者に初歩を習っただけで。火曜(火星)が沈む頃、ここに参ることになっております」
宿星(恒星)は一日でほぼ元の位置に戻ってくる。だが火曜・太白星(金星)や箒星(彗星)の出没運行は甚だしく不規則である。その不規則さに「天」の意思が顕われると信じた古代中国では、惑星の習合や彗星の出現を観測し、それを予測する天文学の萌芽があった。だが、その知識は漢でも宮廷の大史と呼ばれる専門集団が独占している。
軍臣は、その知識で「引き合せたい者」が、ここに現われる時間をあらかじめ定めていたのだ。驚くべきことであった。
「漠北の単于の許から来られるのですか?」
「いいえ、その者は獏縁からずっとわが隊と、付かず離れず動いております」
「なぜ一緒に動かれぬので?」
「事情がございまして、その者は日常身を窶して暮らしております。その真の姿を知るは父単于と我のみ。我の家来初め何人も、知ってはならぬことなのです」
「そのお方は間諜ですね」公主がいった。
Posted by 渋柿 at 07:49 | Comments(0)
2009年09月29日
「中行説の桑」39
「よかったですね、中行説」嫣然と微笑み、公主も羹を啜った。
ひとしきり一座に焙り肉と羹がすすみ、また人によっては馬乳酒の微醺(びくん)も回る。
(大丈夫か)説は時々、公主横顔を見た。
手拍子で、家来達が匈奴の歌を歌っている。何かもの悲しい調べであった。楽しそうに頷きながらも、やはり公主はひそやかに息を吐いている。
(自分からは、絶対に疲れたなどといわぬ姫じゃが)豺の上の軍臣も、時折心配そうに公主を見ていることに、中行説は気づいた。公主の体調が良くないのは、間違いなかった。
「我々は祁連山を得た。祁連山には紅の花が咲いている。さあ紅を作ろう、祁連山の紅だ。女達よ、その頬を紅く染めよう。我々は祁連山を得たのだ」軍臣が、歌の意味を訳した。
祁連山。先代冒頓単于が月氏から奪い、勢力圏に入れた西の山である。
「祁連山の紅でその頬を染めよう」とは、遥々嫁いで来た公主への、歓迎の歌であった。
歌は数回繰り返され、唐突に終った。軍臣がまた声を発した。「承知いたしました」というように叩頭した家来達は、また焚き火の周りに兎肉の串をぐるりと並べた。次々に肉が焼き上がる。それから、家来達は公主と軍臣に深々と叩頭した。山盛りの焙り肉を牛の皮に包み、家来達はぞろぞろと漢の天幕の方に去っていった。
「太子、何をお命じに?」
「いや・・漠縁の旅、漢の兵もさぞや倹(つま)しい食糧で耐えてきたであろうしなあ。公主様と中行説ばかりに肉を振舞うのもどうか、と。あっ、侍女にも分けるようにいっておる。三人であったな」
「はい、忝く」
(そういえばこの数日、引き割り燕麦の焦がしと干菜の羹ばかりだった)
「道案内役の五人ほどは、匈奴の言葉が判ります。あちらにても久々の宴でございます」中行説は、深く叩頭した。
「お心遣いありがとうございます」雪豹の上の公主も拱手する。
「はいそれに酒も少々。いえ、心配は要りませぬ。一人に一杯以上は勧めぬようきつく申してきました」
「それはよろしゅうございました。皆が今朝の中行説のようになったら大変ですもの」
「公主様、もう勘弁してくださいませ。二度と悪酔いはいたしませぬ」
冷や汗が流れる。
「公主様、私が中行説に強いたのです。夜中になにやら怪しげなものを埋めておりましたので」軍臣がとりなした。
「それを見咎められたのですね」
ひとしきり一座に焙り肉と羹がすすみ、また人によっては馬乳酒の微醺(びくん)も回る。
(大丈夫か)説は時々、公主横顔を見た。
手拍子で、家来達が匈奴の歌を歌っている。何かもの悲しい調べであった。楽しそうに頷きながらも、やはり公主はひそやかに息を吐いている。
(自分からは、絶対に疲れたなどといわぬ姫じゃが)豺の上の軍臣も、時折心配そうに公主を見ていることに、中行説は気づいた。公主の体調が良くないのは、間違いなかった。
「我々は祁連山を得た。祁連山には紅の花が咲いている。さあ紅を作ろう、祁連山の紅だ。女達よ、その頬を紅く染めよう。我々は祁連山を得たのだ」軍臣が、歌の意味を訳した。
祁連山。先代冒頓単于が月氏から奪い、勢力圏に入れた西の山である。
「祁連山の紅でその頬を染めよう」とは、遥々嫁いで来た公主への、歓迎の歌であった。
歌は数回繰り返され、唐突に終った。軍臣がまた声を発した。「承知いたしました」というように叩頭した家来達は、また焚き火の周りに兎肉の串をぐるりと並べた。次々に肉が焼き上がる。それから、家来達は公主と軍臣に深々と叩頭した。山盛りの焙り肉を牛の皮に包み、家来達はぞろぞろと漢の天幕の方に去っていった。
「太子、何をお命じに?」
「いや・・漠縁の旅、漢の兵もさぞや倹(つま)しい食糧で耐えてきたであろうしなあ。公主様と中行説ばかりに肉を振舞うのもどうか、と。あっ、侍女にも分けるようにいっておる。三人であったな」
「はい、忝く」
(そういえばこの数日、引き割り燕麦の焦がしと干菜の羹ばかりだった)
「道案内役の五人ほどは、匈奴の言葉が判ります。あちらにても久々の宴でございます」中行説は、深く叩頭した。
「お心遣いありがとうございます」雪豹の上の公主も拱手する。
「はいそれに酒も少々。いえ、心配は要りませぬ。一人に一杯以上は勧めぬようきつく申してきました」
「それはよろしゅうございました。皆が今朝の中行説のようになったら大変ですもの」
「公主様、もう勘弁してくださいませ。二度と悪酔いはいたしませぬ」
冷や汗が流れる。
「公主様、私が中行説に強いたのです。夜中になにやら怪しげなものを埋めておりましたので」軍臣がとりなした。
「それを見咎められたのですね」
Posted by 渋柿 at 17:47 | Comments(0)
2009年09月29日
「中行説の桑」38
「なにをお話です?」
「いえ、この者は昨夜の馬乳酒が効きすぎて、肉が食えぬのだ、と申しました」
「昨夜は説がご迷惑をお掛けしました。太子も一緒に聞こし召されたとか。お障りはなかったのでしょうか」
「はい、私は一口二口舐めただけで・・皮袋いっぱいの酒はすべて、中行説に飲まれてしまいました」
「まあ」公主は説を軽くにらんだ。
「申し訳もござりませぬ。この者根は小心なのですが・・」
「小心?いやいや大分大胆なことを申しましたぞ」
「中行説が大胆とは・・どのような」
「太子!」哀願の声で説はさえぎったが、軍臣はニヤリと笑って続けた。
「匈奴の乳や酪や肉に毛皮は、漢の食物や絹よりこの地に適しずっとすぐれておる、と」
「まあ」
「漢の一郡に及ばぬ人数で漢を兄事させているのは匈奴の衣食を堅持しているからだ、となあ・・大変な鼻息でした」
それから、家来達にまた匈奴の言葉で話しかけた。今の内容の翻訳らしい。家来達は歓声を上げて立ち上がった。次々に説に近付いて手を握り、肩を叩く。漢の宮廷から来た宦官が匈奴の衣食と暮らしを褒めたのが、よほど意外でもあり、また嬉しかったのであろう。
手に手に皮袋を持って説と乾杯しようとする。
(冗談ではない)
軍臣が、
「この者は二日酔いで苦しんでおるのだぞ」というふうに身振りを交えて執成し、やっと説は大量の献杯を免れた。
「呆れました」
「いえいえ公主様、まこと得がたい言葉。父単于に、この中行説の言葉を漠北だけでなく全匈奴に布告するよう勧めまする。和蕃公主の傳役、燕人中行説の助言として」
「もうご勘弁ください。弄らないでくださいませ」
「弄ってははおらぬ」
確かに、軍臣は宴席の座興で済まさなかった。数ヵ月後老上単于は本当に、右の触れを「匈奴大単于」として、また「漢の宦官中行説の助言により」布告することとなる。
泣きそうになった説の前に、湯気の立つ羹の器が置かれた。持ってきた男は、しきりに話しかけている。
「羹は最初にそなたが手を付けて欲しい、と申しておる。そなたとなら仲間になれそうじゃ、と。公主、かまいませぬな」
「もちろんです。中行説、折角のお志です。いただきなさい」
「はい・・」
おずおず、説が器に口を付けると、家来達が一斉に手を叩いた。それから、大鍋の羹は、公主、軍臣の前にも置かれ、家来達もめいめい自分の碗を持った。
「いえ、この者は昨夜の馬乳酒が効きすぎて、肉が食えぬのだ、と申しました」
「昨夜は説がご迷惑をお掛けしました。太子も一緒に聞こし召されたとか。お障りはなかったのでしょうか」
「はい、私は一口二口舐めただけで・・皮袋いっぱいの酒はすべて、中行説に飲まれてしまいました」
「まあ」公主は説を軽くにらんだ。
「申し訳もござりませぬ。この者根は小心なのですが・・」
「小心?いやいや大分大胆なことを申しましたぞ」
「中行説が大胆とは・・どのような」
「太子!」哀願の声で説はさえぎったが、軍臣はニヤリと笑って続けた。
「匈奴の乳や酪や肉に毛皮は、漢の食物や絹よりこの地に適しずっとすぐれておる、と」
「まあ」
「漢の一郡に及ばぬ人数で漢を兄事させているのは匈奴の衣食を堅持しているからだ、となあ・・大変な鼻息でした」
それから、家来達にまた匈奴の言葉で話しかけた。今の内容の翻訳らしい。家来達は歓声を上げて立ち上がった。次々に説に近付いて手を握り、肩を叩く。漢の宮廷から来た宦官が匈奴の衣食と暮らしを褒めたのが、よほど意外でもあり、また嬉しかったのであろう。
手に手に皮袋を持って説と乾杯しようとする。
(冗談ではない)
軍臣が、
「この者は二日酔いで苦しんでおるのだぞ」というふうに身振りを交えて執成し、やっと説は大量の献杯を免れた。
「呆れました」
「いえいえ公主様、まこと得がたい言葉。父単于に、この中行説の言葉を漠北だけでなく全匈奴に布告するよう勧めまする。和蕃公主の傳役、燕人中行説の助言として」
「もうご勘弁ください。弄らないでくださいませ」
「弄ってははおらぬ」
確かに、軍臣は宴席の座興で済まさなかった。数ヵ月後老上単于は本当に、右の触れを「匈奴大単于」として、また「漢の宦官中行説の助言により」布告することとなる。
泣きそうになった説の前に、湯気の立つ羹の器が置かれた。持ってきた男は、しきりに話しかけている。
「羹は最初にそなたが手を付けて欲しい、と申しておる。そなたとなら仲間になれそうじゃ、と。公主、かまいませぬな」
「もちろんです。中行説、折角のお志です。いただきなさい」
「はい・・」
おずおず、説が器に口を付けると、家来達が一斉に手を叩いた。それから、大鍋の羹は、公主、軍臣の前にも置かれ、家来達もめいめい自分の碗を持った。
Posted by 渋柿 at 07:58 | Comments(0)
2009年09月28日
「中行説の桑」37
(なかなか巧みな漢の言葉だ)改めて、説は感嘆した。
今度は匈奴の言葉で、軍臣は跪いている家来達に何事か命じた。それに応えて、太い串を打った肉塊を、焚き火の周囲に何本もさしていく。竃の鍋には肉の羹(あつもの)のが煮える香りが立ち上り、肉の焼ける匂いと混じりあった。二日酔いがまだ尾を引いていなければ、芳ばしいとも好もしいとも思ったことだろう。
軍臣は、雪豹の傍らに置かれた黒い毛皮の上に胡座した。
(こちらは豺(やまいぬ)か・・)牛の皮の座に導かれた説は、匈奴の太子が、継母になる公主に謙譲の礼を示したことが嬉しかった。
公主の前に焙り肉と羹が供された。
「頂きまする」早速公主は焙り肉を口に運んだ。「おいしゅうございます」その笑みは、儀礼的なものではなかった。
焚き火の灯りに、しばしば公主と軍臣は視線を絡ませている。
「今日、ここに着きましてから、これ等の者達が狩った兎でございます」軍臣は、跪いている家来達の方を見た。
「あの、短い間に」
「はい、匈奴の男は生れたときから馬に乗り、弓を引きまする」
「どうぞ、太子も共にお召し上がりくださいませ」公主は器を雪豹の毛皮の上に置いて一礼した。
「それに、そのもの達も」
「ありがとうございます」
軍臣はまた匈奴の言葉で家来達に声を掛けた。彼らは一斉に叩頭して立ち上がった。まず軍臣の前に焙り肉が置かれ、軍臣が手を付けると、中行説の前にも肉が配られた。
「中行説、であったな。そのほうも口をつけよ」軍臣が、笑顔でいった。
「ご勘弁くださいませ。折角のご馳走ながら昨夜の馬乳酒が居座り、胃の腑が受け付けませぬ」
「ならば薄い酪湯ならどうじゃな。そちが何か口にせぬと、こやつ等が肉にありつけぬ」
「頂きます」
説が酪湯を一口すすると、匈奴の家来達もめいめい串を引き抜き、焙り肉に噛り付いた。
軍臣が中行説を見ながら何事か話すと、彼らはどっと笑った。
今度は匈奴の言葉で、軍臣は跪いている家来達に何事か命じた。それに応えて、太い串を打った肉塊を、焚き火の周囲に何本もさしていく。竃の鍋には肉の羹(あつもの)のが煮える香りが立ち上り、肉の焼ける匂いと混じりあった。二日酔いがまだ尾を引いていなければ、芳ばしいとも好もしいとも思ったことだろう。
軍臣は、雪豹の傍らに置かれた黒い毛皮の上に胡座した。
(こちらは豺(やまいぬ)か・・)牛の皮の座に導かれた説は、匈奴の太子が、継母になる公主に謙譲の礼を示したことが嬉しかった。
公主の前に焙り肉と羹が供された。
「頂きまする」早速公主は焙り肉を口に運んだ。「おいしゅうございます」その笑みは、儀礼的なものではなかった。
焚き火の灯りに、しばしば公主と軍臣は視線を絡ませている。
「今日、ここに着きましてから、これ等の者達が狩った兎でございます」軍臣は、跪いている家来達の方を見た。
「あの、短い間に」
「はい、匈奴の男は生れたときから馬に乗り、弓を引きまする」
「どうぞ、太子も共にお召し上がりくださいませ」公主は器を雪豹の毛皮の上に置いて一礼した。
「それに、そのもの達も」
「ありがとうございます」
軍臣はまた匈奴の言葉で家来達に声を掛けた。彼らは一斉に叩頭して立ち上がった。まず軍臣の前に焙り肉が置かれ、軍臣が手を付けると、中行説の前にも肉が配られた。
「中行説、であったな。そのほうも口をつけよ」軍臣が、笑顔でいった。
「ご勘弁くださいませ。折角のご馳走ながら昨夜の馬乳酒が居座り、胃の腑が受け付けませぬ」
「ならば薄い酪湯ならどうじゃな。そちが何か口にせぬと、こやつ等が肉にありつけぬ」
「頂きます」
説が酪湯を一口すすると、匈奴の家来達もめいめい串を引き抜き、焙り肉に噛り付いた。
軍臣が中行説を見ながら何事か話すと、彼らはどっと笑った。
Posted by 渋柿 at 16:14 | Comments(0)
2009年09月28日
「中行説の桑」36
十六夜の月が草原の果ての地平線に昇るころ、中行説は公主に従って軍臣太子の天幕を訪れた。
(疲れておられる)公主の、密やかなため息を初めて聞いたのは、この時だった。心なしか、歩む足取りがあやうい。
(無理もないが・・大丈夫であろうか)中行説は、招きに応じるほうがよいと勧めたことを、少し悔いた。(だが、このお姫様のこと、年上の継子に気後れなどなさるまいしなあ)
公主は赤い絹の袿裳をまとい、あの漢の文帝に贈られた翡翠の耳飾りを着けてきた。
草原。薤(にら)に似た白い花が、細長い葉と共に風に揺れる。
公主一行の宿営から一里(漢里・約四百メートル)ほど先に、匈奴のフェルトの天幕が張られている。
「天幕へ招く」といっても、草原の夜の宴である。天幕の前に大きな焚き火が燃え上がり、その傍らには大鍋の掛かった竃が作られていた。焚き火の正面には見事な毛皮を敷いて、公主の席が設えられている。
「これは・・」中行説は、息を呑んだ。
輝く銀色の中に漆黒の斑を散らした長い冬毛であった。
「おおもしや、これがあの名高い雪豹では」公主も目を見張る。
「よくご存知で」軍臣太子は、叩頭して公主を雪豹の上に導いた。
「ここよりももっと北、高い山に住んでおります」
風が起こり、焚き火の炎が燃え上がった。正面の公主の顔をまともに照らす。
軍臣の表情が、まぎれもなく公主の美しさに対する賛嘆に溢れているのを見て、中行説は満足であった。
公主は無論のこと中行説も、実物を見るのは初めてである。雪豹を狩るのは容易ではない。客をその毛皮に迎えるのは、匈奴では最高の礼遇と聞いていた。
「美しいこと」毛皮に座した公主は、膝の辺りを掌で撫でた。
(似合っておられる。この姫は、まるで雪豹の上に座すために生れてこられたようだ)
「お気に召しましたか」軍臣は、白い歯を見せる。
(疲れておられる)公主の、密やかなため息を初めて聞いたのは、この時だった。心なしか、歩む足取りがあやうい。
(無理もないが・・大丈夫であろうか)中行説は、招きに応じるほうがよいと勧めたことを、少し悔いた。(だが、このお姫様のこと、年上の継子に気後れなどなさるまいしなあ)
公主は赤い絹の袿裳をまとい、あの漢の文帝に贈られた翡翠の耳飾りを着けてきた。
草原。薤(にら)に似た白い花が、細長い葉と共に風に揺れる。
公主一行の宿営から一里(漢里・約四百メートル)ほど先に、匈奴のフェルトの天幕が張られている。
「天幕へ招く」といっても、草原の夜の宴である。天幕の前に大きな焚き火が燃え上がり、その傍らには大鍋の掛かった竃が作られていた。焚き火の正面には見事な毛皮を敷いて、公主の席が設えられている。
「これは・・」中行説は、息を呑んだ。
輝く銀色の中に漆黒の斑を散らした長い冬毛であった。
「おおもしや、これがあの名高い雪豹では」公主も目を見張る。
「よくご存知で」軍臣太子は、叩頭して公主を雪豹の上に導いた。
「ここよりももっと北、高い山に住んでおります」
風が起こり、焚き火の炎が燃え上がった。正面の公主の顔をまともに照らす。
軍臣の表情が、まぎれもなく公主の美しさに対する賛嘆に溢れているのを見て、中行説は満足であった。
公主は無論のこと中行説も、実物を見るのは初めてである。雪豹を狩るのは容易ではない。客をその毛皮に迎えるのは、匈奴では最高の礼遇と聞いていた。
「美しいこと」毛皮に座した公主は、膝の辺りを掌で撫でた。
(似合っておられる。この姫は、まるで雪豹の上に座すために生れてこられたようだ)
「お気に召しましたか」軍臣は、白い歯を見せる。
Posted by 渋柿 at 07:24 | Comments(2)
2009年09月27日
「中行説の桑」35
案内人の長が、馬を繋ぐ杭を打つ兵士を指図していた。人の夕餉の前に、馬を繋ぎ飼葉を与えねばならぬ。馬の力で本気になれば、人力で急ごしらえに地に打ち込んだ杭など引き抜きも出来るだろう。だが調教され馴れた馬たちは、一夜その杭におとなしく繋がれて朝を待つのだ。もっとも馬は百頭近くいる。
漠縁の旅では、大地が堅く杭が立たないような宿営地もあった。繋がずに見張りだけを立てたこともある。それでも朝までに、逃げた馬はいなかった。
「遅くなりました」中行説をここまで伴った案内人が、長に頭を下げた。
「まことに、ご迷惑をお掛けいたしました」説も、恐縮しきる。
「いやあ、宦官殿には災難でしたなあ。漢人が匈奴の地に参ると、誰も一度はあういう目に逢いまする。単于の宮廷・・王庭へ入る前には、一言ご注意しようと思っておりましたが、昨夜のように急に拉致されてはどうしようもなありませんなあ」宦官令の張沢ほどの年配の長は、かえって説を慰めた。
(蚕の死骸を人知れず埋葬するため、夜半勝手に宿営を離れた・・)なおもむかつく胃の腑は、自業自得であった。
「実は・・」長は、気のいい笑顔を納めて、声を潜めた。「匈奴の太子から今宵、公主様にお招きがあったのです」
「何ですと」
「ここから単于の穹廬(きゅうろ)まではあと二日、公主の旅の徒然をお慰めしたいと軍臣太子直々の申し入れで」
中行説の顔面から血の気が引いた。昨夜、馬乳酒で気が大きくなり、多弁の挙句醜態を演じた相手であった。
「で、公主様は何と?」
「中行説だけが供なら、参ると」
「お留めなさらなかったのですか」説と共に遅着した案内人がきいた。「匈奴の習い、ご存知でしょうに」
「うむ、これが中華の礼ならば、降嫁なさった公主は単于の嫡妻、年は下でも太子が孝養を尽くすべき母上じゃ。子の招き、母として受けるべきではあろうが・・」
「あの風習がありますからなあ」
それは中行説も知っている。漢の地では考えられぬことであるが・・匈奴は父が死ねば子は自分の生母以外の父の妻を、また兄が死ねば兄嫁を自分の妻とする。継母にとって、継子は「子」ではなく異性なのである。嫁ぐ前に夫たるべき単于以外の異性と宴を共にするのは、如何なものか。
「いっそ・・ならばなおのことでございます、このお招き、受けたほうがよろしいのでは」説は、遠慮がちに口を挟んだ。「単于は、公主様より二十もお年は上でございます。公主様の行く末を思えば・・」
継母と継子というだけではない。公主の、次の夫となるかも知れぬ相手であった。関係は円滑であったほうがよい。
「しかし今は、公主様は太子に嫁がれるのではない。やはり、お断りいたそう」
「公主様が、いくとおっしゃっておられる。それはなりますまい」
「そう・・でしたな」
長は、花嫁行列の旅程には全責任と命令権を持っている。一方旅程とは別の、いわば公主の社交は、傳役の中行説が総務するべきものであった。その権限はもはや匈奴の地に入った今は、皇帝の命令からも独立しているのだ。指揮系統の混乱状態にあっては、公主の意向が何よりも優先する。
漠縁の旅では、大地が堅く杭が立たないような宿営地もあった。繋がずに見張りだけを立てたこともある。それでも朝までに、逃げた馬はいなかった。
「遅くなりました」中行説をここまで伴った案内人が、長に頭を下げた。
「まことに、ご迷惑をお掛けいたしました」説も、恐縮しきる。
「いやあ、宦官殿には災難でしたなあ。漢人が匈奴の地に参ると、誰も一度はあういう目に逢いまする。単于の宮廷・・王庭へ入る前には、一言ご注意しようと思っておりましたが、昨夜のように急に拉致されてはどうしようもなありませんなあ」宦官令の張沢ほどの年配の長は、かえって説を慰めた。
(蚕の死骸を人知れず埋葬するため、夜半勝手に宿営を離れた・・)なおもむかつく胃の腑は、自業自得であった。
「実は・・」長は、気のいい笑顔を納めて、声を潜めた。「匈奴の太子から今宵、公主様にお招きがあったのです」
「何ですと」
「ここから単于の穹廬(きゅうろ)まではあと二日、公主の旅の徒然をお慰めしたいと軍臣太子直々の申し入れで」
中行説の顔面から血の気が引いた。昨夜、馬乳酒で気が大きくなり、多弁の挙句醜態を演じた相手であった。
「で、公主様は何と?」
「中行説だけが供なら、参ると」
「お留めなさらなかったのですか」説と共に遅着した案内人がきいた。「匈奴の習い、ご存知でしょうに」
「うむ、これが中華の礼ならば、降嫁なさった公主は単于の嫡妻、年は下でも太子が孝養を尽くすべき母上じゃ。子の招き、母として受けるべきではあろうが・・」
「あの風習がありますからなあ」
それは中行説も知っている。漢の地では考えられぬことであるが・・匈奴は父が死ねば子は自分の生母以外の父の妻を、また兄が死ねば兄嫁を自分の妻とする。継母にとって、継子は「子」ではなく異性なのである。嫁ぐ前に夫たるべき単于以外の異性と宴を共にするのは、如何なものか。
「いっそ・・ならばなおのことでございます、このお招き、受けたほうがよろしいのでは」説は、遠慮がちに口を挟んだ。「単于は、公主様より二十もお年は上でございます。公主様の行く末を思えば・・」
継母と継子というだけではない。公主の、次の夫となるかも知れぬ相手であった。関係は円滑であったほうがよい。
「しかし今は、公主様は太子に嫁がれるのではない。やはり、お断りいたそう」
「公主様が、いくとおっしゃっておられる。それはなりますまい」
「そう・・でしたな」
長は、花嫁行列の旅程には全責任と命令権を持っている。一方旅程とは別の、いわば公主の社交は、傳役の中行説が総務するべきものであった。その権限はもはや匈奴の地に入った今は、皇帝の命令からも独立しているのだ。指揮系統の混乱状態にあっては、公主の意向が何よりも優先する。
Posted by 渋柿 at 17:24 | Comments(0)
2009年09月27日
「中行説の桑」34
(緑だ!)と思った。水は枯れたはずの川床に点々と苜蓿の茂みが現れ始める。更に行くと薊が一つ、風に揺れていた。案内人が手綱を引き、馬の足を緩めた。
「かなり、砂漠の縁を離れたようですな」説が聞くと、
「もうすぐ泉があります。今宵はそこで宿営されるはず」という。
「ではもう・・」
「はい。ここはもう漠北、匈奴の本拠地といってもようございます」
老上単于の父、漢の高祖を完膚なきまでに破った冒頓単于はまた、東の東胡を滅ぼし西の月氏をさらに西方に追放し、膨張した版図を行政上三分した。すなわち東胡の跡を左賢王、月氏の支配下であった西域の統治を右賢王に託し、その中央を直轄地として獏北に単于が君臨する現体制を確立したのである。
(ついに・・)ゴビの砂漠をはるばる西に迂回した旅も、終わりが近いのだ。
それから、御柳の疎らな群落をいくつか見た。その僅かな木陰で馬を降り、案内人は焼いた引き割の麦を説に勧めた。馬は並んで苜蓿を食みはじめている。
「申し訳ありません、胃の腑が受け付けませぬようで」
「まだ顔色が悪い。無理はなさらぬがよい」
「水だけ頂きまする」
鞍から水筒をはずして渡しながら、案内人はニヤリと笑った。
「これから宦官殿は匈奴の地に住まれるのですから・・」
「はあ?」
「馬乳酒にはくれぐれもお気をつけなされ。口当たりは悪くないが、酒精がきつい。騙されますぞ」
「面目ない」
公主も、当然自分の失態を知っているだろう。怒っているだろうか、と思った。
行列に追いついたのは、夕方だった。草原を、赤い夕日が照らしていた。
公主の一行は、漠縁に掛かる前と同じく、泉の傍らに天幕を張り竃を設え、宿営の準備をしてる。
もはや隠密に護衛する必要もないと見たのであろう、匈奴の太子、軍臣らも、少し離れたところで天幕を張っていた。
「かなり、砂漠の縁を離れたようですな」説が聞くと、
「もうすぐ泉があります。今宵はそこで宿営されるはず」という。
「ではもう・・」
「はい。ここはもう漠北、匈奴の本拠地といってもようございます」
老上単于の父、漢の高祖を完膚なきまでに破った冒頓単于はまた、東の東胡を滅ぼし西の月氏をさらに西方に追放し、膨張した版図を行政上三分した。すなわち東胡の跡を左賢王、月氏の支配下であった西域の統治を右賢王に託し、その中央を直轄地として獏北に単于が君臨する現体制を確立したのである。
(ついに・・)ゴビの砂漠をはるばる西に迂回した旅も、終わりが近いのだ。
それから、御柳の疎らな群落をいくつか見た。その僅かな木陰で馬を降り、案内人は焼いた引き割の麦を説に勧めた。馬は並んで苜蓿を食みはじめている。
「申し訳ありません、胃の腑が受け付けませぬようで」
「まだ顔色が悪い。無理はなさらぬがよい」
「水だけ頂きまする」
鞍から水筒をはずして渡しながら、案内人はニヤリと笑った。
「これから宦官殿は匈奴の地に住まれるのですから・・」
「はあ?」
「馬乳酒にはくれぐれもお気をつけなされ。口当たりは悪くないが、酒精がきつい。騙されますぞ」
「面目ない」
公主も、当然自分の失態を知っているだろう。怒っているだろうか、と思った。
行列に追いついたのは、夕方だった。草原を、赤い夕日が照らしていた。
公主の一行は、漠縁に掛かる前と同じく、泉の傍らに天幕を張り竃を設え、宿営の準備をしてる。
もはや隠密に護衛する必要もないと見たのであろう、匈奴の太子、軍臣らも、少し離れたところで天幕を張っていた。
Posted by 渋柿 at 06:16 | Comments(0)
2009年09月26日
「中行説の桑」33
目が覚めたとき、傍らにいたのは漢の兵一人だけだった。五人の道案内の将の中で一番若く、中行説とほぼ同年輩のように見える。もう、宿営の天幕も公主一行の姿もなかった。中行説は、天幕の内、牛の皮の上に寝かされていた。陽は、かなり高く登っている。
酔いつぶれた説を夜明け近く、あの匈奴の将がかついで連れてきたという。朝になっても目覚めぬ説に業を煮やし、道案内の長は案内人一人を残して出発してしまったのである。
頭が割れるように痛く、ひどく喉が渇いた。
「大分、ご馳走になったそうですな」説の顔を、案内人が覗いた。
「水、水を下され」
「ほれ、そう来るだろうと思いました」案内人が、皮の水筒を渡した。一気に飲んだ。
「それそれ、そういっぺんに飲みなさるな。これから隊に追いつくまで、半日は掛かりましょうで」案内人は渋い顔をした。
「申し訳ありませぬ」
「さあ、出掛けましょう」
「はい」
天幕を畳み、荷物を鞍につける。
「昨日宦官殿と一緒に飲んだのは、どなただかご存知ですか?」
先に自分の馬に跨った案内人が、笑みを含んでいった。
「いえ、存じません。単于の派遣された公主様護衛の長かと・・」
「太子じゃそうですぞ」
「ええっ!」
馬に乗りかけていた中行説は、鐙を踏み外してつんのめった。
(うへえ!)
昨日の自分の醜態を思い出した。顔から火が出る思いがした。
「太子とは、あの・・匈奴の」
「おう、老上単于の太子、軍臣様ですとよ。宦官殿は昨夜、太子を相手に大分おだを上げられたそうな」
「・・存じませんでした」
二日酔いのためばかりではない。羞恥心も加わり、心も身も最悪であった。
「行きまする」
案内人は馬を駆った。見失ったら一大事である。中行説は吐き気かつめまいに耐え、力を振り絞ってそれに続く。
酔いつぶれた説を夜明け近く、あの匈奴の将がかついで連れてきたという。朝になっても目覚めぬ説に業を煮やし、道案内の長は案内人一人を残して出発してしまったのである。
頭が割れるように痛く、ひどく喉が渇いた。
「大分、ご馳走になったそうですな」説の顔を、案内人が覗いた。
「水、水を下され」
「ほれ、そう来るだろうと思いました」案内人が、皮の水筒を渡した。一気に飲んだ。
「それそれ、そういっぺんに飲みなさるな。これから隊に追いつくまで、半日は掛かりましょうで」案内人は渋い顔をした。
「申し訳ありませぬ」
「さあ、出掛けましょう」
「はい」
天幕を畳み、荷物を鞍につける。
「昨日宦官殿と一緒に飲んだのは、どなただかご存知ですか?」
先に自分の馬に跨った案内人が、笑みを含んでいった。
「いえ、存じません。単于の派遣された公主様護衛の長かと・・」
「太子じゃそうですぞ」
「ええっ!」
馬に乗りかけていた中行説は、鐙を踏み外してつんのめった。
(うへえ!)
昨日の自分の醜態を思い出した。顔から火が出る思いがした。
「太子とは、あの・・匈奴の」
「おう、老上単于の太子、軍臣様ですとよ。宦官殿は昨夜、太子を相手に大分おだを上げられたそうな」
「・・存じませんでした」
二日酔いのためばかりではない。羞恥心も加わり、心も身も最悪であった。
「行きまする」
案内人は馬を駆った。見失ったら一大事である。中行説は吐き気かつめまいに耐え、力を振り絞ってそれに続く。
Posted by 渋柿 at 18:37 | Comments(0)
2009年09月26日
「中行説の桑」32
「旨い」
「旨いか?」
「はい。全く漢の食物などくそ食らえじゃ。のう大将殿、私の父は馬乳酒に目がありませんでなあ。といっても年に一度絹と取り替えた一壷を湯でうめて、ちびりちびりやるのがせいぜいでしたが。それは黍を醸した酒の造っておりましたが、それもせいぜい蚕小屋の瘴気払いに使うぐらいで。飲めたものではないと申しておりました」
「危ない」中行説の上体が傾いだ。焚き火の中につんのめりそうになって、将に抱きとめられる。
「いえいえ、大丈夫でごあいます」そういうろれつはほとんど回っていなかった。
「漢の食物など、もう、手に入れてもお捨てなさえ。肉や酪の方がずっと旨いし、便利じゃ。漢の一郡ほどの人衆しかおらぬ匈奴が漢と長城を挟んで一歩も引けを取らぬあ、衣食住を漢に頼らぬからですお」
いっていることはもう支離滅裂であった。
「衣食を漢い頼ってはなりませう!」
(私は何を言っているのだ・・)考えが纏まらなくなっている。(まあ、いいか。どうせ酔っ払いのたわごとだ)
そうは問屋が卸さなかった。酔っ払いには聞き手がいた。後述する経過で、史書の書き手がちゃんと纏まらぬものを無理矢理纏めてくれている。
「匈奴の人衆、漢の一郡に当たること能わずして、然も疆(つよ)きゆえんは、衣食異にして、漢に仰ぐなきをもってなり」また「それ漢の繪絮を得ば、以って草棘の中に馳よ。衣袴みな裂蔽せん。漢の食物を得ば、みなこれを去(す)て、以って潼酪の便美なるにしかざるを示せ」
今や頭も煮えるほど酔っ払ている中行説には、まったく知らぬが仏・・のことである。
「いやあ、匈奴は何も肉や乳だけで暮らしておるわけではないのじゃがなあ」将は、もはや予想以上に中行説が酔い乱れたのを、もてあましている。「それは狩りもするがなあ。牛や羊は我等の貴重な財産、それを殺して肉ばかり食べておってはあごが干上がる。我等とて冬にはひとつ所に留まりもするし、多少は穀物も作っておる」
「えは、年中牧草を求めて漂っておられるというわけえもないのですな」
「無論、羊らを飼いながら冬に畑を耕すだけではとても足らぬ」
「おうでしょうなあ」説の周りの世界は、すでにゆらゆらと揺れている。
「だからのう、時には力づくで穀物だけを作ってくれる者を・・」
「何ですお?」相手の言葉も、もうよく聞き取れない。
「いや、これは舌の滑りじゃ。漢の宦官よ、公主で縁も結んだ。これからも仲良く、絹や穀物を回してもらおうぞ」そういって若い将は馬乳酒に口を付けた。
「いえ、私はもう漢の宦官ではござりませう。匈奴の単于の后・・閼氏というそうですな、その閼氏の傳役じゃ。皮衣を着ますお、肉や酪を食べますお。それでも少しは・・穀物も食べますお」そう答えたところまでは、かろうじて覚えているが、何事か大酔の上の悲憤慷慨は止めなかったようである。
遠く、匈奴の将の哄笑を聞いたような気がしたが、意識はすうっと白濁した。
「旨いか?」
「はい。全く漢の食物などくそ食らえじゃ。のう大将殿、私の父は馬乳酒に目がありませんでなあ。といっても年に一度絹と取り替えた一壷を湯でうめて、ちびりちびりやるのがせいぜいでしたが。それは黍を醸した酒の造っておりましたが、それもせいぜい蚕小屋の瘴気払いに使うぐらいで。飲めたものではないと申しておりました」
「危ない」中行説の上体が傾いだ。焚き火の中につんのめりそうになって、将に抱きとめられる。
「いえいえ、大丈夫でごあいます」そういうろれつはほとんど回っていなかった。
「漢の食物など、もう、手に入れてもお捨てなさえ。肉や酪の方がずっと旨いし、便利じゃ。漢の一郡ほどの人衆しかおらぬ匈奴が漢と長城を挟んで一歩も引けを取らぬあ、衣食住を漢に頼らぬからですお」
いっていることはもう支離滅裂であった。
「衣食を漢い頼ってはなりませう!」
(私は何を言っているのだ・・)考えが纏まらなくなっている。(まあ、いいか。どうせ酔っ払いのたわごとだ)
そうは問屋が卸さなかった。酔っ払いには聞き手がいた。後述する経過で、史書の書き手がちゃんと纏まらぬものを無理矢理纏めてくれている。
「匈奴の人衆、漢の一郡に当たること能わずして、然も疆(つよ)きゆえんは、衣食異にして、漢に仰ぐなきをもってなり」また「それ漢の繪絮を得ば、以って草棘の中に馳よ。衣袴みな裂蔽せん。漢の食物を得ば、みなこれを去(す)て、以って潼酪の便美なるにしかざるを示せ」
今や頭も煮えるほど酔っ払ている中行説には、まったく知らぬが仏・・のことである。
「いやあ、匈奴は何も肉や乳だけで暮らしておるわけではないのじゃがなあ」将は、もはや予想以上に中行説が酔い乱れたのを、もてあましている。「それは狩りもするがなあ。牛や羊は我等の貴重な財産、それを殺して肉ばかり食べておってはあごが干上がる。我等とて冬にはひとつ所に留まりもするし、多少は穀物も作っておる」
「えは、年中牧草を求めて漂っておられるというわけえもないのですな」
「無論、羊らを飼いながら冬に畑を耕すだけではとても足らぬ」
「おうでしょうなあ」説の周りの世界は、すでにゆらゆらと揺れている。
「だからのう、時には力づくで穀物だけを作ってくれる者を・・」
「何ですお?」相手の言葉も、もうよく聞き取れない。
「いや、これは舌の滑りじゃ。漢の宦官よ、公主で縁も結んだ。これからも仲良く、絹や穀物を回してもらおうぞ」そういって若い将は馬乳酒に口を付けた。
「いえ、私はもう漢の宦官ではござりませう。匈奴の単于の后・・閼氏というそうですな、その閼氏の傳役じゃ。皮衣を着ますお、肉や酪を食べますお。それでも少しは・・穀物も食べますお」そう答えたところまでは、かろうじて覚えているが、何事か大酔の上の悲憤慷慨は止めなかったようである。
遠く、匈奴の将の哄笑を聞いたような気がしたが、意識はすうっと白濁した。
Posted by 渋柿 at 05:11 | Comments(0)
2009年09月25日
「中行説の桑」31
匈奴の将の狙い通りというべきであろう。強烈な酒精は、説の中枢神経に「自白剤」めいた作用をあらわしている。
「ほう和蕃公主が」
「じゃが、みな死んでしまいました。卵から孵ったばかりで。当たり前じゃ。草も生えぬ漠縁で、食べる桑などあるものか」次ぎ次ぎに力尽きていった小蚕の姿が、瞼に甦った。
それはあの十一歳の夏の、病気で死滅した小屋の蚕に重なる。悲しみが、こみ上げた。
「それは気の毒な。袋の酒はまだあるぞ、どうじゃ」
「頂きます」
若い将は勧め上手、聞き上手だった。三杯目を干す頃には、説は公主が「折角嫁ぐなら背の君に面白い手土産を」と、蚕や桑を持ち出したいきさつを、洗いざらいしゃべっていた。
天空の月が、少しずつ傾いていく。
「惜しいことをした、絹の素であったに」と干肉を噛む将に、説は妙な絡み方をした。
「何の、絹のどこがよいものか」説は大声をあげた。中行説は酒をたしなまない。初めてといってもよい小心者の大酔は、見事な「からみ上戸」を作り上げている。
「この旅袴を見て下され」説は鉤裂きだらけの袴の右足を投げ出した。「絹を着て長城の外を行けば、茨の棘で馬に乗っておってもこの体たらくじゃ。わずか半月足らずでですぞ。絹など、ぺらぺらするばかりで身をまもってなどくれぬ。おう、皮がよい。匈奴の方々には皮の衣こそ相応しい。私も漠北に着きましたら皮衣を着させていただきます」
くだを巻きながら(これは昔、酪の小父さんがいっていたことだ・・)と思った。
「干肉、もっと下され」
説は将にねだった。将は苦笑して、塊ごと説の手に渡した。肉を左手に、右手の器をぐいと突き出す。
「酒も頂きますぞ。皮袋の中身は、まだまだ半分にもなっておらぬようじゃ」
酒を含み、肉を喰らう。幼い日、母が与えてくれた酪湯や干肉の味と匂いが、酔いの中に甦る。
「ほう和蕃公主が」
「じゃが、みな死んでしまいました。卵から孵ったばかりで。当たり前じゃ。草も生えぬ漠縁で、食べる桑などあるものか」次ぎ次ぎに力尽きていった小蚕の姿が、瞼に甦った。
それはあの十一歳の夏の、病気で死滅した小屋の蚕に重なる。悲しみが、こみ上げた。
「それは気の毒な。袋の酒はまだあるぞ、どうじゃ」
「頂きます」
若い将は勧め上手、聞き上手だった。三杯目を干す頃には、説は公主が「折角嫁ぐなら背の君に面白い手土産を」と、蚕や桑を持ち出したいきさつを、洗いざらいしゃべっていた。
天空の月が、少しずつ傾いていく。
「惜しいことをした、絹の素であったに」と干肉を噛む将に、説は妙な絡み方をした。
「何の、絹のどこがよいものか」説は大声をあげた。中行説は酒をたしなまない。初めてといってもよい小心者の大酔は、見事な「からみ上戸」を作り上げている。
「この旅袴を見て下され」説は鉤裂きだらけの袴の右足を投げ出した。「絹を着て長城の外を行けば、茨の棘で馬に乗っておってもこの体たらくじゃ。わずか半月足らずでですぞ。絹など、ぺらぺらするばかりで身をまもってなどくれぬ。おう、皮がよい。匈奴の方々には皮の衣こそ相応しい。私も漠北に着きましたら皮衣を着させていただきます」
くだを巻きながら(これは昔、酪の小父さんがいっていたことだ・・)と思った。
「干肉、もっと下され」
説は将にねだった。将は苦笑して、塊ごと説の手に渡した。肉を左手に、右手の器をぐいと突き出す。
「酒も頂きますぞ。皮袋の中身は、まだまだ半分にもなっておらぬようじゃ」
酒を含み、肉を喰らう。幼い日、母が与えてくれた酪湯や干肉の味と匂いが、酔いの中に甦る。
Posted by 渋柿 at 06:59 | Comments(2)
2009年09月24日
「中行説の桑」30
「我々は、この川床の向こうに宿営しておる。立ち寄られぬか」
「それは・・」
「おう、よい折じゃ。不寝番にも挨拶申し、そなたが暫時こちらに参ると知らせればよかろう。そなた、名は?」
「中行説と申しまする。宦官でございます」
「宦官か。・・しばらく、待っておれ」
「はっ」
威圧された。(匈奴でも、かなり位の高い将らしいな)だがその威厳と、若さは妙にそぐわなくもある。
不寝番に断りをいって来た若い匈奴の将に伴われて、中行説は月光に照らされた川床を渡った。
もうしばらくすると、山から雪解けの水が流れて、この川床を潤すのだろう。だが、今はただ砂と礫が筋となり、乾いていた。匈奴の天幕は、中行説たちの物のように麻製ではなく、羊の毛を圧縮したフェルトだった。
漠縁の夜は冷える。匈奴の宿営でも、不寝番の篝火が焚かれていた。若い将は、焚き火を守っていた不寝番に、匈奴のことばで何か命じた。不寝番の兵達は叩頭して、火の傍を離れた。少し離れた場所でもう一つ焚き火を始める様子である。
(人払いか)この若い将が、単于の派遣した護衛の隊長のようだった。
これも命じていたのか、一人の兵が皮袋と金属の器を捧げてきて、焚き火のそばに置き、焚き火に大量の薪を足して去った。
説は、将と並んで座った。火がはぜる。
「ひとつ、どうだ」
「いえ、私は不調法で・・」
「馬乳酒は苦手かな」
「いえ・・父の大好物でございました」
「そうか、では長城の近くの出じゃな」
「はい生れは燕でございます。頂きまする」咽(むせ)た。湯で割らぬ馬乳酒の酒精分は高い。
「何を埋めていたのかな」炎を見ながら将は、訊ねた。穏やかだが、月の光のように冷涼とした声音だった。「ほれ、酒を干せ。肴もあるぞ」若い将は、腰に下げた皮袋を開き、なにやら固まりを出した。
「それは?」
「兎の干肉じゃ。さあ、一気にやれ」中行説は、目をつぶって酒を流し込んだ。
(うっ)苦かった。
口の中に火を放たれたようだった。馬の乳を醸しその上蒸留したきつい酒精である。やっと空にした器に、将は裂いた干肉を投げ入れた。口中の責苦を逃れようと、説はそれにかぶりついた。酔いが押し寄せる。
「まあ、もうひとつどうじゃ」将はまたなみなみと説の器に酒を満たした。そして手酌で、自分もちびりとあおる。「おちつくぞ」
その声も、何か遠く聞こえた。説は、二杯目の馬乳酒を一気に飲み干した。
「蚕・・蚕の死骸を埋めておりました」どうせ夜が明けて、あの場所を匈奴の兵たちに見つけられてしまうのだ・・と回る酔いの中で思った。
「何、蚕。そなた、蚕をここまで持ってきておったのか」
「はい、公主様のご命令で」
「それは・・」
「おう、よい折じゃ。不寝番にも挨拶申し、そなたが暫時こちらに参ると知らせればよかろう。そなた、名は?」
「中行説と申しまする。宦官でございます」
「宦官か。・・しばらく、待っておれ」
「はっ」
威圧された。(匈奴でも、かなり位の高い将らしいな)だがその威厳と、若さは妙にそぐわなくもある。
不寝番に断りをいって来た若い匈奴の将に伴われて、中行説は月光に照らされた川床を渡った。
もうしばらくすると、山から雪解けの水が流れて、この川床を潤すのだろう。だが、今はただ砂と礫が筋となり、乾いていた。匈奴の天幕は、中行説たちの物のように麻製ではなく、羊の毛を圧縮したフェルトだった。
漠縁の夜は冷える。匈奴の宿営でも、不寝番の篝火が焚かれていた。若い将は、焚き火を守っていた不寝番に、匈奴のことばで何か命じた。不寝番の兵達は叩頭して、火の傍を離れた。少し離れた場所でもう一つ焚き火を始める様子である。
(人払いか)この若い将が、単于の派遣した護衛の隊長のようだった。
これも命じていたのか、一人の兵が皮袋と金属の器を捧げてきて、焚き火のそばに置き、焚き火に大量の薪を足して去った。
説は、将と並んで座った。火がはぜる。
「ひとつ、どうだ」
「いえ、私は不調法で・・」
「馬乳酒は苦手かな」
「いえ・・父の大好物でございました」
「そうか、では長城の近くの出じゃな」
「はい生れは燕でございます。頂きまする」咽(むせ)た。湯で割らぬ馬乳酒の酒精分は高い。
「何を埋めていたのかな」炎を見ながら将は、訊ねた。穏やかだが、月の光のように冷涼とした声音だった。「ほれ、酒を干せ。肴もあるぞ」若い将は、腰に下げた皮袋を開き、なにやら固まりを出した。
「それは?」
「兎の干肉じゃ。さあ、一気にやれ」中行説は、目をつぶって酒を流し込んだ。
(うっ)苦かった。
口の中に火を放たれたようだった。馬の乳を醸しその上蒸留したきつい酒精である。やっと空にした器に、将は裂いた干肉を投げ入れた。口中の責苦を逃れようと、説はそれにかぶりついた。酔いが押し寄せる。
「まあ、もうひとつどうじゃ」将はまたなみなみと説の器に酒を満たした。そして手酌で、自分もちびりとあおる。「おちつくぞ」
その声も、何か遠く聞こえた。説は、二杯目の馬乳酒を一気に飲み干した。
「蚕・・蚕の死骸を埋めておりました」どうせ夜が明けて、あの場所を匈奴の兵たちに見つけられてしまうのだ・・と回る酔いの中で思った。
「何、蚕。そなた、蚕をここまで持ってきておったのか」
「はい、公主様のご命令で」
Posted by 渋柿 at 17:22 | Comments(0)
2009年09月24日
「中行説の桑」29
「やはり・・」
「これが二日ほどで紫色になりまして、更に五日で青くなり・・蚕が孵ります」
絶望的な気持ちになった。案内の長は、あと半月は砂漠の縁を進まねばならぬといっていた。桑どころか、草一本見えぬこのような所で孵った蚕は・・(死ぬしかあるまい)
長城での身体検査があり、今も護衛の漢兵の目がある。桑の葉一枚、携えることはできなかった。なすすべは、なかった。
孵ったばかりの蚕は米粒より小さい。それでも黒い毛を生やし、桑を求めて盛んに蠢いた。だが、与える桑は・・ない。二日後には、一匹、また一匹と力尽きていった。
獏縁(ばくえん)に道をとって十日目、現在地は浚稽(しゅけい)山の麓という。今でいうアルタイ山脈の東端、ゴビ砂漠の西端である。
深夜、中行説は長い薪を松明代わりに、天幕を出た。満月が、その要もなく足元を照らしていた。当直の兵士の目の届かぬと思われるところで、薪を振って火を消し捨てる。
素手で、砂を掘った。そして公主から託された手巾の包みごと、死んだ蚕を埋めた。
(やはり、無理だった。済まぬことをした)
中行説は、苦い思いで砂をかぶせる。月光が、ささやかな盛り土に光と影を作っていた。しばらく、黙然と座り込んでいた。
「何を埋められた」突然声を掛けられて、説は飛び上がった。
(見られた)
「漢の、公主のお供の方であろう」
「あなたは・・」やや訛りはあるが、正確な漢の言葉であった。「匈奴の将、ですね」
皮革戎(じゅう)衣(い)、匈奴の武装をした男が、光を浴びて立っていた。
「おう。単于の命で、陰ながら行列を守っておる。もう三日になろうか。気付かれなかったかな」
「はい」
男の声は思いがけず若かった。
(十七、八・・公主様より少し上か)
説は、月光に相手の横顔を透かして思った。
「何を、埋めた?」
「・・・」
一瞬、正直に話すかどうか迷った。
「これが二日ほどで紫色になりまして、更に五日で青くなり・・蚕が孵ります」
絶望的な気持ちになった。案内の長は、あと半月は砂漠の縁を進まねばならぬといっていた。桑どころか、草一本見えぬこのような所で孵った蚕は・・(死ぬしかあるまい)
長城での身体検査があり、今も護衛の漢兵の目がある。桑の葉一枚、携えることはできなかった。なすすべは、なかった。
孵ったばかりの蚕は米粒より小さい。それでも黒い毛を生やし、桑を求めて盛んに蠢いた。だが、与える桑は・・ない。二日後には、一匹、また一匹と力尽きていった。
獏縁(ばくえん)に道をとって十日目、現在地は浚稽(しゅけい)山の麓という。今でいうアルタイ山脈の東端、ゴビ砂漠の西端である。
深夜、中行説は長い薪を松明代わりに、天幕を出た。満月が、その要もなく足元を照らしていた。当直の兵士の目の届かぬと思われるところで、薪を振って火を消し捨てる。
素手で、砂を掘った。そして公主から託された手巾の包みごと、死んだ蚕を埋めた。
(やはり、無理だった。済まぬことをした)
中行説は、苦い思いで砂をかぶせる。月光が、ささやかな盛り土に光と影を作っていた。しばらく、黙然と座り込んでいた。
「何を埋められた」突然声を掛けられて、説は飛び上がった。
(見られた)
「漢の、公主のお供の方であろう」
「あなたは・・」やや訛りはあるが、正確な漢の言葉であった。「匈奴の将、ですね」
皮革戎(じゅう)衣(い)、匈奴の武装をした男が、光を浴びて立っていた。
「おう。単于の命で、陰ながら行列を守っておる。もう三日になろうか。気付かれなかったかな」
「はい」
男の声は思いがけず若かった。
(十七、八・・公主様より少し上か)
説は、月光に相手の横顔を透かして思った。
「何を、埋めた?」
「・・・」
一瞬、正直に話すかどうか迷った。
Posted by 渋柿 at 06:43 | Comments(0)
2009年09月23日
「中行説の桑」28
まず一行は黄河を上流へと北上し長城に至った。そこには塞(とりで)の長官が、新しい馬車や馬、輜重糧秣を用意していた。ここで公主以下、兵士侍女も所持品を含めた身体検査を受けた。無論、公主や侍女を調べるためには、長城近くの住民の妻を待機させている。
「規則でございますれば・・」長官は、気の毒そうにいって、兵や女達をそれぞれの天幕にいざなった。
かなり入念な調べだったが、公主の被り物の中身は、無事のまま、長城を越えることができた。
「この辺りが、秦の世のころ蒙恬将軍が匈奴から奪った地ですね」公主は、馬車の幌の内から中行説に話しかけた。
「はい。秦は匈奴との戦いに国力を消耗して滅びたとも申せますなあ。昔は長城がもっと北を走っていたそうでございます」
「秦の太子が弟に謀られて自害したのも、ここでしたなあ」
この旅の途次、徒然の故か公主はよく説に話しかける。通過する土地について、驚くほど知悉していることに、説は舌を巻いた。 さらに北上を続け、黄河が「几」の字型に大きく湾曲するところで、浅瀬を選び河を渡った。ここまで来るのに十日を要している。
(蚕種は、大丈夫であろうか)中行説は気が気ではない。
護衛の兵士たちは夕暮れには天幕を張り、自炊する。公主の食事は三人の侍女が炊ぎ、説が運んだ。
公主の馬車の幌の内に入ることが許されているのは、説だけだった。公主は馬車の中で食事をし、また眠った。
侍女達も夜は兵士が用意した天幕で休む。説はその天幕で一緒に眠ることもあったが、たいがい馬車の傍らで焚き火をしながら夜を明かした。
長城を越え、三日ほどは路傍に小さい流れや泉もあり、薊(あざみ)に似た花や御柳(タマリスク)も生えていた。苜蓿(うまごやし)が柔らかく茂る場所もあった。
(これなら、桑も育つかもしれぬ)と、中行説はひそかに安堵した。しかし、それは早計であった。
三日目からいよいよ、石と砂の世界に入った。の夕方、道案内の長が「明日より砂漠の縁を進むことになります」といい、宿営地のそばの泉から水瓶や皮袋に水を満たし始めた。
「これより先、泉は当分ございません。皮袋は兵一人一人、自分の馬に積みまするが、大瓶は馬車に積みます」
すでに荷車には昨夜の宿営地で集めた薪が秣と共に積まれている。侍女達も馬車を水瓶に明け渡し、ここからは替え馬に乗ることとなる。
泉に水を飲みに来ていたらしい羚(かもしか)が時ならぬ人馬のざわめきに驚いたのか、荒野へ駆け去って行った。
「中行説、卵の色が変なのです」水汲みでやや遅くなった夕食を捧げて公主の馬車の幌の内に入ると、公主が自分の被り物を脱ぎながらいった。
詰め物の真綿の中に、絹に包んだ蚕種と桑の種が潜めてある。公主の指が真綿を抜き、絹を開く。長安を出たときは黄色かった卵は、鮮やかな紅色に変わっていた。
「卵が、目覚めたのです」
「規則でございますれば・・」長官は、気の毒そうにいって、兵や女達をそれぞれの天幕にいざなった。
かなり入念な調べだったが、公主の被り物の中身は、無事のまま、長城を越えることができた。
「この辺りが、秦の世のころ蒙恬将軍が匈奴から奪った地ですね」公主は、馬車の幌の内から中行説に話しかけた。
「はい。秦は匈奴との戦いに国力を消耗して滅びたとも申せますなあ。昔は長城がもっと北を走っていたそうでございます」
「秦の太子が弟に謀られて自害したのも、ここでしたなあ」
この旅の途次、徒然の故か公主はよく説に話しかける。通過する土地について、驚くほど知悉していることに、説は舌を巻いた。 さらに北上を続け、黄河が「几」の字型に大きく湾曲するところで、浅瀬を選び河を渡った。ここまで来るのに十日を要している。
(蚕種は、大丈夫であろうか)中行説は気が気ではない。
護衛の兵士たちは夕暮れには天幕を張り、自炊する。公主の食事は三人の侍女が炊ぎ、説が運んだ。
公主の馬車の幌の内に入ることが許されているのは、説だけだった。公主は馬車の中で食事をし、また眠った。
侍女達も夜は兵士が用意した天幕で休む。説はその天幕で一緒に眠ることもあったが、たいがい馬車の傍らで焚き火をしながら夜を明かした。
長城を越え、三日ほどは路傍に小さい流れや泉もあり、薊(あざみ)に似た花や御柳(タマリスク)も生えていた。苜蓿(うまごやし)が柔らかく茂る場所もあった。
(これなら、桑も育つかもしれぬ)と、中行説はひそかに安堵した。しかし、それは早計であった。
三日目からいよいよ、石と砂の世界に入った。の夕方、道案内の長が「明日より砂漠の縁を進むことになります」といい、宿営地のそばの泉から水瓶や皮袋に水を満たし始めた。
「これより先、泉は当分ございません。皮袋は兵一人一人、自分の馬に積みまするが、大瓶は馬車に積みます」
すでに荷車には昨夜の宿営地で集めた薪が秣と共に積まれている。侍女達も馬車を水瓶に明け渡し、ここからは替え馬に乗ることとなる。
泉に水を飲みに来ていたらしい羚(かもしか)が時ならぬ人馬のざわめきに驚いたのか、荒野へ駆け去って行った。
「中行説、卵の色が変なのです」水汲みでやや遅くなった夕食を捧げて公主の馬車の幌の内に入ると、公主が自分の被り物を脱ぎながらいった。
詰め物の真綿の中に、絹に包んだ蚕種と桑の種が潜めてある。公主の指が真綿を抜き、絹を開く。長安を出たときは黄色かった卵は、鮮やかな紅色に変わっていた。
「卵が、目覚めたのです」
Posted by 渋柿 at 16:40 | Comments(0)
2009年09月23日
「中行説の桑」27
三
先代、冒頓単于が匈奴の版図を最大にしていた。現在のモンゴル共和国をすっぽりと包み、東南は漢の長城に肉薄している。そして北はロシア領バイカル湖、西はカザフスタン領バルハシ湖をさらに越えて、その勢力を伸ばしていた。和蕃公主が嫁ぐべき老上単于の本拠地は、数千里の彼方の漠北・・ゴビ砂漠を突っ切ったその向こうである。
清明節の日、未央宮の正殿に文武百官が居並ぶ前で、文帝は公主の両耳に手ずから翡翠の耳飾りを着けた。餞(はなむけ)である。公主は跪いて暇を乞い、輿入れの一行は長安を出発した。何度も皇帝の使者を護衛して獏北に赴いた将五騎が、道案内として先導する。幌を掛けた公主の馬車の前後を、五十人の騎兵が守護し、三人の侍女が乗る無蓋の馬車が従った。最後尾は輜重を積んだ荷車が二十輌続く。中行説も騎馬で、公主の馬車の脇にぴたりと寄り添った。
驚くべきことであった。何とおしのび、窶した騎乗姿で、皇帝は花嫁行列を渭水のほとりまで見送ったのだ。
「道中、無事を祈っておる」
河畔の柳は清明の季を違えず、柔らかく萌え初めていた。文帝は馬上その枝を折り、馬車を降りて跪いた公主にそのまま渡した。
「陛下」公主は帽子の上の巾角(ベール)を脱ぎ、その上に折柳を受けた。
折柳。旅人の無事を祈る習いのものである。通常は丸く環にして渡す。「環」は、「還」に通ずる。無事に還れとの意である。異郷に嫁ぐ公主には、永遠に「還る」日はない。枝のままの折柳を渡すしかないのだ。
中行説は進み出、公主から折柳を受けて拝し、公主の馬車の幌にかざした。そして、公主の帽子を再び巾角で覆った。この帽子の内に、蚕種と桑の種を潜ませていることは、公主と中行説だけがしか知らぬ。
「参ります」
公主はもう一度深く皇帝を拝し、馬車に乗った。
「うむ」
輿入れのためだけに作られた仮橋を、花嫁行列は渡る。渡りきって振り返ると、騎乗の文帝の姿は小さくなってなお対岸にあった。
先代、冒頓単于が匈奴の版図を最大にしていた。現在のモンゴル共和国をすっぽりと包み、東南は漢の長城に肉薄している。そして北はロシア領バイカル湖、西はカザフスタン領バルハシ湖をさらに越えて、その勢力を伸ばしていた。和蕃公主が嫁ぐべき老上単于の本拠地は、数千里の彼方の漠北・・ゴビ砂漠を突っ切ったその向こうである。
清明節の日、未央宮の正殿に文武百官が居並ぶ前で、文帝は公主の両耳に手ずから翡翠の耳飾りを着けた。餞(はなむけ)である。公主は跪いて暇を乞い、輿入れの一行は長安を出発した。何度も皇帝の使者を護衛して獏北に赴いた将五騎が、道案内として先導する。幌を掛けた公主の馬車の前後を、五十人の騎兵が守護し、三人の侍女が乗る無蓋の馬車が従った。最後尾は輜重を積んだ荷車が二十輌続く。中行説も騎馬で、公主の馬車の脇にぴたりと寄り添った。
驚くべきことであった。何とおしのび、窶した騎乗姿で、皇帝は花嫁行列を渭水のほとりまで見送ったのだ。
「道中、無事を祈っておる」
河畔の柳は清明の季を違えず、柔らかく萌え初めていた。文帝は馬上その枝を折り、馬車を降りて跪いた公主にそのまま渡した。
「陛下」公主は帽子の上の巾角(ベール)を脱ぎ、その上に折柳を受けた。
折柳。旅人の無事を祈る習いのものである。通常は丸く環にして渡す。「環」は、「還」に通ずる。無事に還れとの意である。異郷に嫁ぐ公主には、永遠に「還る」日はない。枝のままの折柳を渡すしかないのだ。
中行説は進み出、公主から折柳を受けて拝し、公主の馬車の幌にかざした。そして、公主の帽子を再び巾角で覆った。この帽子の内に、蚕種と桑の種を潜ませていることは、公主と中行説だけがしか知らぬ。
「参ります」
公主はもう一度深く皇帝を拝し、馬車に乗った。
「うむ」
輿入れのためだけに作られた仮橋を、花嫁行列は渡る。渡りきって振り返ると、騎乗の文帝の姿は小さくなってなお対岸にあった。
Posted by 渋柿 at 07:11 | Comments(0)
2009年09月22日
「中行説の桑」26
それからしばらく、中行説は公主の旅立ちの準備に忙しかった。
「中行説ではないか」 匈奴の衣食習俗の確認のため、石渠閣でその関係の記録を調べていた説は、突然頭上から声を掛けられて飛び上がった。
宦官として皇帝にも近侍する身分となっている。ここで記録を閲覧しても誰も咎めなどしないはずであったが、はじめてここに来た日に受けた屈辱と衝撃は、忘れることなく心に刻まれてしまっている。
「これは司馬喜様」幼年の説に学問の手ほどきをしてくれた史官であった。十に少し足らぬほどの男の子を連れている。
「久しぶりじゃなあ」
「はい」
互いに畑違いの仕事である。あれから、何かの折に姿を見ることはあってもゆっくり語る暇もなく時が過ぎている。
「匈奴に行くことに成ったとなあ」
「陛下のご命令でございますれば」説はただそういった。詳しく話せば公主や張沢、ひいては皇帝にも差しさわりがある。
「匈奴関係の記録か」司馬喜は説が読んでいる竹簡を覗き込んだ。
「相変わらず真面目じゃのう。まあ、どのような境遇になっても学ぶこころざしを失わなければ道は続こうで・・挫けるなよ」
「はい」
「父上、このお方は?」喜に寄り添った少年が聞いた。説は少年に向き直った。
「ご子息ですな。後宮に仕えております中行説と申します。昔、お父上に学問の手ほどきを受けました」
「これは申し遅れました。司馬喜の長子、談と申します。宜しくお願いいたします」少年は行儀よく挨拶し、拱手した。
「痛み入ります」節も拱手を返す。
「司馬喜様、今日はご子息にご教授ですか」
「おう、調度沐休でなあ」
「お約束でございます。今日は詩経をみっちり教えてくださいませ」
少年が、甘えたように父にいう。
「よしよし。・・説、出立の前に暇があれば、我が屋敷に訪ねてくるがよい。我が家の桑も、もうはつ夏には実を結ぶようになったぞ」
「桑?」
「ほれ、談が生れたときに庭に植えた桑の木よ。桑葉湯なら、いつでも馳走できる」
「・・ありがとうございます」
「では」
「失礼いたします」
説が子供の頃してくれたように、これから文献を借り出して、楡の木陰ででも息子に読んでやるのだろう。寂しい微笑を浮かべて、説は父子の後姿を見送った。
(子にせがまれて詩を講じる、か)そのような幸せは、説には無縁であった。(申し訳ないが、お屋敷にはお伺いせず・・出立しよう)
説はまた文献に目を落とした。
「中行説ではないか」 匈奴の衣食習俗の確認のため、石渠閣でその関係の記録を調べていた説は、突然頭上から声を掛けられて飛び上がった。
宦官として皇帝にも近侍する身分となっている。ここで記録を閲覧しても誰も咎めなどしないはずであったが、はじめてここに来た日に受けた屈辱と衝撃は、忘れることなく心に刻まれてしまっている。
「これは司馬喜様」幼年の説に学問の手ほどきをしてくれた史官であった。十に少し足らぬほどの男の子を連れている。
「久しぶりじゃなあ」
「はい」
互いに畑違いの仕事である。あれから、何かの折に姿を見ることはあってもゆっくり語る暇もなく時が過ぎている。
「匈奴に行くことに成ったとなあ」
「陛下のご命令でございますれば」説はただそういった。詳しく話せば公主や張沢、ひいては皇帝にも差しさわりがある。
「匈奴関係の記録か」司馬喜は説が読んでいる竹簡を覗き込んだ。
「相変わらず真面目じゃのう。まあ、どのような境遇になっても学ぶこころざしを失わなければ道は続こうで・・挫けるなよ」
「はい」
「父上、このお方は?」喜に寄り添った少年が聞いた。説は少年に向き直った。
「ご子息ですな。後宮に仕えております中行説と申します。昔、お父上に学問の手ほどきを受けました」
「これは申し遅れました。司馬喜の長子、談と申します。宜しくお願いいたします」少年は行儀よく挨拶し、拱手した。
「痛み入ります」節も拱手を返す。
「司馬喜様、今日はご子息にご教授ですか」
「おう、調度沐休でなあ」
「お約束でございます。今日は詩経をみっちり教えてくださいませ」
少年が、甘えたように父にいう。
「よしよし。・・説、出立の前に暇があれば、我が屋敷に訪ねてくるがよい。我が家の桑も、もうはつ夏には実を結ぶようになったぞ」
「桑?」
「ほれ、談が生れたときに庭に植えた桑の木よ。桑葉湯なら、いつでも馳走できる」
「・・ありがとうございます」
「では」
「失礼いたします」
説が子供の頃してくれたように、これから文献を借り出して、楡の木陰ででも息子に読んでやるのだろう。寂しい微笑を浮かべて、説は父子の後姿を見送った。
(子にせがまれて詩を講じる、か)そのような幸せは、説には無縁であった。(申し訳ないが、お屋敷にはお伺いせず・・出立しよう)
説はまた文献に目を落とした。
Posted by 渋柿 at 17:54 | Comments(0)
2009年09月22日
「中行説の桑」25
(なぜ、私はこの時、この姫にたよったのだろう)後年、中行説はこの自問自答を繰り返した。よりにもよってまだ幼い少女に、であった。張沢にすべてを打ち明け、多少ばつの悪い思いを忍んでもらうなり、幾重にも詫びればそれはそれで解決できたのだ。
少なくとも中華の皇帝に頭を下げさせる事態にはならなかったはずである。
(それを唯々諾々と。やはり姫の器が、大きかったのだな)
本当に、文帝は中行説に頭を下げて、匈奴に扈従するように頼んだのだ。(まるで実の娘のような・・)公主への情愛であった。(不憫・・なのだろうな)説は、匈奴に嫁ぐ公主のこれからを思った。
国益といい、国の利不利といってもそれは王朝、王侯貴族の益であり利過ぎぬのかもしれぬ。これからも和番公主は「別に漢に仇なすつもりはない」といいつつ、匈奴の民によかれとその聡明さを発揮するだろう。それが嫁いだ公主自身の幸せにも通じる。だが、それが劉氏の漢王朝にとっては「禍」かもしれないのだ。そして自分も必ずや、公主の働きを全力で支えるだろう。
万一匈奴の地で絹が生産されるようになれば、匈奴は交易で今より豊かになる。それは一方では、絹を外交の道具として来た漢の王室の既得権を侵すことにもなる。(しかたのないことなのだが・・)
「中行説!」ついに皇帝が声を荒げた。頭を下げてまで頼んでいるのに、心ここにあらずというように、説は下を向いていた。
「はっ、仰せのとおりにいたします」慌てて、説は答えた。「でも・・きっと漢にとっては患(うれい)になることでしょうなあ」
ため息とともに続けた言葉は、ほとんど説の口の中のもごもごとした呟きであった。当の皇帝の耳には届いていない。それが、侍立していた宦官か侍女の中に、驚異的聴力の持ち主がいたことが説の不幸だった。
「必我行也、為漢患者。(われ行かば必ず、漢の患ともなるなり)」
まさかこの言葉が、七十年後に編まれる史書に記されるなど、中行説には考え及ばないことである。ましてそれが後世ずっと、「こんなに嫌がっている俺を無理矢理匈奴に送るというなら、こちらにも考えがある。必ず、漢の禍になってやるぞ」という捨て台詞と解釈されるなどと知ったならば、当の本人は衝撃のあまり卒倒したことであろう。
少なくとも中華の皇帝に頭を下げさせる事態にはならなかったはずである。
(それを唯々諾々と。やはり姫の器が、大きかったのだな)
本当に、文帝は中行説に頭を下げて、匈奴に扈従するように頼んだのだ。(まるで実の娘のような・・)公主への情愛であった。(不憫・・なのだろうな)説は、匈奴に嫁ぐ公主のこれからを思った。
国益といい、国の利不利といってもそれは王朝、王侯貴族の益であり利過ぎぬのかもしれぬ。これからも和番公主は「別に漢に仇なすつもりはない」といいつつ、匈奴の民によかれとその聡明さを発揮するだろう。それが嫁いだ公主自身の幸せにも通じる。だが、それが劉氏の漢王朝にとっては「禍」かもしれないのだ。そして自分も必ずや、公主の働きを全力で支えるだろう。
万一匈奴の地で絹が生産されるようになれば、匈奴は交易で今より豊かになる。それは一方では、絹を外交の道具として来た漢の王室の既得権を侵すことにもなる。(しかたのないことなのだが・・)
「中行説!」ついに皇帝が声を荒げた。頭を下げてまで頼んでいるのに、心ここにあらずというように、説は下を向いていた。
「はっ、仰せのとおりにいたします」慌てて、説は答えた。「でも・・きっと漢にとっては患(うれい)になることでしょうなあ」
ため息とともに続けた言葉は、ほとんど説の口の中のもごもごとした呟きであった。当の皇帝の耳には届いていない。それが、侍立していた宦官か侍女の中に、驚異的聴力の持ち主がいたことが説の不幸だった。
「必我行也、為漢患者。(われ行かば必ず、漢の患ともなるなり)」
まさかこの言葉が、七十年後に編まれる史書に記されるなど、中行説には考え及ばないことである。ましてそれが後世ずっと、「こんなに嫌がっている俺を無理矢理匈奴に送るというなら、こちらにも考えがある。必ず、漢の禍になってやるぞ」という捨て台詞と解釈されるなどと知ったならば、当の本人は衝撃のあまり卒倒したことであろう。
Posted by 渋柿 at 07:59 | Comments(0)
2009年09月21日
「中行説の桑」24
「宦官となって十有余年、やっと屋敷を賜って父母と共に暮らせようという中行説でございます。何ゆえ無慈悲にも父母の上京も待たず匈奴の地に遣わされますのか。はい、心利いた宦官が公主様扈従に必要とあらば、何とぞ不肖この張沢にお命じください。私は天涯孤独の身、嘆くものもございません。どうか陛下、中行説だけはお許しください」
ついには皇帝相手にそう掻き口説いた。その勢いと善意に、説も今更、「いえ、私は別に・・匈奴へでもどこでも参りますが」
とは口にしかねた。そんなことをいえば、一世一代の男気を振るった張沢の顔をつぶすことにもなりかねぬ。小心者、はっきり言いたいこともいえぬという中行説の欠点を知りながら、それ以上に真面目、誠実という長所により目を向けてくれ、引立ててくれた上司なのだ。
同僚たちは、
「中行説は、宦官令様のお袖にすがって、匈奴行きを拒み続けているらしいぞ」
「無理もない、よっぽど嫌なのだろうな」
「嫌がらぬ宦官などいるものか。だが誰かが行かねばならぬのになあ」
「中行説のやつ、本当に宦官令様を身代わりにするつもりか」
「まったく我儘が過ぎる」
などと物陰で噂をしている。
(困った・・)
自分は、どんな陰口をきかれてもよい。だがこのままでは、四十近い張沢が本当に匈奴の地に行くことになってしまう。困惑の末、中行説は和蕃公主に密かに相談した。
「私はまた、本当にそなたが匈奴行きを嫌がっているのだと思っておりましたよ」説の話を聞き、公主は笑い出した。
「申し訳ございません。はっきり物が申せぬ私の気の弱さから、とんでもない大騒動になってしまいました」
公主はしばらく笑い続け涙をこぼして、ついには苦しそうに胸を押さえた。
まぎれもなくそんな所は「箸がこけても可笑しい」年頃の少女そのままである。「いえねえ、前に陛下が『長楽宮で一番そなたに優しい宦官は誰かな?』とお聞きになってつい『それは中行説でございます』って申し上げてしまいましたの。酪や蚕のことでお世話になりましたしねえ、まさか輿入れの傳役のこととは思わず、何か陛下がご褒美を下さるとかん違いしました」
確かに宦官令のお気に入り、宮城の外に屋敷も賜ろうという高位の宦官が、長城の外に送られるのは異例であった。
普通は、もっと下位のものの役目である。
「それに、ふた親に拒まれたとは、辛かったでしょうね。笑ったりして、済まぬ」
「いえ、それは初めから判っておりましたので。それよりも何とか波風立てず、私が匈奴にお供できるようお執成し頂けませんか」
公主は、しばらく考えていた。そして、大きく頷いた。
「私が、思いっきり我儘を申します」
「我儘?」
「中行説が扈従せぬなら嫁ぎませんと、陛下に申し上げるのです。あのお優しい陛下を困らせますけど・・直々に、きっと頭を下げんばかりにそなたにお命じになりますわ」
「まさか、陛下が宦官風情に・・」
「いいえ、きっと陛下はそうなさいます」自信を持って、公主は答えた「そしたら、そなたは・・」
「はい、嫌々渋々・・お受けいたすのでございますな」
「これでそなたは誰の顔もつぶさず、私に従うことができますね。もっとも、陛下の思し召しにギリギリまで楯突いたとはいわれるでしょうけど」
「はい、多少の陰口は何でもございません。これで宦官令様のお顔も立て、誰にも迷惑かけません。ありがとうございます」
(賢い姫だ)改めて舌を巻いた。(この姫が匈奴に嫁いだら、漢の禍(わざわい)になるのではないか)ふと、思った。
公主の作戦は図に当たった。
ついには皇帝相手にそう掻き口説いた。その勢いと善意に、説も今更、「いえ、私は別に・・匈奴へでもどこでも参りますが」
とは口にしかねた。そんなことをいえば、一世一代の男気を振るった張沢の顔をつぶすことにもなりかねぬ。小心者、はっきり言いたいこともいえぬという中行説の欠点を知りながら、それ以上に真面目、誠実という長所により目を向けてくれ、引立ててくれた上司なのだ。
同僚たちは、
「中行説は、宦官令様のお袖にすがって、匈奴行きを拒み続けているらしいぞ」
「無理もない、よっぽど嫌なのだろうな」
「嫌がらぬ宦官などいるものか。だが誰かが行かねばならぬのになあ」
「中行説のやつ、本当に宦官令様を身代わりにするつもりか」
「まったく我儘が過ぎる」
などと物陰で噂をしている。
(困った・・)
自分は、どんな陰口をきかれてもよい。だがこのままでは、四十近い張沢が本当に匈奴の地に行くことになってしまう。困惑の末、中行説は和蕃公主に密かに相談した。
「私はまた、本当にそなたが匈奴行きを嫌がっているのだと思っておりましたよ」説の話を聞き、公主は笑い出した。
「申し訳ございません。はっきり物が申せぬ私の気の弱さから、とんでもない大騒動になってしまいました」
公主はしばらく笑い続け涙をこぼして、ついには苦しそうに胸を押さえた。
まぎれもなくそんな所は「箸がこけても可笑しい」年頃の少女そのままである。「いえねえ、前に陛下が『長楽宮で一番そなたに優しい宦官は誰かな?』とお聞きになってつい『それは中行説でございます』って申し上げてしまいましたの。酪や蚕のことでお世話になりましたしねえ、まさか輿入れの傳役のこととは思わず、何か陛下がご褒美を下さるとかん違いしました」
確かに宦官令のお気に入り、宮城の外に屋敷も賜ろうという高位の宦官が、長城の外に送られるのは異例であった。
普通は、もっと下位のものの役目である。
「それに、ふた親に拒まれたとは、辛かったでしょうね。笑ったりして、済まぬ」
「いえ、それは初めから判っておりましたので。それよりも何とか波風立てず、私が匈奴にお供できるようお執成し頂けませんか」
公主は、しばらく考えていた。そして、大きく頷いた。
「私が、思いっきり我儘を申します」
「我儘?」
「中行説が扈従せぬなら嫁ぎませんと、陛下に申し上げるのです。あのお優しい陛下を困らせますけど・・直々に、きっと頭を下げんばかりにそなたにお命じになりますわ」
「まさか、陛下が宦官風情に・・」
「いいえ、きっと陛下はそうなさいます」自信を持って、公主は答えた「そしたら、そなたは・・」
「はい、嫌々渋々・・お受けいたすのでございますな」
「これでそなたは誰の顔もつぶさず、私に従うことができますね。もっとも、陛下の思し召しにギリギリまで楯突いたとはいわれるでしょうけど」
「はい、多少の陰口は何でもございません。これで宦官令様のお顔も立て、誰にも迷惑かけません。ありがとうございます」
(賢い姫だ)改めて舌を巻いた。(この姫が匈奴に嫁いだら、漢の禍(わざわい)になるのではないか)ふと、思った。
公主の作戦は図に当たった。
Posted by 渋柿 at 16:11 | Comments(0)
2009年09月21日
「中行説の桑」23
「中行説、困ったことになったぞ」深夜の宿直室に宦官令の張沢が現れて、声を潜めたのは二月も末。
「困ったこと、とは?」一瞬、公主に蚕等を渡したことが顕われたか、と身を堅くした。
(公主様の身に禍が!)
張沢は深い息を吐いた。
「陛下がな、和蕃公主降嫁の折には、傳役として中行説を同行させてはどうかとおっしゃったのだ」
「えっ、私を・・でございますか」
何だそんなことか、と説の体から力が抜けた。国境近くに生れ、実際に匈奴とも接して育った説には、むしろ適任だろう。
だが、張沢は髭のないのっぺりとした顔を思い切りしかめている。
「判っておる」ぐいと張沢は説に顔を近づけた。「おう、判っておるとも。そなたはこの儂の大事な片腕、ちと気は弱いが・・お前ほど優秀な宦官は居らぬ」
「左様なことは・・」
「いや、そなたは漢にとってなくてはならぬ。それを匈奴の地になどと・・とんでもないことじゃ」
(そこまで自分を買っていてくれたのか)改めて、張沢ののっぺりした顔を見た。
「それにこの春には老親を呼び寄せて一緒に暮らせるというに。心配はいらんぞ。儂がもう一度陛下に申し上げて、必ず断るからの」
「はあ・・」
長安の賜邸に迎えたいという秋に出した中行説の手紙に、父母は「折角の有難い孝心だが、子や孫に囲まれた故郷をどうしても離れることは出来ない。家族のために犠牲になったお前には本当にすまなかったと日夜手を合わせている。聞けば今は皇帝陛下のおそば近くに使えるほど出世した由、もう老親のことは放念の上、達者に暮らしてくれればそれでよい」という謝絶の返事を寄越していた。予想通りの答えだった。
(父さん母さんの気持ちも判る。仕方のないことだ。私はもう天涯孤独、地の果てに行けといわれようが何ということもないのだが)
「陛下のお気まぐれじゃ。・・色々噂にはなろうが、儂に任せて安心しておれ」
(むしろ、あの公主様とご一緒なら、それはそれでいいのかもしれない・・)
だが、激昂した上司の剣幕に、小心者の説はとっさに返事の言葉が出せなかった。それが小声であるだけに、張沢の「義憤」に滾った表情は・・怖かった。潜めた声で殆ど一方的にしゃべると、この宦官令は宿直室を出て行った。
宦官令張沢の「善意」は疑いようはない。赤子のうちに事情があって去ったとは聞いている。それでも張沢にとって燕は生れ故郷であり、中行説は紛れもない同郷の後輩であるのだ。まして日頃目をかけて可愛がっていた部下でもある。張沢の性格を思えば、これを庇わずに何の宦官令ぞ、と熱くなるのも無理はなかった。
張沢は、説の匈奴派遣の命に対して強行に、何度も押し返して抵抗した。皇帝相手に一歩も引かなかった。
「困ったこと、とは?」一瞬、公主に蚕等を渡したことが顕われたか、と身を堅くした。
(公主様の身に禍が!)
張沢は深い息を吐いた。
「陛下がな、和蕃公主降嫁の折には、傳役として中行説を同行させてはどうかとおっしゃったのだ」
「えっ、私を・・でございますか」
何だそんなことか、と説の体から力が抜けた。国境近くに生れ、実際に匈奴とも接して育った説には、むしろ適任だろう。
だが、張沢は髭のないのっぺりとした顔を思い切りしかめている。
「判っておる」ぐいと張沢は説に顔を近づけた。「おう、判っておるとも。そなたはこの儂の大事な片腕、ちと気は弱いが・・お前ほど優秀な宦官は居らぬ」
「左様なことは・・」
「いや、そなたは漢にとってなくてはならぬ。それを匈奴の地になどと・・とんでもないことじゃ」
(そこまで自分を買っていてくれたのか)改めて、張沢ののっぺりした顔を見た。
「それにこの春には老親を呼び寄せて一緒に暮らせるというに。心配はいらんぞ。儂がもう一度陛下に申し上げて、必ず断るからの」
「はあ・・」
長安の賜邸に迎えたいという秋に出した中行説の手紙に、父母は「折角の有難い孝心だが、子や孫に囲まれた故郷をどうしても離れることは出来ない。家族のために犠牲になったお前には本当にすまなかったと日夜手を合わせている。聞けば今は皇帝陛下のおそば近くに使えるほど出世した由、もう老親のことは放念の上、達者に暮らしてくれればそれでよい」という謝絶の返事を寄越していた。予想通りの答えだった。
(父さん母さんの気持ちも判る。仕方のないことだ。私はもう天涯孤独、地の果てに行けといわれようが何ということもないのだが)
「陛下のお気まぐれじゃ。・・色々噂にはなろうが、儂に任せて安心しておれ」
(むしろ、あの公主様とご一緒なら、それはそれでいいのかもしれない・・)
だが、激昂した上司の剣幕に、小心者の説はとっさに返事の言葉が出せなかった。それが小声であるだけに、張沢の「義憤」に滾った表情は・・怖かった。潜めた声で殆ど一方的にしゃべると、この宦官令は宿直室を出て行った。
宦官令張沢の「善意」は疑いようはない。赤子のうちに事情があって去ったとは聞いている。それでも張沢にとって燕は生れ故郷であり、中行説は紛れもない同郷の後輩であるのだ。まして日頃目をかけて可愛がっていた部下でもある。張沢の性格を思えば、これを庇わずに何の宦官令ぞ、と熱くなるのも無理はなかった。
張沢は、説の匈奴派遣の命に対して強行に、何度も押し返して抵抗した。皇帝相手に一歩も引かなかった。
Posted by 渋柿 at 09:50 | Comments(0)
2009年09月20日
「中行説の桑」22
「我が父のこと、知っておりますでしょう」 公主は、なぜか薄く笑った。
「はい、燕王様と」
呂氏の時代には呂氏につき、その打倒の折は一旦高祖の嫡長孫斉王に組し、最後は機を見て代王であった文帝を担ぎ出した。
「でもねえ、父が私を売ったわけでもありませんよ。私が行きたいと申したのです。それを陛下もお認めになって」
「当たり前でございます。匈奴の地で、見事漢の婦徳をしめさるる姫と、ご推挙なさったのでございます」
そういいながら、中行説は家族のため売られた自分を思った。
「私は正嫡の子ではありませんし」そういって公主は一旦言葉を切り、またふっと笑った。「漢の地に留まっても、そう面白い生き方は出来ませんでしょう。ええ、本当に私から望んだのです、行きたいと。燕王・・父はしばらく考えておりましたけど、それもよかろう、と申しました」
「そうでしたか」
「私は、呂氏を裏切り、斉王を裏切った燕王劉沢の・・娘です」
「いえ、只今は今上皇帝陛下の御娘・・」
「ええ、陛下はお優しいお方です。私のわがままを随分聞いてくださって。・・中行説、私は何も漢の国に仇をなそうと蚕をもちだすのではありませんよ」
「それはよく判っております」中行説は、透き通るように白い公主の頬を見た。
せめて嫁ぐ地で誰もが一生に一度絹の花嫁衣装を纏えるようになったら・・それが公主の夢。
「分りました。御輿入れの出立は清明の節句とか。調度蚕の卵が冬の眠りから覚める頃でござりまする。目覚めた卵が孵るまで十日たらずでございます。そこまでは帽子の綿にでも桑の種と隠しも出来ましょうが・・蚕は驚くほど大食でございます。食べる葉がなければ、死ぬしかありません」
「私は、むごいことをしようとしているのかもしれませんね・・蚕にも、中行説にも」
「公主様・・」説は、真綿のように白く、また細い公主の項をかなしいものと見た。
(漢の国に仇をなそうというのではない・・か)
本当に、我が手で幸せを掴もうと願っているだけなのであろう。公主に罪はない。だが、(この聡明で優しい公主を匈奴に嫁がせることは・・)漢にとっては禍ともなるのではないか、という思いがした。
(いや、公主様の願い、できる限り叶えよと陛下もおっしゃったそうではないか。この健気な姫様のためじゃ)
中行説は自他ともに認める小心者である。その彼が、この時は不思議と肝が据わった。(そうだ。後にどんな禍があろうと、よいではないか。わが身一つがその禍をうけでばよい)
桂の花の香の中、中行説は公主の願いを叶えようと意を決した。そして蚕種と桑の種を入手し、密かに公主に渡したのは年が明けた頃だった。
「はい、燕王様と」
呂氏の時代には呂氏につき、その打倒の折は一旦高祖の嫡長孫斉王に組し、最後は機を見て代王であった文帝を担ぎ出した。
「でもねえ、父が私を売ったわけでもありませんよ。私が行きたいと申したのです。それを陛下もお認めになって」
「当たり前でございます。匈奴の地で、見事漢の婦徳をしめさるる姫と、ご推挙なさったのでございます」
そういいながら、中行説は家族のため売られた自分を思った。
「私は正嫡の子ではありませんし」そういって公主は一旦言葉を切り、またふっと笑った。「漢の地に留まっても、そう面白い生き方は出来ませんでしょう。ええ、本当に私から望んだのです、行きたいと。燕王・・父はしばらく考えておりましたけど、それもよかろう、と申しました」
「そうでしたか」
「私は、呂氏を裏切り、斉王を裏切った燕王劉沢の・・娘です」
「いえ、只今は今上皇帝陛下の御娘・・」
「ええ、陛下はお優しいお方です。私のわがままを随分聞いてくださって。・・中行説、私は何も漢の国に仇をなそうと蚕をもちだすのではありませんよ」
「それはよく判っております」中行説は、透き通るように白い公主の頬を見た。
せめて嫁ぐ地で誰もが一生に一度絹の花嫁衣装を纏えるようになったら・・それが公主の夢。
「分りました。御輿入れの出立は清明の節句とか。調度蚕の卵が冬の眠りから覚める頃でござりまする。目覚めた卵が孵るまで十日たらずでございます。そこまでは帽子の綿にでも桑の種と隠しも出来ましょうが・・蚕は驚くほど大食でございます。食べる葉がなければ、死ぬしかありません」
「私は、むごいことをしようとしているのかもしれませんね・・蚕にも、中行説にも」
「公主様・・」説は、真綿のように白く、また細い公主の項をかなしいものと見た。
(漢の国に仇をなそうというのではない・・か)
本当に、我が手で幸せを掴もうと願っているだけなのであろう。公主に罪はない。だが、(この聡明で優しい公主を匈奴に嫁がせることは・・)漢にとっては禍ともなるのではないか、という思いがした。
(いや、公主様の願い、できる限り叶えよと陛下もおっしゃったそうではないか。この健気な姫様のためじゃ)
中行説は自他ともに認める小心者である。その彼が、この時は不思議と肝が据わった。(そうだ。後にどんな禍があろうと、よいではないか。わが身一つがその禍をうけでばよい)
桂の花の香の中、中行説は公主の願いを叶えようと意を決した。そして蚕種と桑の種を入手し、密かに公主に渡したのは年が明けた頃だった。
Posted by 渋柿 at 06:56 | Comments(0)