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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年09月24日

「中行説の桑」30

「我々は、この川床の向こうに宿営しておる。立ち寄られぬか」
「それは・・」
「おう、よい折じゃ。不寝番にも挨拶申し、そなたが暫時こちらに参ると知らせればよかろう。そなた、名は?」
「中行説と申しまする。宦官でございます」
「宦官か。・・しばらく、待っておれ」
「はっ」
威圧された。(匈奴でも、かなり位の高い将らしいな)だがその威厳と、若さは妙にそぐわなくもある。
 不寝番に断りをいって来た若い匈奴の将に伴われて、中行説は月光に照らされた川床を渡った。
もうしばらくすると、山から雪解けの水が流れて、この川床を潤すのだろう。だが、今はただ砂と礫が筋となり、乾いていた。匈奴の天幕は、中行説たちの物のように麻製ではなく、羊の毛を圧縮したフェルトだった。
 漠縁の夜は冷える。匈奴の宿営でも、不寝番の篝火が焚かれていた。若い将は、焚き火を守っていた不寝番に、匈奴のことばで何か命じた。不寝番の兵達は叩頭して、火の傍を離れた。少し離れた場所でもう一つ焚き火を始める様子である。
(人払いか)この若い将が、単于の派遣した護衛の隊長のようだった。
 これも命じていたのか、一人の兵が皮袋と金属の器を捧げてきて、焚き火のそばに置き、焚き火に大量の薪を足して去った。
 説は、将と並んで座った。火がはぜる。
「ひとつ、どうだ」
「いえ、私は不調法で・・」
「馬乳酒は苦手かな」
「いえ・・父の大好物でございました」
「そうか、では長城の近くの出じゃな」
「はい生れは燕でございます。頂きまする」咽(むせ)た。湯で割らぬ馬乳酒の酒精分は高い。
「何を埋めていたのかな」炎を見ながら将は、訊ねた。穏やかだが、月の光のように冷涼とした声音だった。「ほれ、酒を干せ。肴もあるぞ」若い将は、腰に下げた皮袋を開き、なにやら固まりを出した。
「それは?」
「兎の干肉じゃ。さあ、一気にやれ」中行説は、目をつぶって酒を流し込んだ。
(うっ)苦かった。
 口の中に火を放たれたようだった。馬の乳を醸しその上蒸留したきつい酒精である。やっと空にした器に、将は裂いた干肉を投げ入れた。口中の責苦を逃れようと、説はそれにかぶりついた。酔いが押し寄せる。
「まあ、もうひとつどうじゃ」将はまたなみなみと説の器に酒を満たした。そして手酌で、自分もちびりとあおる。「おちつくぞ」
 その声も、何か遠く聞こえた。説は、二杯目の馬乳酒を一気に飲み干した。
「蚕・・蚕の死骸を埋めておりました」どうせ夜が明けて、あの場所を匈奴の兵たちに見つけられてしまうのだ・・と回る酔いの中で思った。
「何、蚕。そなた、蚕をここまで持ってきておったのか」
「はい、公主様のご命令で」
  


Posted by 渋柿 at 17:22 | Comments(0)

2009年09月24日

「中行説の桑」29

「やはり・・」
「これが二日ほどで紫色になりまして、更に五日で青くなり・・蚕が孵ります」
 絶望的な気持ちになった。案内の長は、あと半月は砂漠の縁を進まねばならぬといっていた。桑どころか、草一本見えぬこのような所で孵った蚕は・・(死ぬしかあるまい)
 長城での身体検査があり、今も護衛の漢兵の目がある。桑の葉一枚、携えることはできなかった。なすすべは、なかった。
 孵ったばかりの蚕は米粒より小さい。それでも黒い毛を生やし、桑を求めて盛んに蠢いた。だが、与える桑は・・ない。二日後には、一匹、また一匹と力尽きていった。
 獏縁(ばくえん)に道をとって十日目、現在地は浚稽(しゅけい)山の麓という。今でいうアルタイ山脈の東端、ゴビ砂漠の西端である。
 深夜、中行説は長い薪を松明代わりに、天幕を出た。満月が、その要もなく足元を照らしていた。当直の兵士の目の届かぬと思われるところで、薪を振って火を消し捨てる。
 素手で、砂を掘った。そして公主から託された手巾の包みごと、死んだ蚕を埋めた。
(やはり、無理だった。済まぬことをした)
 中行説は、苦い思いで砂をかぶせる。月光が、ささやかな盛り土に光と影を作っていた。しばらく、黙然と座り込んでいた。
「何を埋められた」突然声を掛けられて、説は飛び上がった。
(見られた)
「漢の、公主のお供の方であろう」
「あなたは・・」やや訛りはあるが、正確な漢の言葉であった。「匈奴の将、ですね」
 皮革戎(じゅう)衣(い)、匈奴の武装をした男が、光を浴びて立っていた。
「おう。単于の命で、陰ながら行列を守っておる。もう三日になろうか。気付かれなかったかな」
「はい」
 男の声は思いがけず若かった。
(十七、八・・公主様より少し上か)
 説は、月光に相手の横顔を透かして思った。
「何を、埋めた?」
「・・・」
 一瞬、正直に話すかどうか迷った。
  


Posted by 渋柿 at 06:43 | Comments(0)