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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年09月10日

「中行説の桑」15

「不倫の暴君とて最初は崔杼が斉の実権を握った。だが斉の歴史を記す史官だけは『崔杼、莊公を弑す』と書き記した。崔杼はこの史官の首を刎ねた。するとその弟が同じく『崔杼、莊公を弑す』と記した。この弟も首を刎ねられた。末弟も『歴史を正しく書き記すのは我が家の代々の勤め』と、同じことをした」
「その末弟、どうなりました?」
「崔杼も根負けして、そのままにした。斉の田舎にいた史官たちが『都の仲間が職に殉じた』と聞いてな、その志を継ごうと木簡や竹簡を持って大挙して都に上ったそうな。殺されることは覚悟の上、蟷螂の斧振り上げた如くになあ」
「史官とは・・凄まじいものですなあ」君主の権力も死の恐怖も超えさせる使命感。中行説はただ圧倒された。
(この人は、自分だけでなく子も孫も連れて、この道を進もうとしている)
「座れ」司馬喜は、自分の傍らを示した。
「はい」中行説は司馬喜の隣に腰を降ろした。喜が今手にしているのは詩経の一部である。
「この中で、知っている詩はあるかの?」
 手渡された竹簡を、中行説は目を輝かせて広げた。傍らのかまきりは、相変わらず大鎌の威嚇を続けている。

 これから双方の都合がつく限り、太常府の若い史官は熱心に中行説に学問を講じた。説は喜の厚意によく答え、三年足らずのうちに内に貴顕の子弟に負けぬほどの教養を身につけることができた。

 祝いに、司馬喜は自邸の庭に桑の木を植えたという。司馬喜の手ほどきが終ったのは、喜の史官としての仕事が中堅として忙しくなってきたのと、彼の嫁が男子を挙げたからであった。
「済まぬなあ」最後に孫子を講じた後、司馬喜は気の毒そうにいった。
「何を仰います。春秋・詩経・論語・孟子・老子・・喜様の手ほどきどれほどありがたかったことか。はいお陰にて、これからは自分で学べまする」
「談がもの心つけば、教えてやらねばならぬしなあ」他意なく司馬喜は目を細めた。
(子に学問を教える、か)寂として、思った。
 宦官の中行説には永久に叶わぬことである。
 中行説が司馬喜から学問を学んでいた頃は漢帝国にとって激動の政変の連続であった。
 呂太后を権力の核に高祖の家の劉氏を圧倒してきた呂氏の権力は、呂太后の死とともに蜂起した劉氏一族と高祖の功臣のために打倒された。燕・趙・梁の王位に就いていた呂通・呂台・呂産らも殺されたのである。そしてすったもんだの末、衆議一決して皇帝に押されたのは、匈奴と境を長く接する「辺境」の地の代の王、高祖四男の劉恒であった。漢三代(呂太后執政下在位した二人の幼帝は数に入れないのが通常)皇帝文帝である。
 説は、引き続き文帝の後宮に奉仕を続けた。
 故郷の燕を出て、十二年の歳月が流れていた。故郷からの音信は殆どない中、中行説は宦官の職務を、ただ忠実に務め続けた。そして「真面目でそこそこ有能だが、かなりの小心者」と上司や同僚に陰で評されながら、二十三歳の秋を迎えている。
  


Posted by 渋柿 at 07:09 | Comments(0)