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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2008年09月04日

伊万里・奉安殿の名残

 
 伊万里市松島町の松島神社。江戸中期、干拓前の絵図を見ると、周囲の伊万里市民センター市民会館の辺りは一面の干潟で、神社のある位置は文字通り松の生えた小島だったことがわかります。
 松島神社は「皇紀二千六百年・八紘一宇(はっこういちう)」と刻まれた一の鳥居や、敗戦後伊万里商業の奉安殿を移築したコンクリート造りの本殿など、地域の歴史をしのぶよすがの建造物が残り、また現在も四季の祭りが氏子によって守られています。ことに春は参道の桜が見事で、花見の名所にもなっています。
 奉安殿は戦前天皇皇后の写真を納めた建物で、地域の募金で建立されたといういきさつや宗教的装飾があり、敗戦後納骨堂や神社の本殿として再利用されたものも多いそうです。伊万里市史にも、他に地域保護者の募金で建立された奉安殿の記録は掲載されています。
 松島に住んで数十年、拝殿の純日本風建築に対し、多久聖廟にも通じる中華風、しかもコンクリート製の本殿のミスマッチが不思議でしたが、このサイトのお陰で謎が解けました。
(管理人さんにリンクをお願いして快諾を頂きました)
http://hibino.saga-s.co.jp/?m=pc&a=page_fh_diary&target_c...
 松島神社は、今も地域の公民館的存在として大事にされています。   


Posted by 渋柿 at 15:43 | Comments(0)

2008年09月02日

楠久はKUSUKU

「楠久は城(クスク)なんですよ。(古代朝鮮)伽耶語の『KU―SUKU』は『大きな城』という意味ですし、沖縄では『城』を『ぐす』と読みます。楠久の地は、条里制の時代には測量起点の壱ノ寺や、長崎警護、明治維新の推進力となった鍋島水軍の活躍し事跡等、史跡の宝庫です」伊万里市山代町楠久。日本が各国と通商修好条約を締結し開国するずっと以前から、佐賀藩は伊万里湾岸を拠点に、伊万里焼・石炭・白蝋などをオランダインド会社へ輸出していたそうです。
「アヘン戦争の時も、石炭をイギリスに売っていました」とうかがってびっくりしました。 西に国見山脈を望み、瀬戸町と山代町をつなぐ伊万里湾大橋の上で青い空と海を見ながら、楠久本光寺ご住職、小島宗光さんのご説明を頂きました。本紙連載をまとめた「禅語入門」を上梓された和尚さんで、郷土史にも詳しく、以前から教えをうけています。 
 ご住職は現在、この伊万里湾史跡「鍋島水軍邨」と「壱の寺」を復興し、有益な顕彰を果す活動を始められています。
  


Posted by 渋柿 at 17:04 | Comments(0)

2008年09月01日

伊万里―もう一つの「おまつり広場」


 伊万里の「おまつり広場」といえば、まずくんちの催しがテレビ等で中継される相生橋近くの交差点を連想される方が多いかもしれません。実は別に伊万里・有田川河口の二里町八谷搦にも、「おまつり広場」という名の公園がります。
 八谷搦は江戸後期安永年間、藩命を受けた奉行八谷善兵衛が地元出資者を募った干拓で造成された、面積140haの地域です。この新田開発で広大な農地ができ、耕作がなされてきましたが、時代の推移とともに宅地化が進みました。そのため平成5年「水面に映える緑の町」を地区のメインテーマにした都市計画事業が完成しました。その一環で作られたのが、野外ステージをもつこの広場の公園です。
 干拓が完成した頃、このあたりには芝居小屋がかけられ、芝居興行が行われたこともありました。多くの人が楽しみ、「狂言場」といったのが今も私称地名として残っています。
 現在「おまつり広場」は子ども達の遊び場としてだけでなく、地域の運動会などの催し物にも使われています。
 現在神崎市にお住まいの善兵衛の子孫と共に干拓にかかわった伊万里住民の子孫の交流も、今に至るまで続いています。
 歴史を踏まえ、公園に建つ都市計画事業竣工の記念碑の銘文は、安永の八谷善兵衛奉行の八谷搦干拓から書き起こされています。
  


Posted by 渋柿 at 18:23 | Comments(4)