2009年09月21日

「中行説の桑」23

「中行説、困ったことになったぞ」深夜の宿直室に宦官令の張沢が現れて、声を潜めたのは二月も末。
「困ったこと、とは?」一瞬、公主に蚕等を渡したことが顕われたか、と身を堅くした。
(公主様の身に禍が!)
 張沢は深い息を吐いた。
「陛下がな、和蕃公主降嫁の折には、傳役として中行説を同行させてはどうかとおっしゃったのだ」
「えっ、私を・・でございますか」
 何だそんなことか、と説の体から力が抜けた。国境近くに生れ、実際に匈奴とも接して育った説には、むしろ適任だろう。
だが、張沢は髭のないのっぺりとした顔を思い切りしかめている。
「判っておる」ぐいと張沢は説に顔を近づけた。「おう、判っておるとも。そなたはこの儂の大事な片腕、ちと気は弱いが・・お前ほど優秀な宦官は居らぬ」
「左様なことは・・」
「いや、そなたは漢にとってなくてはならぬ。それを匈奴の地になどと・・とんでもないことじゃ」
(そこまで自分を買っていてくれたのか)改めて、張沢ののっぺりした顔を見た。
「それにこの春には老親を呼び寄せて一緒に暮らせるというに。心配はいらんぞ。儂がもう一度陛下に申し上げて、必ず断るからの」
「はあ・・」
 長安の賜邸に迎えたいという秋に出した中行説の手紙に、父母は「折角の有難い孝心だが、子や孫に囲まれた故郷をどうしても離れることは出来ない。家族のために犠牲になったお前には本当にすまなかったと日夜手を合わせている。聞けば今は皇帝陛下のおそば近くに使えるほど出世した由、もう老親のことは放念の上、達者に暮らしてくれればそれでよい」という謝絶の返事を寄越していた。予想通りの答えだった。
(父さん母さんの気持ちも判る。仕方のないことだ。私はもう天涯孤独、地の果てに行けといわれようが何ということもないのだが)
「陛下のお気まぐれじゃ。・・色々噂にはなろうが、儂に任せて安心しておれ」
(むしろ、あの公主様とご一緒なら、それはそれでいいのかもしれない・・)
 だが、激昂した上司の剣幕に、小心者の説はとっさに返事の言葉が出せなかった。それが小声であるだけに、張沢の「義憤」に滾った表情は・・怖かった。潜めた声で殆ど一方的にしゃべると、この宦官令は宿直室を出て行った。
 宦官令張沢の「善意」は疑いようはない。赤子のうちに事情があって去ったとは聞いている。それでも張沢にとって燕は生れ故郷であり、中行説は紛れもない同郷の後輩であるのだ。まして日頃目をかけて可愛がっていた部下でもある。張沢の性格を思えば、これを庇わずに何の宦官令ぞ、と熱くなるのも無理はなかった。
 張沢は、説の匈奴派遣の命に対して強行に、何度も押し返して抵抗した。皇帝相手に一歩も引かなかった。



Posted by 渋柿 at 09:50 | Comments(0)
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