2009年09月26日
「中行説の桑」32
「旨い」
「旨いか?」
「はい。全く漢の食物などくそ食らえじゃ。のう大将殿、私の父は馬乳酒に目がありませんでなあ。といっても年に一度絹と取り替えた一壷を湯でうめて、ちびりちびりやるのがせいぜいでしたが。それは黍を醸した酒の造っておりましたが、それもせいぜい蚕小屋の瘴気払いに使うぐらいで。飲めたものではないと申しておりました」
「危ない」中行説の上体が傾いだ。焚き火の中につんのめりそうになって、将に抱きとめられる。
「いえいえ、大丈夫でごあいます」そういうろれつはほとんど回っていなかった。
「漢の食物など、もう、手に入れてもお捨てなさえ。肉や酪の方がずっと旨いし、便利じゃ。漢の一郡ほどの人衆しかおらぬ匈奴が漢と長城を挟んで一歩も引けを取らぬあ、衣食住を漢に頼らぬからですお」
いっていることはもう支離滅裂であった。
「衣食を漢い頼ってはなりませう!」
(私は何を言っているのだ・・)考えが纏まらなくなっている。(まあ、いいか。どうせ酔っ払いのたわごとだ)
そうは問屋が卸さなかった。酔っ払いには聞き手がいた。後述する経過で、史書の書き手がちゃんと纏まらぬものを無理矢理纏めてくれている。
「匈奴の人衆、漢の一郡に当たること能わずして、然も疆(つよ)きゆえんは、衣食異にして、漢に仰ぐなきをもってなり」また「それ漢の繪絮を得ば、以って草棘の中に馳よ。衣袴みな裂蔽せん。漢の食物を得ば、みなこれを去(す)て、以って潼酪の便美なるにしかざるを示せ」
今や頭も煮えるほど酔っ払ている中行説には、まったく知らぬが仏・・のことである。
「いやあ、匈奴は何も肉や乳だけで暮らしておるわけではないのじゃがなあ」将は、もはや予想以上に中行説が酔い乱れたのを、もてあましている。「それは狩りもするがなあ。牛や羊は我等の貴重な財産、それを殺して肉ばかり食べておってはあごが干上がる。我等とて冬にはひとつ所に留まりもするし、多少は穀物も作っておる」
「えは、年中牧草を求めて漂っておられるというわけえもないのですな」
「無論、羊らを飼いながら冬に畑を耕すだけではとても足らぬ」
「おうでしょうなあ」説の周りの世界は、すでにゆらゆらと揺れている。
「だからのう、時には力づくで穀物だけを作ってくれる者を・・」
「何ですお?」相手の言葉も、もうよく聞き取れない。
「いや、これは舌の滑りじゃ。漢の宦官よ、公主で縁も結んだ。これからも仲良く、絹や穀物を回してもらおうぞ」そういって若い将は馬乳酒に口を付けた。
「いえ、私はもう漢の宦官ではござりませう。匈奴の単于の后・・閼氏というそうですな、その閼氏の傳役じゃ。皮衣を着ますお、肉や酪を食べますお。それでも少しは・・穀物も食べますお」そう答えたところまでは、かろうじて覚えているが、何事か大酔の上の悲憤慷慨は止めなかったようである。
遠く、匈奴の将の哄笑を聞いたような気がしたが、意識はすうっと白濁した。
「旨いか?」
「はい。全く漢の食物などくそ食らえじゃ。のう大将殿、私の父は馬乳酒に目がありませんでなあ。といっても年に一度絹と取り替えた一壷を湯でうめて、ちびりちびりやるのがせいぜいでしたが。それは黍を醸した酒の造っておりましたが、それもせいぜい蚕小屋の瘴気払いに使うぐらいで。飲めたものではないと申しておりました」
「危ない」中行説の上体が傾いだ。焚き火の中につんのめりそうになって、将に抱きとめられる。
「いえいえ、大丈夫でごあいます」そういうろれつはほとんど回っていなかった。
「漢の食物など、もう、手に入れてもお捨てなさえ。肉や酪の方がずっと旨いし、便利じゃ。漢の一郡ほどの人衆しかおらぬ匈奴が漢と長城を挟んで一歩も引けを取らぬあ、衣食住を漢に頼らぬからですお」
いっていることはもう支離滅裂であった。
「衣食を漢い頼ってはなりませう!」
(私は何を言っているのだ・・)考えが纏まらなくなっている。(まあ、いいか。どうせ酔っ払いのたわごとだ)
そうは問屋が卸さなかった。酔っ払いには聞き手がいた。後述する経過で、史書の書き手がちゃんと纏まらぬものを無理矢理纏めてくれている。
「匈奴の人衆、漢の一郡に当たること能わずして、然も疆(つよ)きゆえんは、衣食異にして、漢に仰ぐなきをもってなり」また「それ漢の繪絮を得ば、以って草棘の中に馳よ。衣袴みな裂蔽せん。漢の食物を得ば、みなこれを去(す)て、以って潼酪の便美なるにしかざるを示せ」
今や頭も煮えるほど酔っ払ている中行説には、まったく知らぬが仏・・のことである。
「いやあ、匈奴は何も肉や乳だけで暮らしておるわけではないのじゃがなあ」将は、もはや予想以上に中行説が酔い乱れたのを、もてあましている。「それは狩りもするがなあ。牛や羊は我等の貴重な財産、それを殺して肉ばかり食べておってはあごが干上がる。我等とて冬にはひとつ所に留まりもするし、多少は穀物も作っておる」
「えは、年中牧草を求めて漂っておられるというわけえもないのですな」
「無論、羊らを飼いながら冬に畑を耕すだけではとても足らぬ」
「おうでしょうなあ」説の周りの世界は、すでにゆらゆらと揺れている。
「だからのう、時には力づくで穀物だけを作ってくれる者を・・」
「何ですお?」相手の言葉も、もうよく聞き取れない。
「いや、これは舌の滑りじゃ。漢の宦官よ、公主で縁も結んだ。これからも仲良く、絹や穀物を回してもらおうぞ」そういって若い将は馬乳酒に口を付けた。
「いえ、私はもう漢の宦官ではござりませう。匈奴の単于の后・・閼氏というそうですな、その閼氏の傳役じゃ。皮衣を着ますお、肉や酪を食べますお。それでも少しは・・穀物も食べますお」そう答えたところまでは、かろうじて覚えているが、何事か大酔の上の悲憤慷慨は止めなかったようである。
遠く、匈奴の将の哄笑を聞いたような気がしたが、意識はすうっと白濁した。
Posted by 渋柿 at 05:11 | Comments(0)