2009年09月21日
「中行説の桑」24
「宦官となって十有余年、やっと屋敷を賜って父母と共に暮らせようという中行説でございます。何ゆえ無慈悲にも父母の上京も待たず匈奴の地に遣わされますのか。はい、心利いた宦官が公主様扈従に必要とあらば、何とぞ不肖この張沢にお命じください。私は天涯孤独の身、嘆くものもございません。どうか陛下、中行説だけはお許しください」
ついには皇帝相手にそう掻き口説いた。その勢いと善意に、説も今更、「いえ、私は別に・・匈奴へでもどこでも参りますが」
とは口にしかねた。そんなことをいえば、一世一代の男気を振るった張沢の顔をつぶすことにもなりかねぬ。小心者、はっきり言いたいこともいえぬという中行説の欠点を知りながら、それ以上に真面目、誠実という長所により目を向けてくれ、引立ててくれた上司なのだ。
同僚たちは、
「中行説は、宦官令様のお袖にすがって、匈奴行きを拒み続けているらしいぞ」
「無理もない、よっぽど嫌なのだろうな」
「嫌がらぬ宦官などいるものか。だが誰かが行かねばならぬのになあ」
「中行説のやつ、本当に宦官令様を身代わりにするつもりか」
「まったく我儘が過ぎる」
などと物陰で噂をしている。
(困った・・)
自分は、どんな陰口をきかれてもよい。だがこのままでは、四十近い張沢が本当に匈奴の地に行くことになってしまう。困惑の末、中行説は和蕃公主に密かに相談した。
「私はまた、本当にそなたが匈奴行きを嫌がっているのだと思っておりましたよ」説の話を聞き、公主は笑い出した。
「申し訳ございません。はっきり物が申せぬ私の気の弱さから、とんでもない大騒動になってしまいました」
公主はしばらく笑い続け涙をこぼして、ついには苦しそうに胸を押さえた。
まぎれもなくそんな所は「箸がこけても可笑しい」年頃の少女そのままである。「いえねえ、前に陛下が『長楽宮で一番そなたに優しい宦官は誰かな?』とお聞きになってつい『それは中行説でございます』って申し上げてしまいましたの。酪や蚕のことでお世話になりましたしねえ、まさか輿入れの傳役のこととは思わず、何か陛下がご褒美を下さるとかん違いしました」
確かに宦官令のお気に入り、宮城の外に屋敷も賜ろうという高位の宦官が、長城の外に送られるのは異例であった。
普通は、もっと下位のものの役目である。
「それに、ふた親に拒まれたとは、辛かったでしょうね。笑ったりして、済まぬ」
「いえ、それは初めから判っておりましたので。それよりも何とか波風立てず、私が匈奴にお供できるようお執成し頂けませんか」
公主は、しばらく考えていた。そして、大きく頷いた。
「私が、思いっきり我儘を申します」
「我儘?」
「中行説が扈従せぬなら嫁ぎませんと、陛下に申し上げるのです。あのお優しい陛下を困らせますけど・・直々に、きっと頭を下げんばかりにそなたにお命じになりますわ」
「まさか、陛下が宦官風情に・・」
「いいえ、きっと陛下はそうなさいます」自信を持って、公主は答えた「そしたら、そなたは・・」
「はい、嫌々渋々・・お受けいたすのでございますな」
「これでそなたは誰の顔もつぶさず、私に従うことができますね。もっとも、陛下の思し召しにギリギリまで楯突いたとはいわれるでしょうけど」
「はい、多少の陰口は何でもございません。これで宦官令様のお顔も立て、誰にも迷惑かけません。ありがとうございます」
(賢い姫だ)改めて舌を巻いた。(この姫が匈奴に嫁いだら、漢の禍(わざわい)になるのではないか)ふと、思った。
公主の作戦は図に当たった。
ついには皇帝相手にそう掻き口説いた。その勢いと善意に、説も今更、「いえ、私は別に・・匈奴へでもどこでも参りますが」
とは口にしかねた。そんなことをいえば、一世一代の男気を振るった張沢の顔をつぶすことにもなりかねぬ。小心者、はっきり言いたいこともいえぬという中行説の欠点を知りながら、それ以上に真面目、誠実という長所により目を向けてくれ、引立ててくれた上司なのだ。
同僚たちは、
「中行説は、宦官令様のお袖にすがって、匈奴行きを拒み続けているらしいぞ」
「無理もない、よっぽど嫌なのだろうな」
「嫌がらぬ宦官などいるものか。だが誰かが行かねばならぬのになあ」
「中行説のやつ、本当に宦官令様を身代わりにするつもりか」
「まったく我儘が過ぎる」
などと物陰で噂をしている。
(困った・・)
自分は、どんな陰口をきかれてもよい。だがこのままでは、四十近い張沢が本当に匈奴の地に行くことになってしまう。困惑の末、中行説は和蕃公主に密かに相談した。
「私はまた、本当にそなたが匈奴行きを嫌がっているのだと思っておりましたよ」説の話を聞き、公主は笑い出した。
「申し訳ございません。はっきり物が申せぬ私の気の弱さから、とんでもない大騒動になってしまいました」
公主はしばらく笑い続け涙をこぼして、ついには苦しそうに胸を押さえた。
まぎれもなくそんな所は「箸がこけても可笑しい」年頃の少女そのままである。「いえねえ、前に陛下が『長楽宮で一番そなたに優しい宦官は誰かな?』とお聞きになってつい『それは中行説でございます』って申し上げてしまいましたの。酪や蚕のことでお世話になりましたしねえ、まさか輿入れの傳役のこととは思わず、何か陛下がご褒美を下さるとかん違いしました」
確かに宦官令のお気に入り、宮城の外に屋敷も賜ろうという高位の宦官が、長城の外に送られるのは異例であった。
普通は、もっと下位のものの役目である。
「それに、ふた親に拒まれたとは、辛かったでしょうね。笑ったりして、済まぬ」
「いえ、それは初めから判っておりましたので。それよりも何とか波風立てず、私が匈奴にお供できるようお執成し頂けませんか」
公主は、しばらく考えていた。そして、大きく頷いた。
「私が、思いっきり我儘を申します」
「我儘?」
「中行説が扈従せぬなら嫁ぎませんと、陛下に申し上げるのです。あのお優しい陛下を困らせますけど・・直々に、きっと頭を下げんばかりにそなたにお命じになりますわ」
「まさか、陛下が宦官風情に・・」
「いいえ、きっと陛下はそうなさいます」自信を持って、公主は答えた「そしたら、そなたは・・」
「はい、嫌々渋々・・お受けいたすのでございますな」
「これでそなたは誰の顔もつぶさず、私に従うことができますね。もっとも、陛下の思し召しにギリギリまで楯突いたとはいわれるでしょうけど」
「はい、多少の陰口は何でもございません。これで宦官令様のお顔も立て、誰にも迷惑かけません。ありがとうございます」
(賢い姫だ)改めて舌を巻いた。(この姫が匈奴に嫁いだら、漢の禍(わざわい)になるのではないか)ふと、思った。
公主の作戦は図に当たった。
Posted by 渋柿 at 16:11 | Comments(0)
2009年09月21日
「中行説の桑」23
「中行説、困ったことになったぞ」深夜の宿直室に宦官令の張沢が現れて、声を潜めたのは二月も末。
「困ったこと、とは?」一瞬、公主に蚕等を渡したことが顕われたか、と身を堅くした。
(公主様の身に禍が!)
張沢は深い息を吐いた。
「陛下がな、和蕃公主降嫁の折には、傳役として中行説を同行させてはどうかとおっしゃったのだ」
「えっ、私を・・でございますか」
何だそんなことか、と説の体から力が抜けた。国境近くに生れ、実際に匈奴とも接して育った説には、むしろ適任だろう。
だが、張沢は髭のないのっぺりとした顔を思い切りしかめている。
「判っておる」ぐいと張沢は説に顔を近づけた。「おう、判っておるとも。そなたはこの儂の大事な片腕、ちと気は弱いが・・お前ほど優秀な宦官は居らぬ」
「左様なことは・・」
「いや、そなたは漢にとってなくてはならぬ。それを匈奴の地になどと・・とんでもないことじゃ」
(そこまで自分を買っていてくれたのか)改めて、張沢ののっぺりした顔を見た。
「それにこの春には老親を呼び寄せて一緒に暮らせるというに。心配はいらんぞ。儂がもう一度陛下に申し上げて、必ず断るからの」
「はあ・・」
長安の賜邸に迎えたいという秋に出した中行説の手紙に、父母は「折角の有難い孝心だが、子や孫に囲まれた故郷をどうしても離れることは出来ない。家族のために犠牲になったお前には本当にすまなかったと日夜手を合わせている。聞けば今は皇帝陛下のおそば近くに使えるほど出世した由、もう老親のことは放念の上、達者に暮らしてくれればそれでよい」という謝絶の返事を寄越していた。予想通りの答えだった。
(父さん母さんの気持ちも判る。仕方のないことだ。私はもう天涯孤独、地の果てに行けといわれようが何ということもないのだが)
「陛下のお気まぐれじゃ。・・色々噂にはなろうが、儂に任せて安心しておれ」
(むしろ、あの公主様とご一緒なら、それはそれでいいのかもしれない・・)
だが、激昂した上司の剣幕に、小心者の説はとっさに返事の言葉が出せなかった。それが小声であるだけに、張沢の「義憤」に滾った表情は・・怖かった。潜めた声で殆ど一方的にしゃべると、この宦官令は宿直室を出て行った。
宦官令張沢の「善意」は疑いようはない。赤子のうちに事情があって去ったとは聞いている。それでも張沢にとって燕は生れ故郷であり、中行説は紛れもない同郷の後輩であるのだ。まして日頃目をかけて可愛がっていた部下でもある。張沢の性格を思えば、これを庇わずに何の宦官令ぞ、と熱くなるのも無理はなかった。
張沢は、説の匈奴派遣の命に対して強行に、何度も押し返して抵抗した。皇帝相手に一歩も引かなかった。
「困ったこと、とは?」一瞬、公主に蚕等を渡したことが顕われたか、と身を堅くした。
(公主様の身に禍が!)
張沢は深い息を吐いた。
「陛下がな、和蕃公主降嫁の折には、傳役として中行説を同行させてはどうかとおっしゃったのだ」
「えっ、私を・・でございますか」
何だそんなことか、と説の体から力が抜けた。国境近くに生れ、実際に匈奴とも接して育った説には、むしろ適任だろう。
だが、張沢は髭のないのっぺりとした顔を思い切りしかめている。
「判っておる」ぐいと張沢は説に顔を近づけた。「おう、判っておるとも。そなたはこの儂の大事な片腕、ちと気は弱いが・・お前ほど優秀な宦官は居らぬ」
「左様なことは・・」
「いや、そなたは漢にとってなくてはならぬ。それを匈奴の地になどと・・とんでもないことじゃ」
(そこまで自分を買っていてくれたのか)改めて、張沢ののっぺりした顔を見た。
「それにこの春には老親を呼び寄せて一緒に暮らせるというに。心配はいらんぞ。儂がもう一度陛下に申し上げて、必ず断るからの」
「はあ・・」
長安の賜邸に迎えたいという秋に出した中行説の手紙に、父母は「折角の有難い孝心だが、子や孫に囲まれた故郷をどうしても離れることは出来ない。家族のために犠牲になったお前には本当にすまなかったと日夜手を合わせている。聞けば今は皇帝陛下のおそば近くに使えるほど出世した由、もう老親のことは放念の上、達者に暮らしてくれればそれでよい」という謝絶の返事を寄越していた。予想通りの答えだった。
(父さん母さんの気持ちも判る。仕方のないことだ。私はもう天涯孤独、地の果てに行けといわれようが何ということもないのだが)
「陛下のお気まぐれじゃ。・・色々噂にはなろうが、儂に任せて安心しておれ」
(むしろ、あの公主様とご一緒なら、それはそれでいいのかもしれない・・)
だが、激昂した上司の剣幕に、小心者の説はとっさに返事の言葉が出せなかった。それが小声であるだけに、張沢の「義憤」に滾った表情は・・怖かった。潜めた声で殆ど一方的にしゃべると、この宦官令は宿直室を出て行った。
宦官令張沢の「善意」は疑いようはない。赤子のうちに事情があって去ったとは聞いている。それでも張沢にとって燕は生れ故郷であり、中行説は紛れもない同郷の後輩であるのだ。まして日頃目をかけて可愛がっていた部下でもある。張沢の性格を思えば、これを庇わずに何の宦官令ぞ、と熱くなるのも無理はなかった。
張沢は、説の匈奴派遣の命に対して強行に、何度も押し返して抵抗した。皇帝相手に一歩も引かなかった。
Posted by 渋柿 at 09:50 | Comments(0)