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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年01月31日

「尾張享元絵巻」25

「相わかった。そちはなれぬ宗勝殿にとって御側去らずの身であろう。早う上屋敷に戻るがよい」と背を向けて花に向き直る。
「では失礼いたしまする」
宗春は心中語りかけた。
(さらば。まことに、ご苦労であったなあ)

 翌日も空は明るく晴れていた。
桜は、ちらほらと散り始めている。宗春は、平服の下に純白の肌着を着て、加納久通を迎えた。いや、小姓に案内されて居間に現れたのは痩身の加納とは似ても似つかぬ大兵(だいひょう)肥満漢(ひまんかん)であった。
「うっ」
声を出しそうになって、宗春は慌てて声を呑み込んだ。
小姓に、
「下がっておれ、呼ぶまで、誰も近づいてはならん」
と、いいつける声も上ずる。
 小姓が下がって、平伏していた加納と称する人物は、やっと頭を上げた。
「上様!」
白昼夢にあらず、将軍吉宗自身が宗春を訪ねてきたのだ。
「一別以来よの」
「ははっ」
宗春は座を下がる。吉宗は上座を占めた。
 花(はな)東風(こち)が、静かに吹き抜けた。

「派手に、逆ろうてくれたものよ」
「畏れ入り奉(たてまつ)ります。大岩にかわらけを叩きつけるような愚行でございました」
「かわらけ?そちが岩に投げたは、塗りの杯のはずじゃが」
「は?」
 襲封した年の、御深井の丸の伊吹屋を加えた酒宴を思い出すまで、時が要った。
「では、やはり伊吹屋茂平は・・」
「余の手のものよ。余が将軍になって五、六年の後に、尾張にはなった・・」
「左様でございましたか」
 やはり、との想いがあった。
「あれの家は、代々紀州家の隠密であった。絵師を装うての、な。余が将軍となり、お庭番としたが・・あれの初仕事はの、伊達陸奥守の所を探らせようとの、仙台城下の大店に潜入することであった」
「その任が・・」
「おお、外様の仙台のことより身内に火種が出で来かねんと、尾張にあやしげな店を出させたわけよ」
「・・すべて、わかりましてございまする」
 なぜ、吉宗が自分の譴責を正月まで待ったのか。伊吹屋の描く享元絵巻。それは去って行く自分への、吉宗の餞(はなむけ)であった。

「そちには娘がおったのう」
「はっ」
「宗勝の養女といたせ。年頃となれば余が良縁を心がけようほどに」
「あっ、ありがたきしあわせ」
 宗春も、そして吉宗も人の子の親である。
「そちの命をかけての諫言(かんげん)、耳に痛かった」
「将軍家のお立場を考えもせず・・若気(わかげ)の至りでございました」
「はじめは、憎かった。勝手なことを致しおってとなあ」
「畏れ入って・・」
「妙なものじゃ。飢饉(ききん)に、米の値(あたい)にとのう、散々の中を喘ぎ喘ぎ切り抜けて参れたのは、そちがおったからのような」
「はっ?」
 吉宗は穏やかな眼差しをした。
「必死で、幕府を守っておった。無我夢中だった。そのような折、真っ向からの反抗、しかも捨て身のの。腹も立ち、羨ましゅうもあり、いつしか賞賛もしておった」
「私も、遅まきながら上様のお立場にたって考えておりました」
 万感の思いを込めて、宗春は述懐した。
「もっと早う、余人を交えず話しがしたかったのう」
「左様に存じます」
 縁先まで、桜の花びらが舞い降りている。
  


Posted by 渋柿 at 14:13 | Comments(1)

2009年01月30日

「尾張享元絵巻」24

 だが、宗春の想いは、奥女中が次に運んだ味噌汁の碗で途切れた。寒中、薄い味噌汁ははらわたに染(し)みるほど美味であった。 伊吹屋に杯を注し、宗春も杯を受けた。 双方微(び)薫(くん)を帯びた頃伊吹屋が杯を置いた。
「ときに・・」 傍らに広げたままになっている絵巻物を見やっていった。「この絵巻に名を付けて頂きたく・・」
「躬に名を付けよ、とな」
「是非にも、お殿さまに」
「ふうむ」宗春はしばし瞑目した。「享元絵巻、はどうであろう」
「きょうげん・・?」
「享保の享、元文の元じゃ。享元は狂言にも通ずる。躬は、おわりまでのう、太郎(たろう)冠者(かじゃ)に弄(なぶ)られるきょうげんの大名でもあったのよ」
「ご謙遜が過ぎまする」
「人の世は筋のない狂言よ。そのなかで民にいささかの慰めを与えられたとすれば、もって瞑すべしじゃ」

 享元絵巻。名古屋城管理事務所に現存し、宗春治下の城下の賑わいを今に伝えている。
 
 伊吹屋は年を感じさせぬほど飲み、宗春も久々に大酒した。快い酒であった。
 
 明けて元文四年、正月。
「徳川中納言宗春儀、行ないつねづね宜しからず、麹町尾張家下屋敷にて隠居謹慎を申しつくる。なお新しき藩主には分家高須(たかす)藩主松平義(よし)淳(あつ)を以ってすること、さし許す」これが申し渡された「ご上意」であった。 
 
 宗春は、即日麹町下屋敷に移った。時を置かず、義淳は尾張藩を襲封する。そして吉宗の片諱(かたいみな)を受け、宗(むね)勝(かつ)と名を改めた。 
 
 宗春が幽閉されて二か月後の三月、麹町の下屋敷に竹腰正武が「ご隠居様ご機嫌伺い」に現れた。屋敷内にも、桜が盛りである。 宗春は縁近くに褥(しとね)を敷き花を愛(め)でていた。
「無沙汰をいたしまして」
「色々と忙しかったであろう。ご苦労であった」
万感の思いを込めて宗春はねぎらった。
「実は・・」竹腰は珍しく口籠(くちご)もった。
「いかがした」
「明日、お忍びにて、加納遠江守どのが参られます」
「この下屋敷にか?宗勝殿の所ではなく」
「御意(ぎょい)」
 加納久通は吉宗の最も近しい臣である。
「将軍家のご意向でか」
「・・御意」
(隠居謹慎では、やはり済まなかった)告げに来た竹腰が哀れであった。
  


Posted by 渋柿 at 08:03 | Comments(0)

2009年01月29日

「尾張享元絵巻」23

師走(しわす)も押し詰まった二十日、上屋敷に珍しい客があった。
伊吹屋茂平である。かつて藩へ、しめて一万五千両もの献金をした恩人、宗春は居間に通した。
「伊吹屋、まだ生きておったか」
宗春は、さらに老いた伊吹屋に遠慮なくいった。
 初対面のとき五十路(いそじ)半(なか)ばと見えたから、今は六十を越えているはずである。
「躬の方が、先に冥土(めいど)に参るようじゃのう」
「ご冗談を。今日は、お殿様に献上したきものがございまして参上いたしました」
「もう、千両箱は要らぬぞ」
「いいえそのようなものではございません」
 伊吹屋は、鬱(う)金(こん)の風呂敷をとき、大き目の巻物のようなものを取り出した。 
「ご覧下さいまし」
巻物を広げる。
「や!」
  
町の賑わいを描いた極彩色の絵巻物であった。
名古屋城下。
西小路(にしこうじ)、富士見(ふじみ)原葛町(はらくずまち)の遊郭。商家の繁盛ぶり。観客の熱狂する芝居小屋。大洲(おおず)観音門前人々は、活き活きと、鮮やかな衣装で、町を行く。
「これは?」
息を呑んでしばらく声も出なかった宗春が、やっと訊(き)いた。
「手前が描きましたものでございます」
「お主が」
「手前の父は、さる大藩のお抱え絵師でございまして。手前も若い頃絵の修行をいたしました。冥土が近くなりまして、どうしても名古屋城下の賑わいを、描きたくなりました」
宗春の心が熱くなった。
 活き活きと蘇(よみがえ)る、我が治下の名古屋城下。
「これを、お主がのう」
「丸一年かかりました」
「これを身にくれると申すか」
「はい、お殿さまに差し上げるために、老いの手に絵筆を持ちましてございまする」
「宗春、心より礼を申す。何よりの贈り物じゃ。嬉しいぞ」
「ははっ」
「一献、酌もう。相手をしてくれ」
「畏れ多きことでございまする」
 宗春は手を叩き、酒の用意を命じた。ややあって酒と共に運ばれてきた肴(さかな)は青菜の味噌あえ、またときを置いて運ばれた汁の実は豆腐であった。
「ほう、これは」
「遅まきながら、躬も近頃将軍家をみなろうての」
宗春は苦笑する。
吉宗の常の粗餐(そさん)は有名である。
「麹町(こうじまち)の下屋敷の畑で取れた青菜じゃ」
「味噌は名古屋の赤味噌にございますな」
「江戸で生まれ、江戸で過ごした年月が多いというに・・味噌はやはり尾張の赤味噌よ。というてもこれは躬の好み、赤味噌、白味噌、人の好みは様々であろうが・・」
「紀州の味噌は白うございますそうな」
「味噌の好き嫌いに似たことで・・意地を張ったものよ」
「胸のすく意地でごさいました」
(こやつ、何者か?)
 宗春は、改めて思った。尾張五十六万石、総力をあげた探索で、元は浪人、仙台の薬種問屋の番頭上がり・・とまでは判明している。だが、その薬種問屋と出会う前の経歴については、依然空白であった。
(もしや、いやまさか、公儀隠密・・)
  


Posted by 渋柿 at 09:28 | Comments(0)

2009年01月28日

「尾張享元絵巻」22

「躬の考えが全てまちごうておったとは、今も思っておらぬ。名古屋の町の繁栄は、身の誇り。だが、将軍家に逆らい抜いて今の台所事情じゃ。躬は罰を受けねばならぬ。ただ、藩の血筋を守るために・・躬の隠居謹慎をその方らから・・嘆願してほしいのじゃ」
 一陣の秋風。さっと紅葉が池に散る。宗春は落ち葉の上の星野織部と千村親平に向き直った。
「織部、親平、その方らは躬の左右の腕であった。躬に連座しての厳罰があろう。許せ」
 
 元文四年四月、出府。
 これが藩主として最後の参勤交代、城を出てから乗物の戸を細く開け、宗春は賑(にぎ)わう名古屋の町の様子を、目に焼き付けた。
(悔いは、ない)
 
 江戸で、春が過ぎ、夏が過ぎた。まだ、将軍からの譴責使(けんせきし)は来ない。
 竹腰に聞く。
「すべて、お上の手はずは、整っております。ただ―」
「ただ、何なのじゃ?」
「将軍家が、お待ちなのです」
「待つ、何を?」
(自分の自裁をか?)と、宗春は静かに竹腰を見る。正式の譴責使を受ける前に自裁せよとの内意なら、すぐにでも死んでみせる。
「判りませぬ。ただ、年明けまで待て、と」
「年明け?」
「年明け早々に、譴責使が下されるか、或いは家老一同が御城中に呼び出されることは間違いありません」
「将軍家は・・」
 吉宗は何を待っているのか
 これも罰か、と思った。覚悟を決めて俎板(まないた)に登った者を、一思いに処分せず、生殺し、焦燥の極みの中に身を置かせる。
 自分が売った喧嘩を思えば、この付加刑も甘んじて受けねばならぬ。
 宗春は、ついに正室を持たなかった。
 側室所生(しょせい)の子女はほとんど夭折させたが、ただ一人今年三歳になる八重姫がいる。幕法には連座の制がある。女子ゆえ見逃されるであろうと宗春は念じているが、八重姫とその生母の運命は、宗春の処分が確定するまで定まらない。
それだけが心残りだった。
 一人座して思う。
 徳川幕府を存続させるためには吉宗は、吉宗の道を進むしかなかった。
(躬も、所詮、自分の好む事を将軍家に押し付けようとしたに過ぎぬ)
 反省は人を謙虚にする。
(考えが、浅かった)
 居直りとは違う。謙虚な気持ちで、今の宗春は譴責をまっている。
  


Posted by 渋柿 at 12:51 | Comments(0)

2009年01月27日

料理の映える粉引きの器

『絵師(えし)親娘(おやこ)轆轤師(ろくろし)親(おや)息(こ)競いあう窯場しんしん走る緊張』若手陶芸家川口武亮さんにお遭いし旧
有田町長で歌人の祖父、故川口武彦さんが本紙読者文芸に発表された歌を連想しました。「祖父は陶器商社に関わっていましたが、自分で作るようになったのは父の代からです」と武亮さん。その言葉通り、父の武昭さんがいわば初代として、父親の陶器商社の営業職から30歳で陶芸家へ転身されたそうです。会社員をしていた武亮さんも、24歳の時に有田窯業大学校に入りました。
 その後静岡県伊豆や三重県伊賀で修行を重ね、2005年に有田に窯を構えました。武亮さんは今、白化粧土を厚く生がけした粉引(こひ)の土ものの食器を作っています。「後継者といっても有田伝統の磁器ではありませんし、二代目といっても絵付白磁を作る父ともまた、別のことをしています。ただ有田で生まれ育ち、焼き物の量産化が進むなか手仕事のよさを伝えていけたら、とより良い器づくりを頑張っていきたいと思っています」と静かに抱負を語る武亮さんでした。

  


Posted by 渋柿 at 16:32 | Comments(0)

2009年01月27日

「尾張享元絵巻」21

元文三年、晩秋。宗春は御深井の丸に紅葉狩りの席を設けさせた。
相伴は家老竹腰志摩守正武と、同じく付家老の成瀬(なるせ)隼人(はやと)正(のしょう)正(まさ)太(ひろ)。また重臣の成瀬志摩(しま)守(のかみ)、成瀬大和(やまと)守(のかみ)、成瀬豊前(ぶぜんの)守(かみ)、河村兵馬もそこにあった。宗春の股肱の寵臣(ちょうしん)星野織部・千村親平も控えている。
紅葉は蔦、錦木、漆などが例年のごとく見事である。
池には錦繍(きんしゅう)の模様が広がっている。
時折百舌が鳴いた。
一同が揃うと、酒食を運ばせる前に、宗春は切り出した。
毛氈(もうせん)の上には家老以下重臣の六人が座し、織部と親平は落ち葉の上に膝をついて控えている。
「頼みがある」
 宗春は床几(しょうぎ)に腰掛け、毛氈の上の重臣たちを見渡した。
「詳細は、竹腰が心得ておる。皆の連名・・尾張藩士の総意ということで、幕府に躬の隠居謹慎を嘆願してくれい」
「何と!」
竹腰以外、幕府の尾張藩後嗣への介入だけは防ぎたいという宗春の意中を知っている重臣はいない。成瀬以下、数十年に亙(わた)って確執のあった将軍に喧嘩を売り、後には引かぬ殿さまを、拍手喝采して支持してきたのだ。
「竹腰殿、どういうことでござる」
 五人の目が険しく竹腰に注がれた。
「そちらに諮(はか)らなんだこと、他意はない。ゆるせ」
 宗春は穏やかに言った。
「まあ、竹腰はわが血縁ゆえなあ。謀(はかりごと)は密なるを以(も)って、じゃ」
 尾張藩祖義直の生母お亀の方は、一度夫に死に別れてから家康の側にあがった。お亀の方の前夫の子、竹腰万(まん)丸(まる)も家康の手許で育てられ、長じて義直の付家老となったのである。竹腰正武はその裔(すえ)、たしかにお亀の方を通じて宗春と血はつながっている。
「はじめから躬の命じたことよ。社稷を重きと為し、君を軽きと為す、躬は竹腰にあえて獅子身中の虫となってくれと頼んだ。このままでは身に処分が降るのはもちろん、藩主に将軍の庶子を・・」
 一同、息を呑む。
「全て、躬の我儘から出たことじゃ。将軍家のご方針にしたがっておれば、お家を存亡の危機にさらすこともなかったろうが」
「殿、殿は立派に武士の意地を」
「我ら一同、殿を誇りに思いこそすれ、ご隠居の願いなど」
 思いもかけずの事態に、反論の声は当然だった。
「いや。躬が藩主の座に就いたとき、米二万八千石と金一万三千両の蓄えがあった。今は米三万六千石と金七万四千両を・・借りておる」
 一同、寂(せき)として声もない。
  


Posted by 渋柿 at 09:47 | Comments(0)

2009年01月26日

「尾張享元絵巻」20

「上様には、御次男宗(むね)武(たけ)様か御四男宗尹(むねただ)様を殿の次の尾張藩主に、という思し召しがあるやにも・・」
竹腰がささやいたのは、御用取次の一人有馬氏倫が死去した享保二十年頃。
「それだけは、避けよ。何としても」
そのためには自裁せよとあらばそれも辞さぬゆえと、宗春は力を込めて竹腰を見据えた。
「心得てございます」
竹腰も、宗春の目をしっかり見つめて応えた。

享保の世は二十年で終わり、改元されて元文(げんぶん)元年(一七三六)となった。
 竹腰を通じて吉宗側の情報は入り続けた。
 なぜ、吉宗が自分の庶子を尾張藩に送りこもうとしているのか、尾張藩を骨抜きにするということ以外の理由があることも判っている。
 世子家(いえ)重(しげ)と次弟宗武、末弟宗尹の出来があまりに違いすぎる。弟二人が父に似て文武に秀でて「名君の器」といわれているのに、家重は・・常人(じょうじん)とも言い難かった。
 一時、吉宗は家重を廃嫡し、宗武を世子に替えることも考えたという。だが、長幼(ちょうよう)の序(じょ)を違(たが)えては、という幕閣(ばっかく)の多数意見と、家重の長男竹(たけ)千代(ちよ)が成長と共に英気を見せ始めたことで、家重の世子の首はつながった。
 吉宗も人の子の親、自分によく似た才気ある息子に、尾張のような大藩を与えたい・・無理はない。
(そこまで期が熟す前に)
 宗春の胸中、次第に一つの思案が定まっていった。
  


Posted by 渋柿 at 14:40 | Comments(0)

2009年01月25日

「尾張享元絵巻」19

 滝川と石川は、呆(ほう)けたように不如帰の声を聞いている。
「おお、思わぬ世間話に時を過ごしたの。なんの、茶飲みの馬鹿話よ。放念してくれい」
「ははっ」
「上使、大儀」
宗春は座を立った。
 竹腰は書院に残っている。幕府側の付家老として上使たちと善後策を相談するのであろう。
「後は野となれ、か」
 不如帰が啼(な)いた。
 
 結果として、それでも七年、宗春は藩主の座にあった。
 密かに将軍吉宗側と連絡を取っている竹腰正武によれば、領内における宗春の人気が熱狂的なので、公(おおやけ)の措置を取りかねて数年が過ぎたということである。
 八代将軍吉宗は、決してただ闇雲(やみくも)に「倹約、倹約」とのみ唱えていたわけではない。彼にとって、この七年は試練の連続であった。
 この年、享保十七年夏から冷害と、イナゴ、ウンカの大発生であった。世に言う「享保の大飢饉」である。西国、特に瀬戸内海沿岸の凶作は数年続いた。「徳川実記」はこの間の餓死者を九十七万人と記している。その撫恤に吉宗は心胆を砕いた。
 飢饉が去れば、物価一般の高騰と下落の一途を辿る米価の問題が深刻となった。原因は勿論、武士のみならず農民町人すべての生活水準の向上と消費生活の拡大である。米を財源の基礎とする幕府の長として、吉宗は様々な策を講じた。米以外の物価の引き下げを命じるいわゆる「物価引下げ令」はすでに享保九年に出されていた。それに加えて米価を上げて年貢米を高く換金して財源とするために、吉宗は大坂堂島に米市場を開き、仮需要をふやした。供給過剰を防ぐために江戸大坂への廻米を制限する「置米令」なども出した。享保二〇年には、米の公定価格を定めて強引にその線まで米価を引き上げようとさえした。
 なりふり構わず米価を引き上げようとする吉宗を、世間では「米将軍」揶揄し、嘲笑した。
 その他にも、将軍就任間もない享保七年には、吉宗自ら大広間で頭を下げ、諸大名に「石高一万石につき米百石」を幕府に献米してほしいと頭を下げて「上米令」を出している。更に年貢の増徴のための「定免法」の強制、増収のための新田の開発・・と吉宗は困窮の極みの幕府財政を立て直すために、満身創痍の悲愴な戦いを続けていた。
 そこに宗春の反抗である。
 幕府・・吉宗にとっては、許しがたいことであった。
 毒を飼おうという声もあったという。
 過去徳川将軍の意向で毒殺されたという噂のある大名を五指に余り宗春は知っている。
毒害の案は最終的に吉宗が退けたという。この間、宗春は嫡子・国丸を流行り病で失っている。翌年、男子を得るが世を早めた。
  


Posted by 渋柿 at 13:39 | Comments(0)

2009年01月24日

「尾張享元絵巻」18

『また、国丸の旗幟を町人に見せたことを咎(とが)められたが、旗幟を町人に見せてはならぬという法度(はっと)など、躬は聞いたこともないぞ」 背筋を貫く快感を、宗春は感じた。気分の高揚のままに、言葉を続ける。
「幕府への嫡子の披露は、形式であろう。嫡子か否かは、産まれたときから判っている。その嫡子の節句をどう祝おうと、将軍家にとやかくいわれる筋合いはない」
「殿!」堪りかねた傍らの竹腰正武が声をあげた。
 宗春はこれも白扇で制する。書院の人声が、暫く絶える。
 不如帰が、続けざまに鳴く。
 宗春の凛(りん)とした声が、沈黙を破った。
「幕府の倹約令を守らず、奢侈遊蕩にふけったとのお叱りもあったが、なるほど、躬の倹約が表に現れぬので、そういうお叱りになったのであろう。・・それも致し方ない。上様は、倹約というものが如何(いか)なるものか、根本の儀を履き違えられ、誠の倹約をご存知ないゆえのう」
「とっ殿!」竹腰が悲鳴をあげた。何という放言!
 宗春はかまわず続ける。
「今の天下では、諸大名、旗本、小身の者まで会えば倹約、倹約と挨拶代わりにしておる。躬は、口先だけのことが嫌いじゃ。倹約を口にすることは少ないが、倹約、倹約と唱えておる者たちのように、町人に借金をしたり、年貢を重くして百姓を苦しめた覚えはない」声にならない悲鳴と共に、竹腰は固く瞑目した。
(やんぬるかな)
「そも、今の世では、領主が百姓から、生かさぬよう殺さぬよう富という富を吸い上げておる。領主が倹約して、その富をひしと抱え込めば、天下万民が貧しさに喘(あえ)ぐことになるではないか。躬は、上様のいわれる華美、放縦なる振る舞いによって、富を天下万民に返しておるのじゃ」
宗春が言葉を切っても、しばし、誰も何も言わなかった。
倹約、倹約と封建領主が吸い上げた富をそのままに、生活を切り詰めれば、富の社会的還流を怠ることになる。領主の奢侈、華美は不道徳のようであるが、富を下々に還元してこそ社会の公正に寄与する・・まさに爆弾発言であった。
  


Posted by 渋柿 at 08:06 | Comments(0)

2009年01月23日

運慶流!


 入り口を入って正面に、国の重要文化財にして運慶の代表作、栃木県足利市光得寺所蔵、金色の「大日如来像」が鎮座していらっしゃいました。十一日の日曜、義父母と夫、高校一年の娘と訪れた県立美術館の「運慶流」展です。
 期間限定で、厨子(ずし)、光背、仏体を別々に展示してありました。二度と目にする機会はないであろう後のお姿を眺めていると、もう一つのお目当て、竹下正博県立美術館学芸員のギャラリートークが始まります。
 学校でも習う水晶の玉眼の説明の後、「運慶は水晶をこういう風にも使っています」と如来様の座す蓮弁にライトを当てられます。
 花びらの先がキラり。「早朝、たった今開いたばかりの蓮の花の上の、如来様の顕現を水晶の朝露で表現したんですね」。一同から、いっせいにため息が漏れました。
 部活が美術部の娘は、金箔(きんぱく)と金泥を使い分けて衣と仏肌の質感を表現した、という解説に感激。仏像の技法から制作時の時代背景まで、三室の展示解説一時間はあっという間でした。
 家族それぞれ心に残る仏様と縁を結んだひと時でした。感謝です。  


Posted by 渋柿 at 18:36 | Comments(0)

2009年01月23日

「尾張享元絵巻」17

 尾張藩上屋敷・表書院の上段に、上使は立つ。裃(かみしも)長袴(ながばかま)の姿で宗春は下座に平伏した。
「上意!」 正使の旗本、滝川元(たきがわもと)長(なが)が、声を払った。「徳川中納言(ちゅうなごん)宗春、その方の行状、不届きのことこれあり、詰問いたす」
「ははっ」宗春はさらに深く叩頭(こうとう)する。
「一つ、江戸にて恣(ほしいまま)に遊山見物をすること。一つ、嫡子国丸の旗幟の、未だ披露もなきにみだりに町人に見物せしめたこと。一つ、奢侈(しゃし)遊蕩(ゆうとう)を旨(むね)とすること。以上のこと、はなはだ不届き、きっと叱り置く」
 副使の旗本、石川(いしかわ)政(まさ)朝(とも)が、上意書を宗春に示した。
「おそれながら、御上使に申し上げます」作法どおり、宗春は平伏したまま答えた。「仰せいだされた事柄、もっとも至極で、一言もござりませぬ。今後は身を慎み、行ないを改めまするゆえ、御上使より上様に宜しくおとりなしの程、お願い申し上げます」

 儀式は終り、宗春が書院を去ると、茶菓が出された。
 平服に改めた宗春が再び書院に現れたときには、本来の身分秩序に戻る。
「役目、大儀」宗春は上段の間に座して悠然といった。
「ははっ」今度は滝川等が平伏する。
「御上意への返答は、先ほど申したとおりじゃ。このまま帰って将軍家に復命してもらってもよいのじゃが。しばし世間話でもいたそうと思っての」臍下(せいか)丹田(たんでん)に力を込る。「わが家に上使を迎えるとは、近頃妙な話ではあるな」
「はあ」
「そもそも、将軍家、尾張家、紀州家は同格のはずじゃ」
「何と!」滝川が腰を浮かす。
「何を驚く。水戸殿には心苦しいが、あちらは神君末子の御裔(すえ)、位階(いかい)石高(こくだか)いまひとつじゃ。躬の祖父光友在世の頃までは、この三徳川家をこそ御三家と称しておったこと、知らぬわけではあるまい」
「それは、四代様まだ幼く、将軍家の威令全(また)からぬ頃のことにて」
「おお、五代様は生類憐(しょうるいあわれ)みの触れなど出され、ちと我儘(わがまま)が過ぎられたやもな。したが本来同格なればこそ、将軍家との対面も、ご拝謁とは申さずご対顔と申す。その方らが上使と称するから、躬も謹んで思し召しを承(うけたまわ)ったが、我が家は本来上使を差し向けられてよい家ではない」鋭く言い放った。「これ、顔色を変えるな。これは世間話よ、世間話」
「とはいえ・・」抗議しようとした副使石川を、宗春は白扇で制した。
「躬は、恣に遊山見物をした覚えはない。尾張の太守として、必用な見聞を広めただけじゃ。大名の中には、江戸では畏(かしこ)まって見せながら、国許で遊蕩三昧(ざんまい)をするやからも、確かにおる。躬はそのような裏表がないだけのことじゃ」
 上使二人は、衝撃のあまり言葉も出ない。
  


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2009年01月22日

本殿はもと商業奉安殿

 
  伊万里市松島町の松島神社。江戸中期、干拓前の絵図を見ると、周囲の伊万里市民センター市民会館の辺りは一面の干潟で、神社のある位置は文字通り松の生えた小島だったことがわかります。
(GHQ指令で破棄を迫られた奉安殿の中には、破棄するにしのびず、宗教的装飾を生かして納骨堂や神社に転用された建築も多々あるそうです)
松島神社は「皇紀二千六百年・八紘一宇」と刻まれた一の鳥居や、敗戦後伊万里商業の奉安殿(天皇皇后両陛下の写真を納めた建物)を移築したコンクリート造りの本殿等、地域の歴史を偲ぶよすがの建造物が残り、また現在も四季の祭りが氏子によって守られています。ことに春は参道の桜が見事で、花見の名所にもなっています。
  松島町では、子どもクラブや老人クラブの会員の方々が、定期的に除草作業のボランティアをなさっています。八月三日に松島子どもクラブの除草作業が行われると聞いて取材にうかがいました。子どもクラブでは全体を四班に分け、交替で毎月一回作業を行っているそうです。まだ幾分涼しい午前六時半、軍手やタオルを持って神社に集合した子ども達と保護者は、丁寧に草を抜き拝殿周辺を掃き清めていました。
 作業終了後「夏休みの宿題で子ども新聞を作るので」と六年生の逆取材を受けてびっくりしました。とりあえず、本紙伊万里有田特集欄等地域版のことを説明をします。熱心な取材に、この記事の紙面掲載が夏休みが終ってしまった後の九月になるのを、ちょっぴり残念に思いました。
【去年の佐賀新聞寄稿です】  


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2009年01月22日

「尾張享元絵巻」16

「国(くに)丸(まる)に跡(あと)を継がせることは叶(かな)わぬかも知れぬな」茶筅(ちゃせん)をおいて、宗春は呟(つぶや)いた。
 国丸とは宗春の嫡男、正室を持たぬ宗春の、事実上の夫人の地位にある側室の産む所の男子である。
「将軍の庶子(しょし)を押し付けられることだけは、防いでくれ。国丸に支障あらば分家の中から次の藩主を、の」
 宗春の父綱(つな)誠(むね)も、祖父光友も子福者であった。尾張徳川家の分家の大名も数家ある。
「この竹腰、命に替えましても・・」竹腰は絞り出すような声で、応えた。泣いている。
「泣くな。社稷(しゃしょく)を重しと為し、君を軽しと為す。躬を裏切っても、尾張藩の社稷を守り抜くがそちの大忠ぞ」
 社は土地神、稷は穀物神。尾張藩の士農工商の民が安らかに暮らすことの重要性に較べれば、主君の重要性を顧慮する必要もない。宗春は、忠孝の聖典の一つ孟子(もうし)の言葉を引いた。
 竹腰はまだ泣いている。
「これで躬も心置きなく喧嘩ができる」
 しみじみと茶の苦味を味わいながら、宗春は碗を喫した。
 つたなく鶯が鳴いた。鯉が跳ねる音。
 釜の松風の音も、よみがえる。
 
四月、宗春は参勤交代で出府した。
亡くした姫の面影を偲(しの)び、ぐっと成長した国丸に慰められる。
思いついて、家臣に下知(げち)した。
「来月五日、国丸の節句には上屋敷を開け放ち、誰であれ身分を問わず旗幟(はたのぼり)を見物させよ」
 当然、家中は騒然となった。前例のないことである。
幟(のぼり)の中には、家宝、東照(とうしょう)神君(しんくん)家康直筆の一(ひと)竿(さお)もある。だが、宗春は押し切った。
当日は予想以上の人数が尾張藩上屋敷に押しかけ、にぎやかな節句となった。
 
そして直後に、将軍吉宗からの詰問の上使(じょうし)が訪れた。
  


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2009年01月21日

誤変換☆悩み☆楽しみ

 パソコンのソフトを使って文章を書くときに、入力の誤変換に悩まされている。「伊万里津」のつもりで入れれば「今率」、「立花氏」は「立ち話」。「白銀黄金」は「城が猫が寝」、「剣豪宮本武蔵」は「堅固海や求む刺し」。
 機械におちょくられているような気になる。入力時に気付いて苦笑するくらいならよいが、「深い感謝」を「不快感謝」と出せば、相手に大変な失礼を働くことにもなりかねない。全く困っている。
 だが、単調な入力を続けていると、時々そのたくまざるユーモアのセンスが、気分転換になるのも確かだ。中国で秦の始皇帝陵に新たな発見があったというニュースが流れた日、郷土史の伊万里高等女学校の「四綱領 温良貞節…」を「始皇陵 怨霊定説…」と変えてくれた。
 メスがオスの胃の中に産卵し、オスがそのまま卵をかえして子育てする珍しいカエル(絶滅したかもしれないという)の話を読んだ日には、「胃の中の蛙(かわず)」(正しくは「井の中の蛙」)。
 誤変換には十分注意しなければならないが、ちょっと楽しい時もある  


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2009年01月21日

「尾張享元絵巻」15

 有馬兵庫頭氏倫(うじのり)と加納遠江守久通(ひさみち)。どちらも将軍吉宗の腹心の側近、御用取次の役にある。吉宗が紀州藩主であった頃からの股肱(ここう)の臣であった。
「躬は、将軍家に喧嘩を売った。勝てぬ喧嘩じゃが、後には引かぬ。ただ、この尾張藩だけは潰すわけにはいかぬ」
「私に・・」
(獅子(しし)身中(しんちゅう)の虫となれと)
「そうじゃ」
 竹腰は、しばし瞑目した。水仙の香りを聞く。そして、畳の上の碗を取り上げ、ゆっくりと啜(すす)った。懐紙(かいし)で碗口を拭き、
「結構な服加減で」と礼をした。
 付家老とは幕府から派遣された目付け役という性格も持つ。宗春と吉宗の確執が限界を超えたときには、主君より幕府の側に立たねばならぬ。竹腰は、どの道苦しい立場に立たされる。宗春は、先回りして竹腰に将軍と連絡を取れというのである。
(躬は意地を通す。しかし尾張徳川家を潰すわけにはいかない。ぎりぎりのところで自分をも裏切り、尾張家を守れ)
 宗春の心中を、茶を服する間に竹腰はしっかりと汲んだ。
「もし、躬に毒を盛れというご内意があれば、毒薬は直接躬に渡せ。躬の手で碗にしこむ。罪なき鬼役(毒見役)の命まで巻き添えにしては哀れゆえのう」
「殿・・」
「いざとなればそちが幕を引く、さすれば躬は安んじて喧嘩ができるというものよ」
 宗春は竹腰の服し終わった筒茶碗をすすいで建水(けんすい)にあけた。
 炉の釜に水差しの水を注し松風の音を鎮める。
 碗を茶巾(ちゃきん)で拭い、自服のための薄茶を点て始めた。
  


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2009年01月20日

「街の中の廃墟」

「街の中の廃墟―伊万里ダイエー跡」
 
 伊万里市新天町。夕刻、JRと松浦鉄道、ツインタワーの駅ビルの間の街路樹に、青いイルミネーションが輝いています。しかし少し目を転じた先には、巨大なコンクリートの廃墟が黒くうずくまっているのです。 
 その前身、伊万里ユニードが開店したのは、私が中学生のときでした。
 バスセンターとリンク、食料品、衣類、家電と各フロアー品揃えが充実し、高校生になるとテナントの書店に入り浸りました。夏休み冬休み、大学生になった先輩が、エスカレーターの前で食品の実演販売をしたりしていました。その後ダイエーとなりましたが、賑わいは続いていました。
 二〇〇二年にダイエーが閉店し、街の中の廃墟となって、六年が過ぎました。伊万里市の美術館・博物舘としての転用も模索されたようですが、民間所有物であることや、耐震構造の問題などで実現は見ませんでした。
 隣接のバスセンターの営業は続けられていますが、本数は減り、バスを待つ人影もまばらです。
 冷たい北風の中、かつての活気は、夕闇の中の幻となってしまいました。


   


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2009年01月20日

「尾張享元絵巻」14

 ここ数代将軍後嗣(こうし)の地位を争い、尾張藩士たちに紀州家=現将軍吉宗への反感は根強い。
(ばかめ、一万両では、合戦はできぬわ)
 宗春は、苦笑した。織部は、大酔を発している。手酌で干した杯を宗春は握りしめた。
「伊吹屋、手土産、ありがたく頂戴した上で使いみちは、躬が今、思案した」
「はっ」
一陣の秋風にさっと紅葉が散った。
 宗春は、手にしていた塗りの杯を池の汀(みぎわ)の大石に投げつけた。
杯は、割れて、落ちた。
「躬も、当たって砕けよう」
百舌(もず)の鋭い声。
「なんと」
織部と伊吹屋が同時に腰を浮かす。
「相手は幕府、勝ち目はない。だが、躬は屈せぬ。やれるところまで、喧嘩を売るぞ。果ては、砕け散るまでのことよ」
(身の今までの言動・・音曲、遊郭、華美の薦め、温治政要・・闘いの矢はすでに弦を放たれていた)
ふつふつと闘志が湧く。
 また鯉が跳ねた。
風に音を立てて、紅葉が散り敷く。
百舌がまた鳴く。
「お殿様は、この道をあくまで進まれますか・・」
伊吹屋がため息と共にいった。

年明けて、享保十七年正月。宗春は「温治政要」の献上本を作って将軍吉宗に差し出した。その応えは京都町奉行所の沙汰により、普及本を出版しようとしていた京都堀川(ほりかわ)の本屋の出版差し止め、版木の没収、であった。
(来るものが来た・・)
 
二月ももうすぐという頃、宗春は御深井の丸の茶屋に付家老の竹腰正武を呼んだ。余人を遠ざける。汀の山茶花(さざんか)が池に花びらを散らしている。早咲きの紅梅が二分咲きの枝に、鶯の初音もたどたどしい。
 にじり口わきの水仙を、床に活けた。
 水仙は禁(きん)花(か)の一つである。茶の湯では香りのあまり強い花・・沈丁花(じんちょうげ)、薔薇(そうび)、木犀(もくせい)などは主客の心を乱すとして茶席に活けることを禁じている。
その禁花を、あえて活けた。
炭が熾(おこ)り、炉の釜が松風(まつかぜ)の音をたてはじめる。
 竹腰がにじり口から客の座に入ってきた。
「殿、わざわざ、こと改まって御深井の丸にお呼びとは・・」
竹腰も「温治政要」の一件は知っている。茶席の挨拶もせず、切り口上に尋ねた。
「まあ、茶を服せ」
宗春は紅梅の描かれた瀬戸(せと)の筒茶碗に、薄茶(うすちゃ)を点(た)てた。
 膝行して碗を取り入れ、一揖して竹腰が碗に口をつけたとき、宗春はいった。
「有馬(ありま)兵庫(ひょうご)、加納(かのう)遠江(とうとうみ)と、これから密(ひそか)につなぎを取れ」
「うっ」
竹腰が、むせかけた。
「と、殿!」
飲みかけた碗を畳に置く。
  


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2009年01月20日

寒椿の・・・

里山の寒椿とよもぎ、それに冷凍しておいたツクシの・・・
 
テンプラです(^◇^;>  


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2009年01月19日

「尾張享元絵巻」13

「伊吹御神湯を銀一枚で買ってくださっていた方々は分限者(ぶげんしゃ)ばかりにて、銀一枚の出費はいわば分相応。しかしこれからは結構に過ぎると、取り締まられましょう」
伊吹屋は、今度は宗春に杯を注す。
「倹約とは、金を出せる者がその金を出して物を買うも、その物がはなはだ高値ならばまかりならんことだ、と申すか」
「将軍様の思し召しでは、雛(ひな)道具から髪飾り、絹(きぬ)綾(あや)まで、どのような身分、分限者も結構、高値な物は買えぬ。つまり商人が売ることはできなくなります。手前のような傷だらけの脛(すね)持つものは、商売替えに如(し)くはございません」
「売れなくなるぞ」
宗春は皮肉に笑った。
 銀一枚という値に、客は有難味を感じて「効く」と争って買ったのである。原価近くで売れば、その有難味はなくなる。今までの客の多くに見向きもされなくなるだろう。
 薬九層倍という。化粧品も然(しか)り。美や健康という夢を買う値段は、高いほど「効く」はずだとの、客の願いが潜在している。
「いたし方ございませぬ」
酔いが回って気が大きくなったか、伊吹屋は、宗春の面前で炙り猪肉を取り食らいついた。
「殿様より将軍様のほうが強うございます」
「そうじゃの」
宗春も猪肉に手を伸ばす。
「殿様も商売替え・・いえ、宗旨替えをなされました方が・・」
「こやつ、いい居る」
 酒を呷った。
「織部よ、躬は将軍家の逆鱗に、もう触れておろうのう」
「はあ」
織部は困惑して、先ほどから手酌で数杯、杯を干している。
当たり前だ。
「濡れ手に粟の儲けを注ぎ込んだ報謝宿も土地の分限者などが引き受けてくれて、それぞれ一人立ちしてゆく目途(めど)はつきました。今日持参しました一万両、御金蔵に蓄えられて倹約の証になされるもよし」
(こやつ、躬に恭順をと諫めておるのか・・)
「将軍家相手の、天下の大合戦。矢(や)銭(せん)(軍資金)にも、足りまするぞ」
 織部が、伊吹屋の言葉尻を横から引き取った。
  


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2009年01月18日

「尾張享元絵巻」12

 待つことしばし親平に伴(ともな)われて、伊吹屋茂平が縁下にかしこまった。
「無理にお願いをいたしまして、申し訳ござりませぬ」
「伊吹屋、久しいの。・・そこでは話もできぬ。まああがれ」
「殿!」
織部が制した。毎度、あまりに身分を無視した扱いである。
「よいではないか。商人と酒を酌交わすのではない一万両の大枚と一献汲むと思え」
「お戯れを・・」
遠慮する伊吹屋を無理に座にあげ、杯を握らせた。
「一瞥(いちべつ)以来じゃな。変わりはないか?」
「それが、商売を変えようと思ってご挨拶に参った次第で」
伊吹屋は杯を置いて平伏した。
「商売変え?儲かる伊吹御神湯をもう売らぬのか?」
「いえ、御神湯は売り続けます。ただ、手前と老妻それに番頭、手代の店でだけ商い、人鎖りの売り方はやめまする」
「まあ、あまり誉められた売り方ではなかったからのう」
「それと、売値も下げまする」
 気付いて、織部が酒器を上げ、伊吹屋は恐縮しながら杯を持った。杯に満たされた酒を一気に呷(あお)り、伊吹屋は言葉を継いだ。
「三十袋入りで五十文と・・いたします」
「何、五十文!」
 宗春は思わず奇声をあげた。元禄(げんろく)(一六八八~一七〇四)の頃からできはじめたそば屋で、そば一杯が十文で食べられる。
「銀一枚から銭五十文にとは、ちかごろ大変な値下げじゃの」
「それでも儲けが出ますからくりは、お殿さまもご存知」
「うむ」
「老妻と使用人が食べていくぶんには何とかやっていけまする」
「急に・・どうしたのじゃ」
無意識に差し出した宗春の杯に、織部が酒を注ぐ。
「浄(じょう)円院(えんいん)様でございます」
「はあ?」
またも宗春は奇声を出した。
 浄円院。紀州藩三代藩主・徳川光貞の側室にして、現将軍・吉宗の生母、お由利(ゆり)の方、すでに故人の院号である。
「浄円院様はおそれながら百姓の出におわし、日々の暮らしも質素になさっておられましたとか」
「それは、躬も聞いておる」
大名家に限らず、高禄の旗本や陪臣の家庭でも、魚料理の裏は返さない。上になった面だけを食べ、裏は箸もつけずに下げる。当然、魚の片身は捨てられる。浄円院は「もったいない」と魚は裏を返して骨しか残さずきれいに食べ、残った骨に熱湯をかけて啜(すす)ったという。
「御殿の庭の蓬もよう摘まれましたとか」
「蓬・・」
「香り高く茂らせて、ご自身でお摘みになり莚(むしろ)を広げて丹念に干されたそうな」
「それを、湯に入れられたのか?」
「はい、それも毎日では風呂桶を痛めると五日に一度」
「それは、蓬莱屋より聞いた話か?」
 宗春は、にやりと笑った。
「私の前身、お調べでしたか」
 伊吹屋も苦笑する。
「無理もございませぬ。やっておる事が事でございますからなあ」
「そういうことじゃ」
「御生母様の話は、旧主からの便りに聞いたのではございませんで。商人は商人なりに、江戸にも京大坂にもつて、付き合いがございまして」
「ふうーむ、将軍家ご生母が手作りされてご使用であったとなあ」
「そう聞けば法外な商売はもう出来ませぬ」
 伊吹屋が織部の杯に注ぎながらいった。
「七代様(将軍家継)までは、お上(かみ)が倹約と仰(おっしゃ)っても、それは分に応じろという意味でございましたが」
「今の将軍家は、先代の棺(ひつぎ)が慣例どおり、まさに分相応に珠玉を用い、刀掛けをこしらえてありましたのを、質素な棺に造り直させられたお方」
織部が杯を干す。
(そうであった)
宗春がまだ譜代衆、松平通春と称していた頃の記憶、七代将軍家継は幼年ながら凛(りん)とした威を備えていた。僅(わず)か八歳の亡骸(なきがら)、生母は、せめて分相応の煌(きら)びやかさで、送ってやりたかったであろう。それを、吉宗は粗末な棺に収め直した。
(情においては、惨い・・)
華奢(きゃしゃ)な背を、精一杯伸ばしていた家継の面影を偲(しの)び、宗春は怒りを感じた。
「造り直せば、かえって費用はかさむ、だがかまわぬ、結構過ぎる慣例を破るのだ、という思(おぼ)し召(め)しであったとか」
織部は、また杯を取り上げる。伊吹屋が、酌をする。
  


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