2010年01月19日
「続伏見桃片伊万里」【最終回】
軽く押し頂いて柞灰釉を懐に仕舞う。
「お光さんを見てて思ったよ」
「何を?」
「生きるってことは、こうやって毎日柞櫛をみがくことなのかもしれないな」
「ああ」
全く、その通りだと思った。
医者は患者を診、漁師はすなどり、百姓は大地を耕す。
人は皆、己の仕事を倦まず弛まず日々やっていくしか道はないのかもしれない。
「や、しまった。これ、播磨屋さんに返しそびれちまったが、まあ、いいか」
隼人は、瓢を取りあげた。
播磨屋から借りて、お光に最後に三十六峰を飲ませた瓢であった。
中はもう空である。
送り火は細る。
すぐ近くの先斗町辺り、色町の糸竹はまだ賑っている。
闇の中でも、東山は櫛に流れる漆黒の東山の稜線を横たえている筈。
「船、か?」
「いや、肥前まで陸路を行く。備中・足守の墓にも参りたいんでな」
「そうか」
更に盛り上がる先斗町の響みであった。
隼人は瓢をかざす。
「圭吾、受けてくれ。銘酒三十六峰、気持だけ」
栓を抜く。
「別杯か?」
「ああ」
圭吾も手に柞櫛を構え、架空の盃を持った。
虚に酒を汲み交わし、干しあう。
(酒は、本当はこんな風にこそ、飲むべきものなんだろうな)
医道専心のこの青年医師たちが、時代の大渦にまともに巻き込まれるのは、もう少し先のこととなる。
「お光さんを見てて思ったよ」
「何を?」
「生きるってことは、こうやって毎日柞櫛をみがくことなのかもしれないな」
「ああ」
全く、その通りだと思った。
医者は患者を診、漁師はすなどり、百姓は大地を耕す。
人は皆、己の仕事を倦まず弛まず日々やっていくしか道はないのかもしれない。
「や、しまった。これ、播磨屋さんに返しそびれちまったが、まあ、いいか」
隼人は、瓢を取りあげた。
播磨屋から借りて、お光に最後に三十六峰を飲ませた瓢であった。
中はもう空である。
送り火は細る。
すぐ近くの先斗町辺り、色町の糸竹はまだ賑っている。
闇の中でも、東山は櫛に流れる漆黒の東山の稜線を横たえている筈。
「船、か?」
「いや、肥前まで陸路を行く。備中・足守の墓にも参りたいんでな」
「そうか」
更に盛り上がる先斗町の響みであった。
隼人は瓢をかざす。
「圭吾、受けてくれ。銘酒三十六峰、気持だけ」
栓を抜く。
「別杯か?」
「ああ」
圭吾も手に柞櫛を構え、架空の盃を持った。
虚に酒を汲み交わし、干しあう。
(酒は、本当はこんな風にこそ、飲むべきものなんだろうな)
医道専心のこの青年医師たちが、時代の大渦にまともに巻き込まれるのは、もう少し先のこととなる。
Posted by 渋柿 at 16:40 | Comments(0)
2010年01月18日
「続伏見桃片伊万里」29
山の送り火は、尽きかけている。
「大阪の塾で出会った時は、互いにまだ十七だった」
「それから十年か。波乱万丈、いや支離滅裂、気がついたらここで慎一郎の送り火だ」
「その支離滅裂につき合わせて貰ったよ」
学業は、大阪書過町の師と京の南禅寺草川町の師の恩によってなった。
だが自分に先駆けて開業し、試行錯誤、町医者として一家を成すまでの隼人の苦闘であった。
傍らで見せて貰った恩はそれに劣らぬ。
(しかも、あの地獄から這い上がって)
「そうだ、忘れてた」
隼人はつと屈み、背に廻していた風呂敷を開いた。
中にまた小風呂敷の包みと、瓢。
「柞櫛かあ。俺にも貰えるのか!」
「ああ、お前にもってさ。お登世とお千代にも貰った」
最初に解かれた包から隼人が示した女櫛は、確かに型も歪み、櫛目も不揃いだった。
ただ、握る手の内に官能的な温もりさえ感じられる。
磨き抜かれていた。
(正妻さんが泣くはずだ)
「それから」
次にまた隼人は、油紙の包を取り出した。
「これは?」
「灰釉だよ、柞の。伏見稲荷から柞の木切れもらって櫛作るとき、お光さん、皮も木屑も途中で割れたのも取り除けてな。灰にして、毎日毎日灰汁掬って水替えて。きっちり一月な。それを乾かした」
「そうか」
「使えそうか?」
「ああ、知合んの窯元んところに届けるよ」
「圭吾」
「何だ?」
「お光さん、もう酒は断てる、って思う」
「おれもそう、思う」
(そしてお前も、もう本当に大丈夫らしい)
「大阪の塾で出会った時は、互いにまだ十七だった」
「それから十年か。波乱万丈、いや支離滅裂、気がついたらここで慎一郎の送り火だ」
「その支離滅裂につき合わせて貰ったよ」
学業は、大阪書過町の師と京の南禅寺草川町の師の恩によってなった。
だが自分に先駆けて開業し、試行錯誤、町医者として一家を成すまでの隼人の苦闘であった。
傍らで見せて貰った恩はそれに劣らぬ。
(しかも、あの地獄から這い上がって)
「そうだ、忘れてた」
隼人はつと屈み、背に廻していた風呂敷を開いた。
中にまた小風呂敷の包みと、瓢。
「柞櫛かあ。俺にも貰えるのか!」
「ああ、お前にもってさ。お登世とお千代にも貰った」
最初に解かれた包から隼人が示した女櫛は、確かに型も歪み、櫛目も不揃いだった。
ただ、握る手の内に官能的な温もりさえ感じられる。
磨き抜かれていた。
(正妻さんが泣くはずだ)
「それから」
次にまた隼人は、油紙の包を取り出した。
「これは?」
「灰釉だよ、柞の。伏見稲荷から柞の木切れもらって櫛作るとき、お光さん、皮も木屑も途中で割れたのも取り除けてな。灰にして、毎日毎日灰汁掬って水替えて。きっちり一月な。それを乾かした」
「そうか」
「使えそうか?」
「ああ、知合んの窯元んところに届けるよ」
「圭吾」
「何だ?」
「お光さん、もう酒は断てる、って思う」
「おれもそう、思う」
(そしてお前も、もう本当に大丈夫らしい)
Posted by 渋柿 at 21:00 | Comments(0)
2010年01月18日
「続伏見桃片伊万里」28
「何ですねん。駕籠の中でいいましたやろ、『お母ちゃんがお世話になりました』って、せんせ方にちゃんと挨拶しなはれ」
お米に促され、正吉ははにかんだように
「お世話になりました」
といった。
お光正吉と播磨屋のお米を乗せた駕籠が闇に消えるまで、見送った。
「お前もそう思うか?」
隼人がいった。
「ああ」
「痛いのは左というし・・」
左肩の痛み―。
それが稀に心の臓の発作、今でいう狭心症や急性心筋梗塞の前触れとは、二人とも初学の頃きいたことがあった。
「俺達も苦労性だなあ」
「まあ、取り越し苦労だろうよ」
「医者ってのも、因果なものさ」
「隼人、俺、来月・・伊万里に帰る」
圭吾が、淡くなっていく送り火を見上げた。
「いつ、決めた?」
「きのう、な。先生もおっしゃる。いろいろ、整理がつき次第、発つ」
学問の先進地で暮らした。
都に心残りは、ある。
吾が生涯は村医者、その初心の筈が、心は揺らいでいた。
迷いを断つまでに要した時は、短くはなかった。
「多分、次に逢うとき、お前はそういうと思ってたよ。何所で開業するんだ?」
「親父の店の、離れだ」
「肥前・伊万里津、か。遠いな」
二人とも、これが永別となると、このときは思った。
お米に促され、正吉ははにかんだように
「お世話になりました」
といった。
お光正吉と播磨屋のお米を乗せた駕籠が闇に消えるまで、見送った。
「お前もそう思うか?」
隼人がいった。
「ああ」
「痛いのは左というし・・」
左肩の痛み―。
それが稀に心の臓の発作、今でいう狭心症や急性心筋梗塞の前触れとは、二人とも初学の頃きいたことがあった。
「俺達も苦労性だなあ」
「まあ、取り越し苦労だろうよ」
「医者ってのも、因果なものさ」
「隼人、俺、来月・・伊万里に帰る」
圭吾が、淡くなっていく送り火を見上げた。
「いつ、決めた?」
「きのう、な。先生もおっしゃる。いろいろ、整理がつき次第、発つ」
学問の先進地で暮らした。
都に心残りは、ある。
吾が生涯は村医者、その初心の筈が、心は揺らいでいた。
迷いを断つまでに要した時は、短くはなかった。
「多分、次に逢うとき、お前はそういうと思ってたよ。何所で開業するんだ?」
「親父の店の、離れだ」
「肥前・伊万里津、か。遠いな」
二人とも、これが永別となると、このときは思った。
Posted by 渋柿 at 14:50 | Comments(0)
2010年01月17日
「続伏見桃片伊万里」27
声が出ないらしい。
お光は、懐に手を入れた。
油紙に包んだ、小さなものを取り出し、無言でお米に差し出した。
「これは―」
「いすのくし、だよ」
傍らから、隼人がいった。
「お光さんのてて親が櫛―柞櫛の職人だったのはご存知かな」
「へえ」
「お光さん、このふた月な、まだ手を震えさせながら櫛を磨いておった。お店さまにも差し上げる、とな」
「まあ」
お米はお光の手から包を受け取り、油紙を開いた。
そして押し頂いた。
「お光はん、おおきに。大事に遣わせてもらいます」
「出来、あんまりようおへんけど」
お光が、やっと小さな声でいった。
「いいええ、あて、嬉しゅうおす」
お米は、櫛を握り締めて、声を詰まらせた。
「お母ちゃん、ねえ、帰ろうなあ」
もう正吉は、お光に貼り付いて離れない。
「お光さん、一緒に帰りまひょ、旦さんも待ってますえ」
「あの、旦さんは?」
お光が尋ねた。
それは、最前から圭吾も不審に思っていた。
迎えは、播磨屋自身と思っていた。
「それが―肩が痛いって。四十肩でっしゃろけど」
「肩?」
そこは医者、圭吾が聞き咎めた。
「どちらじゃな、右か左か」
「左、っていうてましたけど」
「繰り返し痛むのかな」
「へえ、近頃再々。今日も出掛けよとしたら痛み出して。いえ、半時もせずに痛みは引くていうとりました」
(これは―)
圭吾は隼人を見た。
(用心した方がいいぞ)
隼人も、“妙に治りの早い四十肩”に別の病名が思い当たったようである。
「なるべく早く、新宮先生に見てもらうようお勧めなされ。それと、御主人の膳に塩気を控えて、な。急に重いものを持ち上げたり、息を切らすほど走ることも、避けたほうがよい」
「へえ」
お米は、きょとんとした顔で返事をした。
「ねえ、帰ろう、帰ろう」
正吉が、またお光の手を引っ張った。
お光は、懐に手を入れた。
油紙に包んだ、小さなものを取り出し、無言でお米に差し出した。
「これは―」
「いすのくし、だよ」
傍らから、隼人がいった。
「お光さんのてて親が櫛―柞櫛の職人だったのはご存知かな」
「へえ」
「お光さん、このふた月な、まだ手を震えさせながら櫛を磨いておった。お店さまにも差し上げる、とな」
「まあ」
お米はお光の手から包を受け取り、油紙を開いた。
そして押し頂いた。
「お光はん、おおきに。大事に遣わせてもらいます」
「出来、あんまりようおへんけど」
お光が、やっと小さな声でいった。
「いいええ、あて、嬉しゅうおす」
お米は、櫛を握り締めて、声を詰まらせた。
「お母ちゃん、ねえ、帰ろうなあ」
もう正吉は、お光に貼り付いて離れない。
「お光さん、一緒に帰りまひょ、旦さんも待ってますえ」
「あの、旦さんは?」
お光が尋ねた。
それは、最前から圭吾も不審に思っていた。
迎えは、播磨屋自身と思っていた。
「それが―肩が痛いって。四十肩でっしゃろけど」
「肩?」
そこは医者、圭吾が聞き咎めた。
「どちらじゃな、右か左か」
「左、っていうてましたけど」
「繰り返し痛むのかな」
「へえ、近頃再々。今日も出掛けよとしたら痛み出して。いえ、半時もせずに痛みは引くていうとりました」
(これは―)
圭吾は隼人を見た。
(用心した方がいいぞ)
隼人も、“妙に治りの早い四十肩”に別の病名が思い当たったようである。
「なるべく早く、新宮先生に見てもらうようお勧めなされ。それと、御主人の膳に塩気を控えて、な。急に重いものを持ち上げたり、息を切らすほど走ることも、避けたほうがよい」
「へえ」
お米は、きょとんとした顔で返事をした。
「ねえ、帰ろう、帰ろう」
正吉が、またお光の手を引っ張った。
Posted by 渋柿 at 19:09 | Comments(0)
2010年01月17日
「続伏見桃片伊万里」26
「せめてもの償いに、息子に慎一郎って名付けたけど。人が死ぬって辛いよな。あの夜、高瀬舟でお光さん叫んだろ、絶対お店さま許さん、って。慎一郎の親御も、過ちで吾子殺した俺を、殺してやりたいほど、憎まれた夜もあったろうよ」
「いや、ご両親は一言もそんなことは―」
栗林慎一郎の遺骨を備中足守の老親のもとに届けたのは、圭吾だった。
悲しみの中にも毅然と吾子を褒めたのを、この目で見、この耳で聞いている。
隼人は、薄く笑った。
「お前も、親になればわかる」
「いいえ!」
お光がいった。
「違います。人は、親には、必あらず赦す日が来るんどす。そやないとあんまり悲しすぎるやおへんか」
「お光さん―」
圭吾は、お光の顔を見た。
(この人は、もう赦しているよ)
傍らで隼人が頷いている。
「お母ちゃん」
幼い声がして、闇の中から小さな影がお光に抱きついてきた。
「正吉!」
「迎えに来たで。お店のお母はんも一緒や」
弾む声であった。
「お店さまが?」
「うん」
正吉は後の闇から、一人の女の手を引いて来た。
「駕籠できたんや。お母ちゃんのもあるで。―お母はん、帰りはそっちで一緒に乗りいって、なあ」
「へえ、久しぶりにお母ちゃんのひざで甘えぇな」
うす闇の中でも、絹物の大家のお内儀の身なりはわかった。
声は四十前の、落ち着きを含んでいる。
(しかし、なあ)
(お店さまが、迎えか)
(お光さんに、この刺激はまだ早すぎるんじゃ)
隼人と圭吾は顔を見合わせた。
「村田せんせ、堀せんせ。播磨屋の米でございます。この度はほんまにもう、ありがとうさんでおました。―お光はん、よう戻ってくだ張りましたなぁ」
播磨屋の本妻、お米は、深々と頭を下げ、お光の手をとった。
「お店さま―」
「あんたにゃあ幾等詫びても詫び足りまへん。どうか堪忍してなあ」
「堪忍て―」
「いえ、赦してもらおやて虫がよすぎますなあ。一生、あてを恨んでくだはれ。あてに出来る償い、何なりとさせて頂きますぅ」
お光は、すぐには答えることが出来なかった。
泣くような、笑うような表情に顔を歪めて、必死に言葉を出そうとしていた。
「いや、ご両親は一言もそんなことは―」
栗林慎一郎の遺骨を備中足守の老親のもとに届けたのは、圭吾だった。
悲しみの中にも毅然と吾子を褒めたのを、この目で見、この耳で聞いている。
隼人は、薄く笑った。
「お前も、親になればわかる」
「いいえ!」
お光がいった。
「違います。人は、親には、必あらず赦す日が来るんどす。そやないとあんまり悲しすぎるやおへんか」
「お光さん―」
圭吾は、お光の顔を見た。
(この人は、もう赦しているよ)
傍らで隼人が頷いている。
「お母ちゃん」
幼い声がして、闇の中から小さな影がお光に抱きついてきた。
「正吉!」
「迎えに来たで。お店のお母はんも一緒や」
弾む声であった。
「お店さまが?」
「うん」
正吉は後の闇から、一人の女の手を引いて来た。
「駕籠できたんや。お母ちゃんのもあるで。―お母はん、帰りはそっちで一緒に乗りいって、なあ」
「へえ、久しぶりにお母ちゃんのひざで甘えぇな」
うす闇の中でも、絹物の大家のお内儀の身なりはわかった。
声は四十前の、落ち着きを含んでいる。
(しかし、なあ)
(お店さまが、迎えか)
(お光さんに、この刺激はまだ早すぎるんじゃ)
隼人と圭吾は顔を見合わせた。
「村田せんせ、堀せんせ。播磨屋の米でございます。この度はほんまにもう、ありがとうさんでおました。―お光はん、よう戻ってくだ張りましたなぁ」
播磨屋の本妻、お米は、深々と頭を下げ、お光の手をとった。
「お店さま―」
「あんたにゃあ幾等詫びても詫び足りまへん。どうか堪忍してなあ」
「堪忍て―」
「いえ、赦してもらおやて虫がよすぎますなあ。一生、あてを恨んでくだはれ。あてに出来る償い、何なりとさせて頂きますぅ」
お光は、すぐには答えることが出来なかった。
泣くような、笑うような表情に顔を歪めて、必死に言葉を出そうとしていた。
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2010年01月16日
「続伏見桃片伊万里」25
もうお光は寂しさを表に出さない。
これからは、小女を置いて、ゆくゆくはまた南禅寺堂町で小間物の小商いを初めて暮らすということになっていた。
お光と、付添ってきた隼人が舟から下りる。
今日を戻る日に決めたのはお光自身という。
(死者を送る日、生別も死別も、けじめをつけるのか)
山に積み上げられた善男善女寄進の護摩木が、京を囲む山の五か所に積み上げられ、点火のときは迫っていた。
このあたりは、如意が岳の大文字がよく見える。
川辺の涼風もあり、送り火を見る善男善女が、集まっていた。
「ご苦労だったな」
返事はなく、隼人はただ黙って燃える火を見ていた。
「送り火か、早いものだ。慎一郎が死んで、七回目の」
宙を見る傍白であった。
歓声が上がった。
未刻となったらしい。
山の火が燃上がる。
これから、少しずつ間をおいて、
「妙と法、舟形、左大文字、鳥居」
と小半時あまりのうちにそれぞれの山の火が付けられていく。
「慎一郎はん?、死んだて?」
お光は聞咎た。
「いや、七年前、伏見の慎一郎はまだ生まれてもおらんよ。その仏は、栗林慎一郎と申す、俺達の蘭学塾の仲間だ」
やむなく、圭吾がいう。
栗林慎一郎、嘉永六年一月二十六日没。享年は二十歳であった。
「俺が、殺したのさ」
「隼人!」
圭吾の声を無視し、隼人は続ける。
「酒毒が抜けたばかりの頃、ふらふらで馬に蹴殺されかけた。飛び込んで、俺庇って、身代わりに死んじまったのが・・栗林慎一郎。もったいない、とてもとてのこんな出来損いと引き換えにできるような凡才じゃなかったのに、二十歳で死んじまったんだ!」
「村田せんせ」
これからは、小女を置いて、ゆくゆくはまた南禅寺堂町で小間物の小商いを初めて暮らすということになっていた。
お光と、付添ってきた隼人が舟から下りる。
今日を戻る日に決めたのはお光自身という。
(死者を送る日、生別も死別も、けじめをつけるのか)
山に積み上げられた善男善女寄進の護摩木が、京を囲む山の五か所に積み上げられ、点火のときは迫っていた。
このあたりは、如意が岳の大文字がよく見える。
川辺の涼風もあり、送り火を見る善男善女が、集まっていた。
「ご苦労だったな」
返事はなく、隼人はただ黙って燃える火を見ていた。
「送り火か、早いものだ。慎一郎が死んで、七回目の」
宙を見る傍白であった。
歓声が上がった。
未刻となったらしい。
山の火が燃上がる。
これから、少しずつ間をおいて、
「妙と法、舟形、左大文字、鳥居」
と小半時あまりのうちにそれぞれの山の火が付けられていく。
「慎一郎はん?、死んだて?」
お光は聞咎た。
「いや、七年前、伏見の慎一郎はまだ生まれてもおらんよ。その仏は、栗林慎一郎と申す、俺達の蘭学塾の仲間だ」
やむなく、圭吾がいう。
栗林慎一郎、嘉永六年一月二十六日没。享年は二十歳であった。
「俺が、殺したのさ」
「隼人!」
圭吾の声を無視し、隼人は続ける。
「酒毒が抜けたばかりの頃、ふらふらで馬に蹴殺されかけた。飛び込んで、俺庇って、身代わりに死んじまったのが・・栗林慎一郎。もったいない、とてもとてのこんな出来損いと引き換えにできるような凡才じゃなかったのに、二十歳で死んじまったんだ!」
「村田せんせ」
Posted by 渋柿 at 17:29 | Comments(0)
2010年01月16日
「続伏見桃片伊万里」24
三月が、たった。
この間の世の動きを年表に見ると、安政六年の初夏には歴史の大変動が起こっている。
桜田門外でこの三月に横死した井伊直弼の手により、前年諸外国と結ばれた修好通商条約に基づいて、函館・横浜・長崎の港が、アメリカはじめイギリスやフランスに対して開かれるたのだ。
時代は、さらに諸国列強の利権まで絡み、風雲は急を告げることになる。
圭吾は蘭学を通して当時の他者よりはずっとその事情に通じていた筈である。
だが日記を読む限り、そのことにあまり思いをいたした様子は見えない。
とまれ、
「お光ほぼ本復いたし―」
伏見の村田隼人の手紙を受取ったのは昨日だった。
師は、手紙を渡しながら、いったのだ。
「そういえば、書過町からも先頃書状がまいっての、叱られたわ」
書過町。
大阪・淀橋、圭吾が隼人らと際所に入門した蘭学塾の所在地である。
師は旧友のその蘭学者も書過町と呼ぶ。
相手が師を草川町と呼ぶように。
「はあ」
「何時まで堀を便利使いしておる、さっさと肥前へ返せ、とな」
「先生!」
「確かに、お前にあまえておったようじゃ。もしこのまま京に留まって医名を揚げたければ、それもよい。じゃが」
穏やかに師は続ける。
「じゃがなあ、わしの歳を考えていいだせずにおったなら、帰れ。もうわしも門を閉じて隠居する時期じゃろうて」
「先生、私は―」
「お前は、日本一の村医者になる男だよ」
師の言葉が、万雷のように聞こえた。
京の五山に盂蘭盆の送り火が燃える、八月十六日。
東山・如意が岳(大文字山)山腹の
「大」
の字を皮切りに、北山を経て西に向かい
「妙と法、舟形、左大文字、鳥居」
の送り火が燃える日であった。
伏見の村田隼人の元で三月を過ごし、お光は京に戻ってきた。
いつもの三条大橋、船着場であった。
伏見からもどった高瀬舟を、堀圭吾が出迎える。
(これも覚悟の表れか)
この間の世の動きを年表に見ると、安政六年の初夏には歴史の大変動が起こっている。
桜田門外でこの三月に横死した井伊直弼の手により、前年諸外国と結ばれた修好通商条約に基づいて、函館・横浜・長崎の港が、アメリカはじめイギリスやフランスに対して開かれるたのだ。
時代は、さらに諸国列強の利権まで絡み、風雲は急を告げることになる。
圭吾は蘭学を通して当時の他者よりはずっとその事情に通じていた筈である。
だが日記を読む限り、そのことにあまり思いをいたした様子は見えない。
とまれ、
「お光ほぼ本復いたし―」
伏見の村田隼人の手紙を受取ったのは昨日だった。
師は、手紙を渡しながら、いったのだ。
「そういえば、書過町からも先頃書状がまいっての、叱られたわ」
書過町。
大阪・淀橋、圭吾が隼人らと際所に入門した蘭学塾の所在地である。
師は旧友のその蘭学者も書過町と呼ぶ。
相手が師を草川町と呼ぶように。
「はあ」
「何時まで堀を便利使いしておる、さっさと肥前へ返せ、とな」
「先生!」
「確かに、お前にあまえておったようじゃ。もしこのまま京に留まって医名を揚げたければ、それもよい。じゃが」
穏やかに師は続ける。
「じゃがなあ、わしの歳を考えていいだせずにおったなら、帰れ。もうわしも門を閉じて隠居する時期じゃろうて」
「先生、私は―」
「お前は、日本一の村医者になる男だよ」
師の言葉が、万雷のように聞こえた。
京の五山に盂蘭盆の送り火が燃える、八月十六日。
東山・如意が岳(大文字山)山腹の
「大」
の字を皮切りに、北山を経て西に向かい
「妙と法、舟形、左大文字、鳥居」
の送り火が燃える日であった。
伏見の村田隼人の元で三月を過ごし、お光は京に戻ってきた。
いつもの三条大橋、船着場であった。
伏見からもどった高瀬舟を、堀圭吾が出迎える。
(これも覚悟の表れか)
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2010年01月15日
「続伏見桃片伊万里」23
「でも、ほんま仲よう・・」
「そう、俺の子じゃないっていえば、それはやっぱり違うな。連れ子だろうが血がつながってなかろうが、やっぱりお千代は俺の娘だ」
「こいつが滅茶苦茶になって死にぞこなった晩、お千代ちゃんが喘息の発作で、お登世さんと駆込んで来てたんだ。まあ、一口じゃいえんが、こいつが今生きてんのは、お登世さんとお千代ちゃんのお陰さ」
圭吾はその修羅場を思い出していた。
「と、もう一人な」
圭吾が添えた言葉に、隼人は呟く。
(その話はまだは早かろう)
(ああ)
お光の視線がゆっくりと上がった。
「血がつながらんでも、本当の親子」
「播磨屋のお内儀も、お子、可愛がっておるのだろう?それがわかってるから、あんたも庇うた。違うか」
「へえ」
「酒毒に浸されているうちは、悪く悪く、物事が歪んでしか見えぬものじゃが。俺もそうだった。でもなあ、見守ってやれ、遠くから。お千代の父親は流り病で死んだそうだが、きっとあの世で俺達のこと、苦笑いして見てる、と思う」
(おい、説教はまだ早いんじゃ―)
(まあ、この人ならいいだろう)
お光は立ち上がった。緩慢な動作だった。
「後片付け、させてもらいます」
覚束ない手つき足取り、それでも膳を下げて御勝手に運ぶ。
「急に、無理することはないぞ」
「へえ」
背を向けて、お光は洗物をはじめた。
「全く・・同じだな、お前んときと」
圭吾が隼人に笑いかけた。
「ああ、まず自分から何かしようって気力が出れば、かなりいい傾向だ」
「お前も、最初はあんなに危なっかしかったな」
お光を隼人に託して、圭吾が南禅寺草川町に戻ったのは、その翌日だった。
「そう、俺の子じゃないっていえば、それはやっぱり違うな。連れ子だろうが血がつながってなかろうが、やっぱりお千代は俺の娘だ」
「こいつが滅茶苦茶になって死にぞこなった晩、お千代ちゃんが喘息の発作で、お登世さんと駆込んで来てたんだ。まあ、一口じゃいえんが、こいつが今生きてんのは、お登世さんとお千代ちゃんのお陰さ」
圭吾はその修羅場を思い出していた。
「と、もう一人な」
圭吾が添えた言葉に、隼人は呟く。
(その話はまだは早かろう)
(ああ)
お光の視線がゆっくりと上がった。
「血がつながらんでも、本当の親子」
「播磨屋のお内儀も、お子、可愛がっておるのだろう?それがわかってるから、あんたも庇うた。違うか」
「へえ」
「酒毒に浸されているうちは、悪く悪く、物事が歪んでしか見えぬものじゃが。俺もそうだった。でもなあ、見守ってやれ、遠くから。お千代の父親は流り病で死んだそうだが、きっとあの世で俺達のこと、苦笑いして見てる、と思う」
(おい、説教はまだ早いんじゃ―)
(まあ、この人ならいいだろう)
お光は立ち上がった。緩慢な動作だった。
「後片付け、させてもらいます」
覚束ない手つき足取り、それでも膳を下げて御勝手に運ぶ。
「急に、無理することはないぞ」
「へえ」
背を向けて、お光は洗物をはじめた。
「全く・・同じだな、お前んときと」
圭吾が隼人に笑いかけた。
「ああ、まず自分から何かしようって気力が出れば、かなりいい傾向だ」
「お前も、最初はあんなに危なっかしかったな」
お光を隼人に託して、圭吾が南禅寺草川町に戻ったのは、その翌日だった。
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2010年01月15日
「続伏見桃片伊万里」22
「お光さん、あんたはまだ酒毒も浅い。俺あ暫くは畳の毛羽、日がな一日毟ってばかりだった、なあ圭吾」
薬物依存によく見られる同じ動作の繰り返し。
現在の医学では常同行動と呼ばれている。
「ああ、どうせならあの調子で数珠石でも磨きゃあ手間賃くらいにゃあなったのに。人の借り家の畳、三枚も駄目にしやがって」
「畳?毛羽毟り?」
「俺も酒毒さ。お光さん、あんたはあの頃の俺よりずっとましなんだよ。俺と来たら酒切れて」
「刃物あ振り回すし、反吐はいて、小便も漏らしたな」
「この野郎、そこまでいわんでもいいだろうに。まあ、そりゃ本当のことだ。だから今も俺あこいつに頭があがらん」
「いや、近頃は随分・・頭が高くなって来たぞ」
ぷっと、お登世が吹き出した。
(おっと、妻子の前だった)
「あんたら、嫁菜摘みに行きまひょか」
お登世は子供達に笑いながら声をかけた。
「お千代、笊持ってきて」
「慎もいく、いく」
「お昼に、若菜の羹しまひょ、ほな、ちょっといって来ます」
(さすが夫婦だ)
見事な呼吸だった。
膳もまだ下げていない。
姉と弟は、膳がそのままなのをちょっと不審そうに見ていたが、箸を置くと手を繋いで後を追った。
「お子たち、元気どすな」
お光は少し辛そうにいった。
「一人は、実をいえば俺の子じゃないがね」
隼人は、さらりと口にする。
「えっ」
「お千代は、お登世の連れ子さ」
薬物依存によく見られる同じ動作の繰り返し。
現在の医学では常同行動と呼ばれている。
「ああ、どうせならあの調子で数珠石でも磨きゃあ手間賃くらいにゃあなったのに。人の借り家の畳、三枚も駄目にしやがって」
「畳?毛羽毟り?」
「俺も酒毒さ。お光さん、あんたはあの頃の俺よりずっとましなんだよ。俺と来たら酒切れて」
「刃物あ振り回すし、反吐はいて、小便も漏らしたな」
「この野郎、そこまでいわんでもいいだろうに。まあ、そりゃ本当のことだ。だから今も俺あこいつに頭があがらん」
「いや、近頃は随分・・頭が高くなって来たぞ」
ぷっと、お登世が吹き出した。
(おっと、妻子の前だった)
「あんたら、嫁菜摘みに行きまひょか」
お登世は子供達に笑いながら声をかけた。
「お千代、笊持ってきて」
「慎もいく、いく」
「お昼に、若菜の羹しまひょ、ほな、ちょっといって来ます」
(さすが夫婦だ)
見事な呼吸だった。
膳もまだ下げていない。
姉と弟は、膳がそのままなのをちょっと不審そうに見ていたが、箸を置くと手を繋いで後を追った。
「お子たち、元気どすな」
お光は少し辛そうにいった。
「一人は、実をいえば俺の子じゃないがね」
隼人は、さらりと口にする。
「えっ」
「お千代は、お登世の連れ子さ」
Posted by 渋柿 at 05:21 | Comments(0)
2010年01月12日
「続伏見桃片伊万里」21
隣で微笑んでいるお登世の髪には、堂町のお光の店で圭吾が貰った、あの柞櫛がさしてある。
お光も、粥の盛られた碗の、場違いな見事さには気が付いたようだ。
目の高さに上げたり近づけて模様に見入ったりしている。
そして、かなり時間こそかかったが、その一碗全部を食べることが出来た。
一日、二日。
薄紙をはぐようにお光の瞳に光が戻り、表情に豊かさを加えていった。
隼人は母屋で診療を再開した。
圭吾は離れに付き添って、お光に自分が病である自覚を持たせるべく、酒毒の機序を説いく。
三日目の朝、粥を盛られた染付の碗を手にしたとき、お光の唇が動いた。
「柞の灰、どしたな」
「そう、これが柞灰の釉の染付さ」
「柞灰の釉」
「灰釉ってのは手がかかってな。柞の灰を水に入れてひたすら、灰汁を掬うんだ。毎日水替えて一月も二月も、ぬめりが完全になくなるまで」
「柞櫛もただ、磨くんどす」
お光がいった。
まだ緩慢、ぼそぼそとした口調で続ける。
「柞の木、幾月も陰干して、それ板に引いて櫛の型削って糸鋸で歯入れて、磨きます。とくさで十日、鹿の角でまた十日。一心に、手になじむまで」
「お光さん、柞櫛作って見んかの」
突然、隼人がいった。
「何ぃ?」
「去年の野分で、伏見稲荷の杜ん奥で結構大きな柞の木倒れてそのままにしてあるって聞いた・・ような気がするんだ」
(いくら親が柞櫛職人でも・・無理だ)
「宮司どのに頼めば、譲っていただけよう。櫛にするほどなら、そう大きくは要るまいよ。どうかなお光さん?ひとつことをひたすら、やってみんか。むろん体をちゃんと治してからのことだが」
(作業療法か?)
圭吾の視線に隼人は軽く頷く。
お光も、粥の盛られた碗の、場違いな見事さには気が付いたようだ。
目の高さに上げたり近づけて模様に見入ったりしている。
そして、かなり時間こそかかったが、その一碗全部を食べることが出来た。
一日、二日。
薄紙をはぐようにお光の瞳に光が戻り、表情に豊かさを加えていった。
隼人は母屋で診療を再開した。
圭吾は離れに付き添って、お光に自分が病である自覚を持たせるべく、酒毒の機序を説いく。
三日目の朝、粥を盛られた染付の碗を手にしたとき、お光の唇が動いた。
「柞の灰、どしたな」
「そう、これが柞灰の釉の染付さ」
「柞灰の釉」
「灰釉ってのは手がかかってな。柞の灰を水に入れてひたすら、灰汁を掬うんだ。毎日水替えて一月も二月も、ぬめりが完全になくなるまで」
「柞櫛もただ、磨くんどす」
お光がいった。
まだ緩慢、ぼそぼそとした口調で続ける。
「柞の木、幾月も陰干して、それ板に引いて櫛の型削って糸鋸で歯入れて、磨きます。とくさで十日、鹿の角でまた十日。一心に、手になじむまで」
「お光さん、柞櫛作って見んかの」
突然、隼人がいった。
「何ぃ?」
「去年の野分で、伏見稲荷の杜ん奥で結構大きな柞の木倒れてそのままにしてあるって聞いた・・ような気がするんだ」
(いくら親が柞櫛職人でも・・無理だ)
「宮司どのに頼めば、譲っていただけよう。櫛にするほどなら、そう大きくは要るまいよ。どうかなお光さん?ひとつことをひたすら、やってみんか。むろん体をちゃんと治してからのことだが」
(作業療法か?)
圭吾の視線に隼人は軽く頷く。
Posted by 渋柿 at 13:27 | Comments(0)
2010年01月11日
「続伏見桃片伊万里」20
体内から酒精が抜け切るまでの、自我も崩壊する、嵐。叫び。
お光は暴発を続けた。
灯りを絶やさず、怪我をさせぬよう、また最低限の体力だけは維持するよう、圭吾と隼人は交替で眠った。
ひたすら監視し、時には止むを得ぬ縄目も使い、無理に湯冷ましと重湯を与えて、ただ待っていた。
厠だけは一刻おきに、隼人の妻女・お登世が付き添う。
そして、自我の覚醒は、伏見へ来て三日目の未明だった。
四日目の朝となった。
お光の部屋の格子は、昨日には取り払っていた。
圭吾は久々に、隼人の家族とともに朝餉の膳についた。
隼人の娘のお千代は十ばかり、甲斐甲斐しく母のお登世を手伝う。
弟の慎一郎も姉を見習っている。やっと母屋にもどった父がうれしくてたまらぬのが、わかる。
(いつ来ても、ここは良い)
同門、同年の友はすっかり所帯持ちが板に付いている。
お光の前にも、粥とお登世心尽しの豆腐汁、煉味噌と香物の膳が出ている。
この世帯が朝に豆腐を購っている。
それが年に数度の事ということを、圭吾は知っていた。
(これは!)
お千代の可愛い給仕に飯を受取ったとき、圭吾は息を飲んだ。
気がつけば全員の飯碗が、
(違う!)
普段使いのものではなかった。
冴えた白磁に呉須(濃藍)で、外側には一面の牡丹唐草文様の飯茶碗だった。
今は飯にかくれて見えないが、内側にも淵に帯唐草が施され、底には小さく松竹梅が描かれている筈だった。
(伊万里染付、柞の木の灰釉だ)
隼人とお登世の祝言の折り、圭吾が伊万里の実家から取り寄せて祝いとした、五客揃であった。
お光は暴発を続けた。
灯りを絶やさず、怪我をさせぬよう、また最低限の体力だけは維持するよう、圭吾と隼人は交替で眠った。
ひたすら監視し、時には止むを得ぬ縄目も使い、無理に湯冷ましと重湯を与えて、ただ待っていた。
厠だけは一刻おきに、隼人の妻女・お登世が付き添う。
そして、自我の覚醒は、伏見へ来て三日目の未明だった。
四日目の朝となった。
お光の部屋の格子は、昨日には取り払っていた。
圭吾は久々に、隼人の家族とともに朝餉の膳についた。
隼人の娘のお千代は十ばかり、甲斐甲斐しく母のお登世を手伝う。
弟の慎一郎も姉を見習っている。やっと母屋にもどった父がうれしくてたまらぬのが、わかる。
(いつ来ても、ここは良い)
同門、同年の友はすっかり所帯持ちが板に付いている。
お光の前にも、粥とお登世心尽しの豆腐汁、煉味噌と香物の膳が出ている。
この世帯が朝に豆腐を購っている。
それが年に数度の事ということを、圭吾は知っていた。
(これは!)
お千代の可愛い給仕に飯を受取ったとき、圭吾は息を飲んだ。
気がつけば全員の飯碗が、
(違う!)
普段使いのものではなかった。
冴えた白磁に呉須(濃藍)で、外側には一面の牡丹唐草文様の飯茶碗だった。
今は飯にかくれて見えないが、内側にも淵に帯唐草が施され、底には小さく松竹梅が描かれている筈だった。
(伊万里染付、柞の木の灰釉だ)
隼人とお登世の祝言の折り、圭吾が伊万里の実家から取り寄せて祝いとした、五客揃であった。
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2010年01月10日
「続伏見桃片伊万里」19
隼人が用心して飲ませたので、お光は何とか自分の足で舟を下り、圭吾の家まで歩いた。
隼人は母屋を避け、まず、離れにお光を連れていった。
帰りが深更になるのはわかっていたので、妻のお登世には宵のうちに戸締り消灯して寝ているようにいっておいたという。
灯を入れ、既に敷いてある布団に寝かせる。
「ここ三月ばかりは、患者にこの部屋使わずにすんでいたでな」
手習いの草子を乗せた小さな文机を、隅に片付けながら隼人がいった。
草子をめくると、
「天地玄黄」
などの千字文とともに、たどたどしいオランダ文字も手習いされている。
「ここでお千代と慎一郎の手習いをしてるんだ」
「お千代ちゃんにもオランダ語を?」
「最初は『いろは』んついでに慎一郎に教えてたんだが、お千代も面白がって、な」
「紫女の漢籍みたいな話だな」
「ああ、やっぱ年上だし、お千代のほうが覚えは早いよ。ひょっとしたら、志本イネさんみたいになるかもしれんぞ」
(志本イネ!高野長英や二宮敬作を育てたシーボルト先生の娘さん・・)
日本最初の女医である。
目の前の友は、娘にそんな夢すら抱く、立派な親馬鹿となっていた。
その親馬鹿が、どたりと座り込んで、大きく息を吐く。
「済まんな、大変なこと持ち込んじまって」
「いや、大枚五〇両の請負じゃ、有難い」
明日お光が目覚めてからの地獄絵図の見当はつく。
その言葉は額面では受取れない。
「高瀬舟の上り下り、疲れておる所をこちらこそ済まんが、ちょっと手を貸せ」
隼人は押入から、何やら大きなものを取り出しながらいった。
「格子か!」
かなり太い材木で組まれている。
一枚には出入りするための鈎のある戸が付いていた。
「そうだ、格子。四方をかこんで組立りゃ二畳の広さで、天井と隙間もない高ささ。豊太閤の黄金の茶室も 二畳間の組立だったそうだが、こっちは座敷牢・・侘び寂びもへったくれもないしろもんだな」
「やはり、これがいるか」
組立てながら、不覚にも圭吾は涙ぐんだ。
「ああ、見たところ胃の腑も肝の臓もかなりまいちゃあいるがな、まだ若いだろ、いざとなったら自傷他害のおそれは多いぞ。生きて娑婆に戻ってもらうためにゃ、今はこれがいる」
お光の布団の廻り四隅に格子を立て、臍を臍穴に嵌め込み、麻縄できつく縛る。
傷つくものを保護する、檻。お光は眠り続けている。
隼人は髷の根を解いた。
本当は、髷をつるのは体に負担なのだ。
本格的に病臥させるときの当然の処置。解いた髪をそっと柔らかく梳く隼人の手。その櫛に、見覚えがあった。
まだ艶を失っていないお光の髪が、肩から枕、東山の連なりのようにこぼれていった。
隼人は母屋を避け、まず、離れにお光を連れていった。
帰りが深更になるのはわかっていたので、妻のお登世には宵のうちに戸締り消灯して寝ているようにいっておいたという。
灯を入れ、既に敷いてある布団に寝かせる。
「ここ三月ばかりは、患者にこの部屋使わずにすんでいたでな」
手習いの草子を乗せた小さな文机を、隅に片付けながら隼人がいった。
草子をめくると、
「天地玄黄」
などの千字文とともに、たどたどしいオランダ文字も手習いされている。
「ここでお千代と慎一郎の手習いをしてるんだ」
「お千代ちゃんにもオランダ語を?」
「最初は『いろは』んついでに慎一郎に教えてたんだが、お千代も面白がって、な」
「紫女の漢籍みたいな話だな」
「ああ、やっぱ年上だし、お千代のほうが覚えは早いよ。ひょっとしたら、志本イネさんみたいになるかもしれんぞ」
(志本イネ!高野長英や二宮敬作を育てたシーボルト先生の娘さん・・)
日本最初の女医である。
目の前の友は、娘にそんな夢すら抱く、立派な親馬鹿となっていた。
その親馬鹿が、どたりと座り込んで、大きく息を吐く。
「済まんな、大変なこと持ち込んじまって」
「いや、大枚五〇両の請負じゃ、有難い」
明日お光が目覚めてからの地獄絵図の見当はつく。
その言葉は額面では受取れない。
「高瀬舟の上り下り、疲れておる所をこちらこそ済まんが、ちょっと手を貸せ」
隼人は押入から、何やら大きなものを取り出しながらいった。
「格子か!」
かなり太い材木で組まれている。
一枚には出入りするための鈎のある戸が付いていた。
「そうだ、格子。四方をかこんで組立りゃ二畳の広さで、天井と隙間もない高ささ。豊太閤の黄金の茶室も 二畳間の組立だったそうだが、こっちは座敷牢・・侘び寂びもへったくれもないしろもんだな」
「やはり、これがいるか」
組立てながら、不覚にも圭吾は涙ぐんだ。
「ああ、見たところ胃の腑も肝の臓もかなりまいちゃあいるがな、まだ若いだろ、いざとなったら自傷他害のおそれは多いぞ。生きて娑婆に戻ってもらうためにゃ、今はこれがいる」
お光の布団の廻り四隅に格子を立て、臍を臍穴に嵌め込み、麻縄できつく縛る。
傷つくものを保護する、檻。お光は眠り続けている。
隼人は髷の根を解いた。
本当は、髷をつるのは体に負担なのだ。
本格的に病臥させるときの当然の処置。解いた髪をそっと柔らかく梳く隼人の手。その櫛に、見覚えがあった。
まだ艶を失っていないお光の髪が、肩から枕、東山の連なりのようにこぼれていった。
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2010年01月10日
「続伏見桃片伊万里」18
相客の視線が集まったが、隼人が猪口にゆっくり瓢を傾けると、
(姐さん、いい機嫌やわ)
(一緒の男衆、二人とも医者髷やけど・・まあお医者はんかてたまには女連れで舟遊びもなさるわなあ)
と、てんでんにまた、眠る者は眠り、しゃべるものは道連れと話を再開する。
(うまいものだ)
隼人は酒を注ぐ。
厳密にいうと酒毒に完治ということがない。
酒精で一旦変質してしまった脳髄は、また酒精の刺激を受けると簡単に元にもどってしまう。
断酒において、人が己の意思で制御できるのは酒を口にする直前までのことであるという。
一口酒を口にすればまたも堕ちてゆき、かなりの確率でかつての酒毒地獄にもどってしまう。
これは医者であろうと、隼人も決して例外ではないのだ。
そのことを当然熟知する隼人は、瓢の酒を一滴も口にしてはいない。
だが、実に巧妙に瓢を扱うので、お光と差しつ差されつのようにしか見えない。
そうして辛抱強くお光の酔いの繰言を聞いている。
「うちは堪忍したんどっせ!」
お光は吼えた。
「お店さまの不注意や、それでお筆が死んでも、堪忍したんや、赦したんや」
「ああ、わかるぞ、わかるとも」
隼人は瓢を圭吾に向けながら応えた。
(おい、少し手伝え)
目配せに渡されていた猪口を出したが、
(ああぁ・・)
噫がのど元までこみ上げる。
圭吾は天性の下戸、一合どころか五勺の酒で動悸がする始末だ。
隼人が注いだ酒を舐める様に必死の思い出で、干した。
「大恩あるお店さま、だから庇うた、赦した。それなのに・・許さへん、うちはお店さまを絶対許さへん!」
己の中の堰は、切れてしまっていた。
お光は吼えまくった挙句、猪口を隼人の鼻先に突き出した。
「先生、酒、足らんわ」
お光は、隼人に自分の猪口を突き出した。
「いや、すまん。おつもりじゃ。最後の一雫までな、さっきこいつが飲んじまった」
(誰が・・だ)
圭吾は全身の力が、抜けた。
(姐さん、いい機嫌やわ)
(一緒の男衆、二人とも医者髷やけど・・まあお医者はんかてたまには女連れで舟遊びもなさるわなあ)
と、てんでんにまた、眠る者は眠り、しゃべるものは道連れと話を再開する。
(うまいものだ)
隼人は酒を注ぐ。
厳密にいうと酒毒に完治ということがない。
酒精で一旦変質してしまった脳髄は、また酒精の刺激を受けると簡単に元にもどってしまう。
断酒において、人が己の意思で制御できるのは酒を口にする直前までのことであるという。
一口酒を口にすればまたも堕ちてゆき、かなりの確率でかつての酒毒地獄にもどってしまう。
これは医者であろうと、隼人も決して例外ではないのだ。
そのことを当然熟知する隼人は、瓢の酒を一滴も口にしてはいない。
だが、実に巧妙に瓢を扱うので、お光と差しつ差されつのようにしか見えない。
そうして辛抱強くお光の酔いの繰言を聞いている。
「うちは堪忍したんどっせ!」
お光は吼えた。
「お店さまの不注意や、それでお筆が死んでも、堪忍したんや、赦したんや」
「ああ、わかるぞ、わかるとも」
隼人は瓢を圭吾に向けながら応えた。
(おい、少し手伝え)
目配せに渡されていた猪口を出したが、
(ああぁ・・)
噫がのど元までこみ上げる。
圭吾は天性の下戸、一合どころか五勺の酒で動悸がする始末だ。
隼人が注いだ酒を舐める様に必死の思い出で、干した。
「大恩あるお店さま、だから庇うた、赦した。それなのに・・許さへん、うちはお店さまを絶対許さへん!」
己の中の堰は、切れてしまっていた。
お光は吼えまくった挙句、猪口を隼人の鼻先に突き出した。
「先生、酒、足らんわ」
お光は、隼人に自分の猪口を突き出した。
「いや、すまん。おつもりじゃ。最後の一雫までな、さっきこいつが飲んじまった」
(誰が・・だ)
圭吾は全身の力が、抜けた。
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2010年01月09日
「続伏見桃片伊万里」17
お光は圭吾を覚えていたし、隼人は酒毒の扱いに熟達している。
この家を離れない、厭だ・・むずがるお光の説得に昼近くまで刻を費やし、ついに、
「あい、あい。お酒が頂けるなら何所でも行きまひょ」
という 他愛ない返事を引き出した。
お光を、隼人は絶妙にあやなしていく。
播磨屋の女中が髪を結い、紺縞の外着も身につけさせた。
高瀬舟に乗りこんだのは陽もかなり傾き、東山の新緑を斜めに照らす頃だった。
隼人は、鳥野辺山を過ぎる辺りで圭吾に
「酒断ちは伏見に着いて、明日からだ」
と囁いた。
お光の気持ちに逆らわず、優しく相槌を打ちながら・・細心の注意で
「適量最小限」
酒を与える。
瓢を取り出し、酒をお光の猪口にたらす。
花見の桃の侯はもう過ぎたがこの若葉の季節、行楽か商用か、すでに夜舟となりかけた高瀬舟はかなり混んでいる。
(とんだ舟遊びだ)
瓢の中身は伏見の銘酒・三十六峰である。
これは出発のとき、播磨屋が隼人の指示により調えている。
「大丈夫か?」
「血の中の酒精、急に薄くなっちまうと取合えずやっかいなことになるだろ」
「震えたり、冷汗、気の鬱屈」
「それぐらいで済みゃあな」
「ああ、幻が見えたり、聞こえたり、怯えて、暴れる」
七年前の隼人が、まさにそうだった。
「どういうもんか酒精が切れた発作は、明るいときより暗いときん方が強く出る。夜舟ん中で、この人が暴れたりしてみろ、下手したら俺達は勿論、幾ら浅い高瀬川でも・・かかわりのない人まで巻き込んで御陀仏だ。無論俺の家に着くまでのこと、明日から絶対この人に酒は飲ません」
最後の飲酒から二・三刻後に始まる地獄、体内血中の酒精分が完全に抜けるまで凡そ三日、酒毒の患者は阿鼻叫喚、のた打ち回る。
本人も苦しかろうが看護するものの苦痛も筆舌に尽くしがたい。
「それに、酒精断って発作を起こす前に、この人の心ん中飛び込んで、絆つくっときたいしな」
「何をこそこそ話してますんや!」
お光が酔声を上げた。
この家を離れない、厭だ・・むずがるお光の説得に昼近くまで刻を費やし、ついに、
「あい、あい。お酒が頂けるなら何所でも行きまひょ」
という 他愛ない返事を引き出した。
お光を、隼人は絶妙にあやなしていく。
播磨屋の女中が髪を結い、紺縞の外着も身につけさせた。
高瀬舟に乗りこんだのは陽もかなり傾き、東山の新緑を斜めに照らす頃だった。
隼人は、鳥野辺山を過ぎる辺りで圭吾に
「酒断ちは伏見に着いて、明日からだ」
と囁いた。
お光の気持ちに逆らわず、優しく相槌を打ちながら・・細心の注意で
「適量最小限」
酒を与える。
瓢を取り出し、酒をお光の猪口にたらす。
花見の桃の侯はもう過ぎたがこの若葉の季節、行楽か商用か、すでに夜舟となりかけた高瀬舟はかなり混んでいる。
(とんだ舟遊びだ)
瓢の中身は伏見の銘酒・三十六峰である。
これは出発のとき、播磨屋が隼人の指示により調えている。
「大丈夫か?」
「血の中の酒精、急に薄くなっちまうと取合えずやっかいなことになるだろ」
「震えたり、冷汗、気の鬱屈」
「それぐらいで済みゃあな」
「ああ、幻が見えたり、聞こえたり、怯えて、暴れる」
七年前の隼人が、まさにそうだった。
「どういうもんか酒精が切れた発作は、明るいときより暗いときん方が強く出る。夜舟ん中で、この人が暴れたりしてみろ、下手したら俺達は勿論、幾ら浅い高瀬川でも・・かかわりのない人まで巻き込んで御陀仏だ。無論俺の家に着くまでのこと、明日から絶対この人に酒は飲ません」
最後の飲酒から二・三刻後に始まる地獄、体内血中の酒精分が完全に抜けるまで凡そ三日、酒毒の患者は阿鼻叫喚、のた打ち回る。
本人も苦しかろうが看護するものの苦痛も筆舌に尽くしがたい。
「それに、酒精断って発作を起こす前に、この人の心ん中飛び込んで、絆つくっときたいしな」
「何をこそこそ話してますんや!」
お光が酔声を上げた。
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2010年01月09日
「続伏見桃片伊万里」16
僅かな、救いを見たように思った。
翌朝、早朝の三条大橋。
すぐ脇に高瀬舟の船着場がある。
ここから四里ほど川下が伏見である。
伏見は、江戸初期角倉了以が開いた運河・高瀬川と、淀屋常庵が水運を整備した淀川が交わる地でもある。
この川辺で診療所を開く旧友、村田隼人は、圭吾と同年の二十七。
圭吾が中肉中背というより貧弱といっていい体つきなのに対し、背が高い。
昔、酒毒に陥っていた頃はがりがりに痩せていたものだが、今はそれなりに貫禄が付いている。
圭吾が播磨屋に語ったように、妻・登世と二人の子の所帯持ち、それらしい風貌になっている。
書状を、高瀬舟の船頭に託した。
船着場近辺なら心付けを添えれば、日常このような文使いも頼める。
圭吾は突然の勝手な依頼を詫び、酒毒の患者を預かって欲しいと、事情を記した。
(お光を引取るため、早速にも今日の夜舟で伏見を立ち、明日早暁迎えにきて欲しい。未明の船着場待つ。駄目ならその旨、船頭に言付けてくれ)
南禅寺草川町の師の家に戻ると、すでに播磨屋が訪れて首尾を待っていた。
お光を伏見に移すことができそうだというと、すぐに支度を調えるという。
流石に、安堵の色が見えた。
翌、早暁。
三条大橋の船着場で村田隼人を迎え、お光の家へ向った。
東山の麓は滴るような新緑であった。
南禅寺堂町まで歩きながら、圭吾はお光と自分の関りを隼人に語る。
乳呑児の死とその真相・柞櫛職人だったという父・東山の黒髪を梳す柞櫛・肥前染付の柞灰釉・播磨屋が託した五十両隼人は、ただ、聞いていた。
髪を結う気力も張りも、もうないのだろう。
髷は根が解かれたまま、肩や腰に纏わっている。
一年半ぶりにお光の、酒に荒んだ凄まじい窶れには衝撃を受けた。
だが、高瀬夜舟に乗せて隼人の家に連れて来るのは覚悟したほどの難行苦行ではなかった。
翌朝、早朝の三条大橋。
すぐ脇に高瀬舟の船着場がある。
ここから四里ほど川下が伏見である。
伏見は、江戸初期角倉了以が開いた運河・高瀬川と、淀屋常庵が水運を整備した淀川が交わる地でもある。
この川辺で診療所を開く旧友、村田隼人は、圭吾と同年の二十七。
圭吾が中肉中背というより貧弱といっていい体つきなのに対し、背が高い。
昔、酒毒に陥っていた頃はがりがりに痩せていたものだが、今はそれなりに貫禄が付いている。
圭吾が播磨屋に語ったように、妻・登世と二人の子の所帯持ち、それらしい風貌になっている。
書状を、高瀬舟の船頭に託した。
船着場近辺なら心付けを添えれば、日常このような文使いも頼める。
圭吾は突然の勝手な依頼を詫び、酒毒の患者を預かって欲しいと、事情を記した。
(お光を引取るため、早速にも今日の夜舟で伏見を立ち、明日早暁迎えにきて欲しい。未明の船着場待つ。駄目ならその旨、船頭に言付けてくれ)
南禅寺草川町の師の家に戻ると、すでに播磨屋が訪れて首尾を待っていた。
お光を伏見に移すことができそうだというと、すぐに支度を調えるという。
流石に、安堵の色が見えた。
翌、早暁。
三条大橋の船着場で村田隼人を迎え、お光の家へ向った。
東山の麓は滴るような新緑であった。
南禅寺堂町まで歩きながら、圭吾はお光と自分の関りを隼人に語る。
乳呑児の死とその真相・柞櫛職人だったという父・東山の黒髪を梳す柞櫛・肥前染付の柞灰釉・播磨屋が託した五十両隼人は、ただ、聞いていた。
髪を結う気力も張りも、もうないのだろう。
髷は根が解かれたまま、肩や腰に纏わっている。
一年半ぶりにお光の、酒に荒んだ凄まじい窶れには衝撃を受けた。
だが、高瀬夜舟に乗せて隼人の家に連れて来るのは覚悟したほどの難行苦行ではなかった。
Posted by 渋柿 at 11:23 | Comments(0)
2010年01月08日
「続伏見桃片伊万里」15
「圭吾、それは本当か」
師が圭吾の目を見た。
「はい」
もう、うそはつけぬ。
「お内儀は、さぞ、その、驚かれたであろう」
「まあ、驚くていうより、あれも悪い女やない、もう錯乱してしまいましたわ。自分は仏門に入ってお筆の菩提弔う、どうかお光播磨屋ん本妻に直してくれてまあ、とんでもないことまで口走って」
「家付き娘の離別など、そりゃ無理でござろうよ」
師も、横でため息をつく。
「つらい話でございますな」
「お米も、今は何としてもお光に償いをしたいと。まずは、お光の体と心、元に戻すことやと話しおうて、こちらにうかがったしだいでございますわ」
圭吾は、虚栄を張らず淡々と語る播磨屋のを見、また脇にどけられたままの座布団を見た。
「お話を伺うと、お光どのが酒毒を患っておられることは間違いない。そこで相談なのじゃが―伏見に、大阪書過町の蘭学塾よりの友が医者をやっておりましての、酒毒を癒す名手じゃ。この男が近頃診療所の隣の平屋も借受けましてな、離れのように使うております。ほれ、先生もご存知の、村田隼人でございますよ」
「ああ、あの自分も酒毒だったという・・」
師は破願した。
圭吾と同年、大阪の同門のこの町医者も、つとめて伏見から足を運び、この南禅寺草川町の師の元で教えを受けている。
「この男、不幸な家に生れましてな、酒に溺れて、もう滅茶苦茶でした。塾でも指折りの俊才といわれたときもありましたが・・そりゃ上には上、どうしても叶わぬ同門もおって、自棄になったので。二十歳の時、一度は死のうと致しました。そこから立ち直って・・ゆえに酒毒に苦しむ者が判るのです。無論医者としても腕は確か」
「それはわしも保証する。若いが名医じゃ」
「はあ、伏見の、町医者はん・・」
困惑気味の播磨屋に構わず、圭吾は続けた。
「この村田、となり・・というても二間の平屋、厠だけはついとる粗末なもので、長く借り手のつかぬ空家じゃったといいますが、ここに住まわせて酒をたつよう厳しく見張りながら、病んだ心身を治療いたすそうで」
「村田の妻女がいたします。まだ離れを作る前からこの医者我家に酒毒を再々預かっておりまして、看護と見張りには馴れておりますよ。十ばかりの娘と五つか六つの倅もおりましてな、まあ親それがを良く手伝う」
「そこに、正吉とそうかわらぬお子もおられるか・・」
「播磨屋どの、任せて頂けようか」
「そうなされよ。そうじゃ、圭吾も暫く伏見で村田どのを助けさせますゆえ。何、十日やそこら、まだわし一人で診立てはできますわい」
脇から、師も勧めた。播磨屋は暫く黙っていたが、ついに搾り出すようにいった。
「すべて、お任せいたします」
そして懐から出した袱紗を両手で圭吾に捧げた。二十五両の封金が二つ、乗っている。
(この人はこの人なりに、お光に惚れている)
師が圭吾の目を見た。
「はい」
もう、うそはつけぬ。
「お内儀は、さぞ、その、驚かれたであろう」
「まあ、驚くていうより、あれも悪い女やない、もう錯乱してしまいましたわ。自分は仏門に入ってお筆の菩提弔う、どうかお光播磨屋ん本妻に直してくれてまあ、とんでもないことまで口走って」
「家付き娘の離別など、そりゃ無理でござろうよ」
師も、横でため息をつく。
「つらい話でございますな」
「お米も、今は何としてもお光に償いをしたいと。まずは、お光の体と心、元に戻すことやと話しおうて、こちらにうかがったしだいでございますわ」
圭吾は、虚栄を張らず淡々と語る播磨屋のを見、また脇にどけられたままの座布団を見た。
「お話を伺うと、お光どのが酒毒を患っておられることは間違いない。そこで相談なのじゃが―伏見に、大阪書過町の蘭学塾よりの友が医者をやっておりましての、酒毒を癒す名手じゃ。この男が近頃診療所の隣の平屋も借受けましてな、離れのように使うております。ほれ、先生もご存知の、村田隼人でございますよ」
「ああ、あの自分も酒毒だったという・・」
師は破願した。
圭吾と同年、大阪の同門のこの町医者も、つとめて伏見から足を運び、この南禅寺草川町の師の元で教えを受けている。
「この男、不幸な家に生れましてな、酒に溺れて、もう滅茶苦茶でした。塾でも指折りの俊才といわれたときもありましたが・・そりゃ上には上、どうしても叶わぬ同門もおって、自棄になったので。二十歳の時、一度は死のうと致しました。そこから立ち直って・・ゆえに酒毒に苦しむ者が判るのです。無論医者としても腕は確か」
「それはわしも保証する。若いが名医じゃ」
「はあ、伏見の、町医者はん・・」
困惑気味の播磨屋に構わず、圭吾は続けた。
「この村田、となり・・というても二間の平屋、厠だけはついとる粗末なもので、長く借り手のつかぬ空家じゃったといいますが、ここに住まわせて酒をたつよう厳しく見張りながら、病んだ心身を治療いたすそうで」
「村田の妻女がいたします。まだ離れを作る前からこの医者我家に酒毒を再々預かっておりまして、看護と見張りには馴れておりますよ。十ばかりの娘と五つか六つの倅もおりましてな、まあ親それがを良く手伝う」
「そこに、正吉とそうかわらぬお子もおられるか・・」
「播磨屋どの、任せて頂けようか」
「そうなされよ。そうじゃ、圭吾も暫く伏見で村田どのを助けさせますゆえ。何、十日やそこら、まだわし一人で診立てはできますわい」
脇から、師も勧めた。播磨屋は暫く黙っていたが、ついに搾り出すようにいった。
「すべて、お任せいたします」
そして懐から出した袱紗を両手で圭吾に捧げた。二十五両の封金が二つ、乗っている。
(この人はこの人なりに、お光に惚れている)
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2010年01月07日
「続伏見桃片伊万里」14
「播磨屋どの、あのことも圭吾の耳に入れておいた方が良いと思うが」
「へえ」
「則天武后じゃ」
「さいだすな」
躊躇は僅かであった。
播磨屋は、圭吾を見据えて言葉を続けた。
「わては養子、お米は播磨屋の家付き娘どした。いくらお米に子が出来へんかったからて、わての手が付いて跡取り産んだ女中あがりのお光を・・そりゃ子飼譜代の播磨屋の奉公人達が、よう思う筈あらしまへん。で、奥向きの女中達が草双紙読んで、なんやあほみたいなこといいだしよりましたんや」
「曰く、権妻、正室を謀って陥れ、その座を得んとて実娘を扼殺すー十八史略あたりの翻案じゃな」
師が、また説明を補う。
「あの則天武后のわが子殺し、ですな」
「まったく。唐津屋の高蔵はんに妾のお武はん、本妻はお玉はんやて、そなあほうな。お光が、お米に継子殺しの罪着せて追い出し、播磨屋のお店さまに直ろ思てわが子のお筆絞め殺したやて、そんな事ようもいいますわ。わては唐の皇帝でも宰相でもおへん」
「左様、お手前はそもそも婿養子、追い出されるとしたらご亭主のほうじゃな」
師は世古たけところを見せ、播磨屋は苦い笑いを浮かべた。
「お米かて、そりゃお光に悋気が無かったとはいいまへんけど、子供等は、芯から可愛がっとりました。お米がお筆絞殺すこともありえまへんし、お光がお筆殺してそん罪お米になする事も、絶対あろうはずがありますかいな」
「そんな噂が―」
「はあ、廻り廻ってお光の耳に入りましたんや。それからどす、お光が浴びるほど酒飲み出したんは」
「それは、そうもなろう・・な」
「それに・・いえ、お米がそんなあほな噂、本気にするわけはおへん。ただ、女中達がひそひそしとった頃、お光の前で―」
「噂を口にされたのか」
「え、いえ、ただ、南禅寺堂町までお米が正吉連れてって、別れしなに、いうてしもうたんどすなあ、つい」
「何を?」
「正吉の頭撫でながら女中に向こうて『可愛いなあ、こんな子絞殺すなんてうちには絶対出来ん』て」
「それは」
師とともに圭吾は絶句した。
播磨屋も、暫く俯いて畳の縁辺りを見ていた。
「はい、他意のう口にしたと弁解出来るこっちゃござりまへんわ。まあお米の普段は押し隠しとった自分でも気ぃつかん憎しみが・・いわせたんどっしゃろなあ」
「播磨屋どの、あなたはもしや―」
「へえ、ほんまはお米のそそうでお筆、死にましたんやてなあ。知ってます。あっ、お光は口が裂けても申してはおりまへん。まあ、子供は素直なもんですわ。お筆が死んだ日のこと、お光が『お店さまには恩がある』て庇うたことまでもなあ、確かに聞きました。もっとも正吉問い詰めたんは今日の今日ことでしたが」
「へえ」
「則天武后じゃ」
「さいだすな」
躊躇は僅かであった。
播磨屋は、圭吾を見据えて言葉を続けた。
「わては養子、お米は播磨屋の家付き娘どした。いくらお米に子が出来へんかったからて、わての手が付いて跡取り産んだ女中あがりのお光を・・そりゃ子飼譜代の播磨屋の奉公人達が、よう思う筈あらしまへん。で、奥向きの女中達が草双紙読んで、なんやあほみたいなこといいだしよりましたんや」
「曰く、権妻、正室を謀って陥れ、その座を得んとて実娘を扼殺すー十八史略あたりの翻案じゃな」
師が、また説明を補う。
「あの則天武后のわが子殺し、ですな」
「まったく。唐津屋の高蔵はんに妾のお武はん、本妻はお玉はんやて、そなあほうな。お光が、お米に継子殺しの罪着せて追い出し、播磨屋のお店さまに直ろ思てわが子のお筆絞め殺したやて、そんな事ようもいいますわ。わては唐の皇帝でも宰相でもおへん」
「左様、お手前はそもそも婿養子、追い出されるとしたらご亭主のほうじゃな」
師は世古たけところを見せ、播磨屋は苦い笑いを浮かべた。
「お米かて、そりゃお光に悋気が無かったとはいいまへんけど、子供等は、芯から可愛がっとりました。お米がお筆絞殺すこともありえまへんし、お光がお筆殺してそん罪お米になする事も、絶対あろうはずがありますかいな」
「そんな噂が―」
「はあ、廻り廻ってお光の耳に入りましたんや。それからどす、お光が浴びるほど酒飲み出したんは」
「それは、そうもなろう・・な」
「それに・・いえ、お米がそんなあほな噂、本気にするわけはおへん。ただ、女中達がひそひそしとった頃、お光の前で―」
「噂を口にされたのか」
「え、いえ、ただ、南禅寺堂町までお米が正吉連れてって、別れしなに、いうてしもうたんどすなあ、つい」
「何を?」
「正吉の頭撫でながら女中に向こうて『可愛いなあ、こんな子絞殺すなんてうちには絶対出来ん』て」
「それは」
師とともに圭吾は絶句した。
播磨屋も、暫く俯いて畳の縁辺りを見ていた。
「はい、他意のう口にしたと弁解出来るこっちゃござりまへんわ。まあお米の普段は押し隠しとった自分でも気ぃつかん憎しみが・・いわせたんどっしゃろなあ」
「播磨屋どの、あなたはもしや―」
「へえ、ほんまはお米のそそうでお筆、死にましたんやてなあ。知ってます。あっ、お光は口が裂けても申してはおりまへん。まあ、子供は素直なもんですわ。お筆が死んだ日のこと、お光が『お店さまには恩がある』て庇うたことまでもなあ、確かに聞きました。もっとも正吉問い詰めたんは今日の今日ことでしたが」
Posted by 渋柿 at 22:45 | Comments(0)
2010年01月07日
「続伏見桃片伊万里」13
「酒毒!」
「お筆が死んでから・・まあその前から少しづつ酒、隠れて飲んどったようどすけど、今はもう、手ぇつけられしまへん」
(去年の正月、からか)
「えろう痩せて、血の気ものうなって。ものも食べんと、それでも飲むんだす。もう、このままやったら死んでしまいます。はい、止めさせようとは致しました。でも酒、家からほっても、近頃はご近所酒ねだり歩くわ、只飲みして播磨屋の名ぁ出すわ・・悪知恵働かしよりますんだす」
「女中はおられにうのか」
師がきいた。
「はあ、家を持たせるとき付けようとしたんどすが、お光も女中上がり、遠慮いたしまして。家のことまめにする方だったしなあ」
(あの日、買い物に出す女中が居たなら)
お筆に何事もなかった、と圭吾は思った。
一年半近く前の
「娘の急死」。
心の傷ゆえの深酒、思えばその前からの
「うさ晴らし」
の隠飲癖であった。
肝の臓の性が男より弱い女の身である。
すでに酒毒に冒されている可能性は高かった。
「息子さんは、どうしておられる?」
「それは心配おへん。お米が・・家内どすけど、不憫がって手塩にかけてました」
「お光さんには逢わせてはおられるか・・」
「世間憚るこっちの弱み握っとるよって朝から晩まで、酒びたりどっせ。居汚う酔潰れとっか、人見たら棘々しゅう絡むか・・とにかく飲ませんと暴れるんどす。そんな女のとこへこの子、近づけられんて」
「お内儀がそう、おっしゃったのか」
「はあ、ずっと」
圭吾は冥目した。
お光が余りに哀れだった。
播磨屋は、静かにいった。
「無論そうなったお光も不憫どす。何と言ってもわたいの子、二人も産んでくれたんどす、それなりの情はありますわいな。まあ、確かに世間体というもんも考えんわけではございまへん。世間さまは薄々播磨屋の跡取りが外に出来た子やと知ってはりますし。正吉のゆくすえのためにも、産みの母のお光、治してやっておくんなはれ」
「世間体の、ため―」
「いえいえこれは言葉が違いました。正直に申します。お光を日陰の可哀想なことにしておりますが―あて、やっぱりそばにいてもらいたいんどす。あての身勝手がお光も家内も苦しめておりますが―へえ、どうしても、も一遍、お光に元気になってもらいたいんどす。せんせ、どうかお願いいたします」
播磨屋は座布団を降り、圭吾の前に手をついてまた深々と頭を下げた。
「お筆が死んでから・・まあその前から少しづつ酒、隠れて飲んどったようどすけど、今はもう、手ぇつけられしまへん」
(去年の正月、からか)
「えろう痩せて、血の気ものうなって。ものも食べんと、それでも飲むんだす。もう、このままやったら死んでしまいます。はい、止めさせようとは致しました。でも酒、家からほっても、近頃はご近所酒ねだり歩くわ、只飲みして播磨屋の名ぁ出すわ・・悪知恵働かしよりますんだす」
「女中はおられにうのか」
師がきいた。
「はあ、家を持たせるとき付けようとしたんどすが、お光も女中上がり、遠慮いたしまして。家のことまめにする方だったしなあ」
(あの日、買い物に出す女中が居たなら)
お筆に何事もなかった、と圭吾は思った。
一年半近く前の
「娘の急死」。
心の傷ゆえの深酒、思えばその前からの
「うさ晴らし」
の隠飲癖であった。
肝の臓の性が男より弱い女の身である。
すでに酒毒に冒されている可能性は高かった。
「息子さんは、どうしておられる?」
「それは心配おへん。お米が・・家内どすけど、不憫がって手塩にかけてました」
「お光さんには逢わせてはおられるか・・」
「世間憚るこっちの弱み握っとるよって朝から晩まで、酒びたりどっせ。居汚う酔潰れとっか、人見たら棘々しゅう絡むか・・とにかく飲ませんと暴れるんどす。そんな女のとこへこの子、近づけられんて」
「お内儀がそう、おっしゃったのか」
「はあ、ずっと」
圭吾は冥目した。
お光が余りに哀れだった。
播磨屋は、静かにいった。
「無論そうなったお光も不憫どす。何と言ってもわたいの子、二人も産んでくれたんどす、それなりの情はありますわいな。まあ、確かに世間体というもんも考えんわけではございまへん。世間さまは薄々播磨屋の跡取りが外に出来た子やと知ってはりますし。正吉のゆくすえのためにも、産みの母のお光、治してやっておくんなはれ」
「世間体の、ため―」
「いえいえこれは言葉が違いました。正直に申します。お光を日陰の可哀想なことにしておりますが―あて、やっぱりそばにいてもらいたいんどす。あての身勝手がお光も家内も苦しめておりますが―へえ、どうしても、も一遍、お光に元気になってもらいたいんどす。せんせ、どうかお願いいたします」
播磨屋は座布団を降り、圭吾の前に手をついてまた深々と頭を下げた。
Posted by 渋柿 at 10:28 | Comments(0)
2010年01月06日
「続伏見桃片伊万里」12
圭吾は、まだ処世を定めていない身である。
実のところ初心は揺らいでいる。
文化の先進地の魅力は、強烈に彼を捕らえている。
疱瘡を疑われたその息子を診、その娘の窒息死にも立ち合った薄幸の母の事も、次第に心から薄れていくのは致し方ない。
また、新しい年はめぐり、安政七年。
この二年の間、世情は激動していた。
将軍継承問題や日米通商条約の締結をめぐり、後に安政の大獄と呼ばれる未曾有の大弾圧が行われたのだ。
処断されたのは大名・公卿から諸藩の藩士まで百名余、中心となった大老の井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたのは、この安政七年の弥生三日であった。
圭吾は、まだその嵐の外、勉学と診療に明け暮れている。
山の桜も散り、三十六峰は滴るような新緑に覆われた頃、圭吾に訪問客があった。
午前の診療が終わり、台所で昼餉をとっていると師に呼ばれた。
来客という。
「圭吾でございます」
師の部屋、襖の外から声をかけて開き、両手をついた。
「入りなさい」
その声に膝を進めると、師の側ら、絹物の花色小袖に紺の羽織、一目でわかる大店の主が控えていた。
まだ四十前か、上背もあり、なかなかの貫禄である。
「その節は子供等が、お世話になりまして」
仲立ちを待たず、その男は身なりに似合わぬ深々とした礼をした。
「子供等、とは?」
「五条の、播磨屋さんじゃ。昔から、ご懇意願っておってな」
師が、言葉を補った。
「いえ、こちらこそ親父ん代から新宮先生にはお世話になっとります」
(お光どのの丹那か)
圭吾は黙って播磨屋に頭を下げた。
お筆の仮通夜で顔を合わせてはいるはずだが、ほとんど記憶がない。
しばらく、座の言葉が途切れる。
「実は、南禅寺堂町の、お光を診ていただきたいんどす」
「お光どのが、お悪いのですか」
「はあ・・どうも、酒毒らしゅうて」
長けかけた声で、鶯が啼いた。
実のところ初心は揺らいでいる。
文化の先進地の魅力は、強烈に彼を捕らえている。
疱瘡を疑われたその息子を診、その娘の窒息死にも立ち合った薄幸の母の事も、次第に心から薄れていくのは致し方ない。
また、新しい年はめぐり、安政七年。
この二年の間、世情は激動していた。
将軍継承問題や日米通商条約の締結をめぐり、後に安政の大獄と呼ばれる未曾有の大弾圧が行われたのだ。
処断されたのは大名・公卿から諸藩の藩士まで百名余、中心となった大老の井伊直弼が桜田門外の変で暗殺されたのは、この安政七年の弥生三日であった。
圭吾は、まだその嵐の外、勉学と診療に明け暮れている。
山の桜も散り、三十六峰は滴るような新緑に覆われた頃、圭吾に訪問客があった。
午前の診療が終わり、台所で昼餉をとっていると師に呼ばれた。
来客という。
「圭吾でございます」
師の部屋、襖の外から声をかけて開き、両手をついた。
「入りなさい」
その声に膝を進めると、師の側ら、絹物の花色小袖に紺の羽織、一目でわかる大店の主が控えていた。
まだ四十前か、上背もあり、なかなかの貫禄である。
「その節は子供等が、お世話になりまして」
仲立ちを待たず、その男は身なりに似合わぬ深々とした礼をした。
「子供等、とは?」
「五条の、播磨屋さんじゃ。昔から、ご懇意願っておってな」
師が、言葉を補った。
「いえ、こちらこそ親父ん代から新宮先生にはお世話になっとります」
(お光どのの丹那か)
圭吾は黙って播磨屋に頭を下げた。
お筆の仮通夜で顔を合わせてはいるはずだが、ほとんど記憶がない。
しばらく、座の言葉が途切れる。
「実は、南禅寺堂町の、お光を診ていただきたいんどす」
「お光どのが、お悪いのですか」
「はあ・・どうも、酒毒らしゅうて」
長けかけた声で、鶯が啼いた。
Posted by 渋柿 at 08:20 | Comments(0)
2010年01月05日
「続伏見桃片伊万里」11
「お店さまはお子を産んだことがあらしまへん。正吉も乳離れするまでここでそだてました。お店さまに、悪気はなかったんどす。ただ、お筆が寒うないようて、しっかりお布団掛けはっただけで」
お光が、自分にいい聞かせている言葉だと、圭吾にも判る。
「正吉も、明日は播磨屋さんに戻ります。あの子、跡取りやさかい」
「寂しゅうなるな」
今まで以上に、そういおうとして、やめる。
「馴れとります」
もう正吉は母の膝で眠っている。
「これを」
圭吾は懐からあの瓢の笛を取り出した。
「あれえ、ひょんの笛」
「これを正吉にと思うての」
喪の着物の内、お光が僅かに微笑んだ。
「喜びますやろ。珍しい、何所で見つけはりました、柞の木?」
「金地院の東司の・・裏にの」
「むかあし、うちがちっちゃいころ、お父はんが山から持って来てくれとりましたわ」
「父御が、山から?」
「櫛職人だったんどす。早う亡くなりましたけど。阿弥陀ヶ峰とか、三十六峰の雑木林で柞採ってきては、安うしか売れん柞櫛ばっか造ってましたわ」
「それで延喜の昔からの由緒を・・」
「『神代からん柞木櫛』やて、子供んときから年季入れた親方が『柞櫛造るんが櫛職人の本道、今でも禁裏さまの使わっしゃる櫛は柞櫛だけや』ていってはって」
「櫛職人の本道」
「お父はんもまあ、いい暮らしてました。それも柞は東山三十六峰にかぎる、て。いらん誇りばっか持って、可笑しゅおすな」
「釉も特に白磁に藍の染付には、この土に生えた柞に限るっていわれてた。今じゃ取尽くして、日向辺りから持って来るんだが」
「東山の峰、ずっと続いて、靡く髪にも見えますんやと。その御髪梳くんは、東山の柞櫛やて。手間賃、柘植櫛作るよりずっと安おすのに・・怪体な理屈でっしゃろ。お母はん苦労の揚句死なせて、自分も早死してしもて」
お光は瓢の笛を口にあて、ぼおっと吹いた。
「うち、まだひょんの笛吹いて遊うでたかったんに、十二で女中奉公したんどす」
息に微かにまた、酒の香がした。
お光が、自分にいい聞かせている言葉だと、圭吾にも判る。
「正吉も、明日は播磨屋さんに戻ります。あの子、跡取りやさかい」
「寂しゅうなるな」
今まで以上に、そういおうとして、やめる。
「馴れとります」
もう正吉は母の膝で眠っている。
「これを」
圭吾は懐からあの瓢の笛を取り出した。
「あれえ、ひょんの笛」
「これを正吉にと思うての」
喪の着物の内、お光が僅かに微笑んだ。
「喜びますやろ。珍しい、何所で見つけはりました、柞の木?」
「金地院の東司の・・裏にの」
「むかあし、うちがちっちゃいころ、お父はんが山から持って来てくれとりましたわ」
「父御が、山から?」
「櫛職人だったんどす。早う亡くなりましたけど。阿弥陀ヶ峰とか、三十六峰の雑木林で柞採ってきては、安うしか売れん柞櫛ばっか造ってましたわ」
「それで延喜の昔からの由緒を・・」
「『神代からん柞木櫛』やて、子供んときから年季入れた親方が『柞櫛造るんが櫛職人の本道、今でも禁裏さまの使わっしゃる櫛は柞櫛だけや』ていってはって」
「櫛職人の本道」
「お父はんもまあ、いい暮らしてました。それも柞は東山三十六峰にかぎる、て。いらん誇りばっか持って、可笑しゅおすな」
「釉も特に白磁に藍の染付には、この土に生えた柞に限るっていわれてた。今じゃ取尽くして、日向辺りから持って来るんだが」
「東山の峰、ずっと続いて、靡く髪にも見えますんやと。その御髪梳くんは、東山の柞櫛やて。手間賃、柘植櫛作るよりずっと安おすのに・・怪体な理屈でっしゃろ。お母はん苦労の揚句死なせて、自分も早死してしもて」
お光は瓢の笛を口にあて、ぼおっと吹いた。
「うち、まだひょんの笛吹いて遊うでたかったんに、十二で女中奉公したんどす」
息に微かにまた、酒の香がした。
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