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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年12月31日

「続伏見桃片伊万里」7

 それから数日、圭吾は早朝や夕暮の手すきどき、南禅寺とその塔頭の境内で柞の木を探した。
 やっと見つけたのは四日目、その塔頭の一つ金地院であった。
 伏見城を移築した伽藍に小堀遠州作の庭が知られた古刹である。
(二十六日か・・)
 圭吾は本堂の前の階で瞑目・合掌した。(月こそ違え・・)
 今日は圭吾にとって生涯忘れられぬ友の命日にあたる。
 寺内を廻ると隅辺、東司(便所)の裏に、見慣れた赤い樹皮の木が立っていた。
(あった!)
 柞の木!
「ははそ」
 と読めば小楢のこと、団栗の生る別の木になってしまう。この木の名として読みは
「いす」
 この読みには
「檮」
 の字をあてることもある。
 幹が二股に分かれる辺り、煎餅を二つに割ったような葉の虫瘤がいくつも出来ている。
 辺りを見回し、圭吾は五つばかりの瘤をもいだ。
 この瘤の中は空洞、虫が出入りした二つの穴をうまく吹くとぼぉうととぼけてどこか物悲しい音がする。
 これを瓢の笛といい、俳諧では今も秋の季語となっている。
 子供の頃吹いた、懐かしい音であった。
 あつ過ぎる薬礼と柞櫛の礼に、お光の子供達に送ろうと思ったのだが、常は母子二人の所帯に度々若い男が出入りするのも躊躇われた。
 瓢の笛は油紙に包んで薬籠の炭に入れ、いつしかそれも忘れたそのまま、安政五年は暮れて新年となり、そのまま松の内も過ぎていった。
 
  


Posted by 渋柿 at 11:40 | Comments(0)

2009年12月30日

「続伏見桃片伊万里」6

「ようご存知ですなぁ。確かに葉に虫瘤んできる雑木で、見てくれはようおへんなあ。せよって柞櫛は柘植よりずっとお安うお分け出来るんで、うちとこみたいな店は柞櫛置いとりま。せやけど柞いうたら・・遣込んで出る艶は柘植に叶いままへんけど、しっかり堅うて京では柘植より昔から櫛作ってたんどす。東山ん柞櫛て、千年昔の延喜式たらいうお定め書でも、宮中や神事で使うんは柞櫛てきまってたていいますえ」
「そういえば、千年といわず、神代の頃かららしいの。筑前あたりでは、柞櫛が土より出てくるそうな。・・それにしても柞とはまた、なつかしい木の名を聞くものじゃ」
「なつかしいて・・」
「柞灰―柞の木を焼いた灰をの、わが在所では極上の釉にしておる」
 染物を鮮やかな紫に仕上げる触媒は、椿灰に限るという。
 同様に、染付けの仕上げの釉は灰釉、それも極上品なら柞灰釉を用いる。
 江戸初期から染付磁器の技法が発達した肥前有田・伊万里では柞は特別な木であった。
 だがそれゆえにこそ、里の山々の雑木林から、柞が取り尽くされた。
 古木は神社仏閣等、信仰の聖域にしか残っておらず、今は遠く日向から柞灰を移入している。 
 ただ、近頃名のある窯元のたちは「自分の代にはまだ使えんやろうけど、孫・子のために」と柞を植え始めてはいる。そのゆかりで圭吾はこの柞に馴染みがあった。
「ご無礼どすけど、在所て、どちら?」
 お光が、訊いた。
「肥前・伊万里。私は焼物屋の三男さ。柞の灰をとって釉にする手間は、身近に見て育ってな。ひょんなことから医者になって廻り廻り、今京の南禅寺堂町で人妻に送る柞櫛を誂えておる」
 常になく、圭吾は軽口をいった。いわずにはいられなかった。
 先ほどから微かに、酒の香りがする。
 確かに、お光の息であった。
 おそらくはあの、銘酒・三十六峰か。
(無理もない、まだ幼い息子と、また生き別れじゃものなあ)
 お光は、柞櫛を裂(きれ)の袋に入れて、渡した。
「お代は、失礼どすけど、この次また正吉かお筆が風邪引きますやろ、どうかそんときの薬礼ちゅうことで」
 と、櫛代はとうとう受取らなかった。
  


Posted by 渋柿 at 23:54 | Comments(0)

2009年12月30日

「続伏見桃片伊万里」5

「いえ、あの子、もう居らしまへん・・疱瘡やなかったし、熱も下がったんで、五条のご本宅にもどされました。・・うち、妾なんどす」
 返事に困った。
「お子と一緒にお暮らしではなかったのか」
「あの子、正吉と申しますんですけど―播磨屋さんのあととりで、乳離れしてからご本宅のお店さまに引き取って育てていただいとります」
(だから、息子が来た時だけはひとつ布団で寝ておるのか)
「まあよう出来たお店さまで、うちにもいろいろきいかけてくだはりますし、ちょいちょい子ぉの顔もみせてくだはりますんですけど。ほんまぁはあの日、お店に戻る筈で」
赤子の声がした。
今日は泣き声ではなく、機嫌のよい喃語らしい。
母親は襖をあけ、布団から抱き上げてきた。
「うーういー、んーほーほー」
 声を聞くだけでも、元気な赤子であることがわかる。
目鼻立ちは母親によく似ていた。
そのつぶらな目で、圭吾を見てにこっと笑った。
「それでこのお子も乳離れすれば・・」
「へえ、お筆と、これもだんさんが名あ付けてくれはらまして。あ、うち光いいます。日蔭のうちが育てたら、縁付くとき困りますよって、お店さまにお願いすることに・・。いつまでも一緒にはおられまへんで」
「寂しいことでござるな」
「・・気ぃまぎれるやろって、小間物屋、させてもろとるんどす。あんまりお客はあらしまへんけど」
 お光、と名乗った母親は、名はお筆という赤子を、部屋の布団に戻した。
お筆は泣きもせず、笑顔のままである。
「その櫛を、貰いたいのだが」
 圭吾は手拭やちり紙の脇に、五つ六つほど並べてある女櫛を指差した。
「へえ、せんせが、櫛?」
「いや、何、知人の内儀に、の」
「人のお内儀」
「足掛け三年、同じ釜の飯を食った医者仲間の内儀で、な。こちらは一人身、再々ご造作になっておる」
「うちには上等のんは置いてまけんけど」
「これは、柘植かな?」
 一つを手に取った。
「柘植とよおう似てて間違われるんどすけど・・ご存知やろか、柞(いす)なんどす、それ」
「柞?雑木の?あの虫瘤が出来る、吹くと音がする瓢(ひょん)の笛の?」
  


Posted by 渋柿 at 06:47 | Comments(0)

2009年12月28日

「続伏見桃片伊万里」4

 駕籠に乗ろうとして、圭吾ははじめて木犀の香に気付いた。
 戸口に一本、かなり大きな木が生えていた。やはり緊張していたらしい。

 三日ほど後、圭吾は草川町の寄宿からあの南禅寺堂町の小間物屋へ出かけた。
 多分、病児も回復していようが、風邪は万一の余病が怖い。
(三両も薬礼があったゆえではないが・・)
 あの日、師に奉書包みを見せると、師はこともなく
「もろとけ。天下の播磨屋の所縁や、罰はあたらん」
という。
 寺の築地塀が続く。
 南禅寺の正面を過ぎると辺りは仕舞屋と、まばらな寺参り目当ての花・線香を売る小店ばかりとなった。
 さらに路地をいくつか入った塔頭近くになると、尚のこと静かである。
 ここは南禅寺山の麓、見上げれば三十六峰全山一続きの見事な紅葉で、築地塀越に見える寺々のもみじも、少し色を深めている。
 そういえば、南禅寺境内は洛中屈指の紅葉の名所であった。
(ここで、小間物を売っても、そう、儲けはなかろうが)
 母親は、往診を依頼した五条の大店・呉服問屋播磨屋の主を
「だんさん」
 と呼んだ。
 師の言葉の調子といい、あの紅い布団といい、
(たぶん、あそこは播磨屋の妾宅)
 いくら世間知らずの若者でも、見当はつく。
 小間物屋は、今日は開いていた。しかし、狭い店内、人の気配はなかった。
(留守か)
 それでも一応声をかける。
「ごめん」
 返事はない。
 閉めた障子の向こう、人の気配は伺えない。店脇の木犀は、まだ濃い匂いを放っている。
 ややあって、
(こそ)
 と階段を踏む音がした。
 女あるじは二階にいたらしい。
「おいでなされませ」
 紺木綿の縞小袖、色目はこの前より濃い。すぐ、圭吾の医者髷に気付いた。
「先日は、どうもありがとうさんで」
「坊やの具合はどうかな、熱が下がらなんだり、ひどく喉をいたがったりしておらぬか」
「へえ、もうすっかり・・」
「それはよかった。じゃが、折角来た、見せてもらおうかの」
 過分な薬礼のこともある。
  


Posted by 渋柿 at 12:35 | Comments(0)

2009年12月27日

「続伏見桃片伊万里」3

 この時代、感染症はまだどうしても潜らねばならぬ関門であった。
 しばしば命にかかわる病、いまから寒さに向う時期、罹らぬならそれに越した事はない。
「熱は風邪からじゃな。この年頃にはよう疱瘡と間違う。わきの下や膝裏のこの発赤(発疹)・・これがあったから間違うたのじゃろうがの、これもこの年頃によくあることで、湿疹というて、これができやすい子は喘息になりやすい。風邪も引きやすいのじゃが・・まあとりあえず心配は無用じゃ」
「おおきに、ありがとうさんで」
「風邪の薬は後ほど―草川町、ご存知かな?取りに来られるかの」
「お店の者が様子を見に来はることになったります。―頼みます」
「暖かくして寝かせておくことじゃな」
「そういたします」
 突然、隣室から赤子の泣声がした。
 母親ははっと立つ。
「下の子がおられたか」
「生まれて五つ月になります」
「まことに、疱瘡でなくて良かったの。うつったら大事になるところじゃ」
「ほんまにありがとさんどした」
 ここまではよかった。そのあと―圭吾が手をすすいだ盥を下げたあとである―母親は大振りの筒茶碗を捧げてきた。
 無論、茶と思った。
 だが、その芳香の質は、全く違っていた。
「これは」
「三十六峰どす」
「三十六峰?」
「東山三十六峰・・伏見の銘酒の名ぁどすがな。播磨屋のだんさんのお気に入りどす。どうぞ、やっとくれやす」
「酒ぇ」
 驚いた。
 堀圭吾二十五歳、医学に志してから十年近く、往診で酒を勧められるなど聞いた事もなかった。
 全く、困った。
 赤子が、さらに激しく泣いた。
「下のお子が、それ。行ってあげなされ。駕籠もまだ待っていようでな、では」
「あの、これを」
 母親は帯の間から、用意していたらしい奉書紙の包みを圭吾に手渡した。
 薬礼である。
 ずっしりとした手応えがあった。
(・・小判)
 それも一枚ではない。
 多すぎるといおうとして、柔らかく、が抗い難く遮られた。
「ほんまに、ありがとさんどした。あ、いえ、恥ずかしいことしたら、うちが播磨屋のだんさんにしかられますぅ。どうか」
「では、有難く頂戴する」
  


Posted by 渋柿 at 17:13 | Comments(0)

2009年12月26日

「続伏見桃片伊万里」2

 一間きりの店は、常わずかな小間物を商っている様子、ちり紙や櫛、それに線香・蝋燭などが見て取れた。
(あまり、はやる店ではなさそうじゃな)
 まずは、患者である。
 五つばかりの男児が、店の隣の六畳に寝かされていた。
 ギョっとした。
 布団の、厚い綿を覆っているのは眼を刺すような紅いきれだった。
「あての、布団で」
 母親が恥ずかしそうにいった。
「一緒に、寝てますねん」
「さようか」
 布団の色に拘っている場合ではない。
 かなり熱が高いらしい。
 顔を真っ赤に上気させて、喘いでいた。
 苦しげに伸ばした腕、めくれた袖から、確かに発赤のようなものが見える。
(疱瘡、か・・?)
 圭吾は息を調え、気を静めて脈を取る。
「大丈夫じゃ、これは疱瘡ではない」
 慎重に診た。
 はだけさせた寝巻きの前を合わせ、圭吾はそういった。
「疱瘡や、おへんどしたか」
 さすがに安堵した様に、母親は息を吐いた。
 淡い藍の地に濃紺の縞の小袖は木綿ながら上物、それに幅の狭い博多の帯を締め、髪の飾りも金がかかっているよう、何所か寂しい顔立ちだった。
 歳は・・
(二十六、七、私より僅か上か・・)
 昔から
「麻疹・疱瘡は器量定め、運定め」
 という。
 疱瘡とは今でいう天然痘のことである。
 予防のための種痘を日本に初めて伝えたのはシーボルトだともロシアから帰還した漂流者だったともいう。
 記録に残る嚆矢は圭吾の郷里佐賀の藩主が、世子に施した十五年ほど前の記録であり、また師、緒方洪庵が大阪に種痘所を開いたのは、十年前の嘉永二年である。
 蘭方医だけでなく、ぼつぼつ、吾が子に種痘をする人も出始めてはいる。
 だが、一般普及という面では皆無に近い。
  


Posted by 渋柿 at 12:37 | Comments(0)

2009年12月25日

「続伏見桃片伊万里」1

 東山三十六峰という。千年の古都・京の東、なだらかな稜線を見せ、洛中の盛衰を見つめてきた峰々が連なる。
 北の比叡の嶺に始まる。主峰には盆の
「大文字」
 の送り火で有名な如意ヶ岳がそびえる。
 洛中は山麓に南禅寺・高台寺・清水寺などの古寺名刹を抱いて、小峰がいくつも続いている。
 峰々の総計三十六、南端は伏見の稲荷山に尽きて、淀川に至る。
 山容は優しい。
 人口に膾炙する服部嵐雪の詠むところの

「ふとん着て寝たる姿や東山」

 そのままの姿、秋の陽が、傾きながら山腹を照らしている。
 峰々の連なりの中ほどにある、南禅寺山の麓、南禅寺堂町。
 その名の通り古刹南禅寺の、寺内町の一つである。
 本編の主人公、堀圭吾の日記によると、時は戊午の歳というから安政五年、幕府瓦解・明治維新まであと十年という頃のことということになる。

 三十六峰が錦秋にそまっている。
(いくら東山、いくら三十六峰といっても、これは―)
 隣町、南禅寺草川町から往診に来た医師・堀圭吾は困惑していた。
(昼間から、これは困る)
 師から、命じられた往診だった。
(しかも疱瘡らしい。注意する様に、か)
 師は、学者であると同時に、医者として経験も豊富であり、名医の誉は高い。だが六〇の坂を過ぎ、いささか体を弱めている。
「医者というものはな、えてして壮年の評判に慢心したまま老いるものじゃ。じゃがな、人を診るということは充実した気力と体力がなければ叶わん。むろん知識も経験も積んだ上のことではあるがな」
 近頃はそういって、求めれば助言や指導は惜しまなかったが、圭吾に診察をさせることも多い。
「はい、私は疱瘡は済ませております。して、患家はどちらで?」
「迎えの駕籠がすぐまいるそうな。南禅寺堂町、塔頭の永法院の裏と、のう。五条の播磨屋はんのお身内で、まあ播磨屋さんには日頃お世話になっておるのじゃが、そこから使いが来て、の」
「承知致しました」
 準備を整えて乗った町駕籠は、南禅寺塔頭の裏手、仕舞屋に毛が生えたような小商いの店に着いた。
さすがに、今日は病人が出て商売は休んでいる。
  


Posted by 渋柿 at 08:19 | Comments(0)

2009年12月12日

国見道

 伊万里市や有田町から、救急患者が長崎県佐世保市の病院に搬送されることがあります。

 その一刻を争う際の最短ルートとして使われるのが、山中県境の国見トンネルです。
 明治38年、佐世保の海軍鎮守府防衛の軍事目的のため、県境国見山の、栗の木峠を越えて伊万里への直通の山道が作られました。

 「砲台道」と呼ばれ、その後70年以上両地の市街地をつなぐ近道として使われてきましたが、カーブが多く、路肩も弱いなど問題もありました。

 そこで、昭和52年、橋を掛けトンネルを通した立派な国見道路ができたのです。

 佐賀県側の国見道路は沿道のアジサイ植樹に因み「あじさいロード」とも呼ばれ、眼下に麓まで続く棚田や有田川に沿う集落の眺望が広がります。

 トンネル手前の「国見湖畔公園」には展望台もあり、今の季節には、照葉樹の中の紅葉と湖水のコントラストが見事です。

 トンネル東口には平成7年に村作り運動推進事業で旧西有田町によって設けられ、朝採り野菜やつけ物、民芸品などを販売する「国見あじさい(味菜)村」があります。


 国見道路は平成19年までは有料道路でしたが現在は無料です。伊万里方面から佐世保への救急搬送、または通勤通院での利用が多いトンネルですが、佐世保経由での伊万里・有田の観光への寄与も、期待されています。
  


Posted by 渋柿 at 11:32 | Comments(0)

2009年12月11日

そんなバカな!(@□@;

 1980年代後半。國學院大學の樋口清之名誉教授は、千葉県船橋市から講演の依頼を受けました。

「剣聖宮本武蔵と船橋市法典とのゆかりを、史実に即して解説していただけませんか」

「そんなバカな!(@□@;」
 仰天した樋口先生。
 船橋市を訪れると、お寺には「当山に滞在した宮本武蔵ゆかりの品」の寺宝、道をきいたタバコ屋のオバちゃんは「この先の船橋法典はその昔宮本武蔵が開墾した法典が原といって、そのことを吉川英治先生も小説に書いています」

 樋口先生、ショックの余り座り込んでしまいました。

 今を去ること五十年前、まだ20代の駆け出し貧乏学者だった頃、樋口先生は大作家吉川英治から相談を受けました。

「朝日新聞に一年の予定で連載していた【宮本武蔵】を3~4年に伸ばすことになったので協力してほしい」
 それから、無理難題の連続でした。
 とうとう吉川先生は関が原より東へ行ったことがないはずの武蔵を、江戸に連れてきてしまいます。若僧の樋口君は辻褄あわせに奔走。

 それでも、
「習志野という地名は響きがいいから、ここに暫く武蔵を住まわせる」
 といわれたときには、さすがの樋口君もキレました。
「先生、いい加減にしてください。習志野は明治天皇が演習をして名付けたんです。武蔵の時代に習志野はありません(怒)」

 結局、習志野の近くの船橋法典を「採用」し、【宮本武蔵】の法典が原の開墾、野武士との死闘の名場面が描かれます。


「事情を知っている私がまだ生きているから、笑い話で済んだのですが・・」
 樋口先生の講演の思い出です。
「歴史と文学の関係って、どうなんでしょうねえ」
 ユーモラスな語り口に笑いの絶えなかった講演会場、聴衆も一瞬、静まり返りました。   


Posted by 渋柿 at 15:20 | Comments(0)