2009年09月28日
「中行説の桑」37
(なかなか巧みな漢の言葉だ)改めて、説は感嘆した。
今度は匈奴の言葉で、軍臣は跪いている家来達に何事か命じた。それに応えて、太い串を打った肉塊を、焚き火の周囲に何本もさしていく。竃の鍋には肉の羹(あつもの)のが煮える香りが立ち上り、肉の焼ける匂いと混じりあった。二日酔いがまだ尾を引いていなければ、芳ばしいとも好もしいとも思ったことだろう。
軍臣は、雪豹の傍らに置かれた黒い毛皮の上に胡座した。
(こちらは豺(やまいぬ)か・・)牛の皮の座に導かれた説は、匈奴の太子が、継母になる公主に謙譲の礼を示したことが嬉しかった。
公主の前に焙り肉と羹が供された。
「頂きまする」早速公主は焙り肉を口に運んだ。「おいしゅうございます」その笑みは、儀礼的なものではなかった。
焚き火の灯りに、しばしば公主と軍臣は視線を絡ませている。
「今日、ここに着きましてから、これ等の者達が狩った兎でございます」軍臣は、跪いている家来達の方を見た。
「あの、短い間に」
「はい、匈奴の男は生れたときから馬に乗り、弓を引きまする」
「どうぞ、太子も共にお召し上がりくださいませ」公主は器を雪豹の毛皮の上に置いて一礼した。
「それに、そのもの達も」
「ありがとうございます」
軍臣はまた匈奴の言葉で家来達に声を掛けた。彼らは一斉に叩頭して立ち上がった。まず軍臣の前に焙り肉が置かれ、軍臣が手を付けると、中行説の前にも肉が配られた。
「中行説、であったな。そのほうも口をつけよ」軍臣が、笑顔でいった。
「ご勘弁くださいませ。折角のご馳走ながら昨夜の馬乳酒が居座り、胃の腑が受け付けませぬ」
「ならば薄い酪湯ならどうじゃな。そちが何か口にせぬと、こやつ等が肉にありつけぬ」
「頂きます」
説が酪湯を一口すすると、匈奴の家来達もめいめい串を引き抜き、焙り肉に噛り付いた。
軍臣が中行説を見ながら何事か話すと、彼らはどっと笑った。
今度は匈奴の言葉で、軍臣は跪いている家来達に何事か命じた。それに応えて、太い串を打った肉塊を、焚き火の周囲に何本もさしていく。竃の鍋には肉の羹(あつもの)のが煮える香りが立ち上り、肉の焼ける匂いと混じりあった。二日酔いがまだ尾を引いていなければ、芳ばしいとも好もしいとも思ったことだろう。
軍臣は、雪豹の傍らに置かれた黒い毛皮の上に胡座した。
(こちらは豺(やまいぬ)か・・)牛の皮の座に導かれた説は、匈奴の太子が、継母になる公主に謙譲の礼を示したことが嬉しかった。
公主の前に焙り肉と羹が供された。
「頂きまする」早速公主は焙り肉を口に運んだ。「おいしゅうございます」その笑みは、儀礼的なものではなかった。
焚き火の灯りに、しばしば公主と軍臣は視線を絡ませている。
「今日、ここに着きましてから、これ等の者達が狩った兎でございます」軍臣は、跪いている家来達の方を見た。
「あの、短い間に」
「はい、匈奴の男は生れたときから馬に乗り、弓を引きまする」
「どうぞ、太子も共にお召し上がりくださいませ」公主は器を雪豹の毛皮の上に置いて一礼した。
「それに、そのもの達も」
「ありがとうございます」
軍臣はまた匈奴の言葉で家来達に声を掛けた。彼らは一斉に叩頭して立ち上がった。まず軍臣の前に焙り肉が置かれ、軍臣が手を付けると、中行説の前にも肉が配られた。
「中行説、であったな。そのほうも口をつけよ」軍臣が、笑顔でいった。
「ご勘弁くださいませ。折角のご馳走ながら昨夜の馬乳酒が居座り、胃の腑が受け付けませぬ」
「ならば薄い酪湯ならどうじゃな。そちが何か口にせぬと、こやつ等が肉にありつけぬ」
「頂きます」
説が酪湯を一口すすると、匈奴の家来達もめいめい串を引き抜き、焙り肉に噛り付いた。
軍臣が中行説を見ながら何事か話すと、彼らはどっと笑った。
Posted by 渋柿 at 16:14 | Comments(0)
2009年09月28日
「中行説の桑」36
十六夜の月が草原の果ての地平線に昇るころ、中行説は公主に従って軍臣太子の天幕を訪れた。
(疲れておられる)公主の、密やかなため息を初めて聞いたのは、この時だった。心なしか、歩む足取りがあやうい。
(無理もないが・・大丈夫であろうか)中行説は、招きに応じるほうがよいと勧めたことを、少し悔いた。(だが、このお姫様のこと、年上の継子に気後れなどなさるまいしなあ)
公主は赤い絹の袿裳をまとい、あの漢の文帝に贈られた翡翠の耳飾りを着けてきた。
草原。薤(にら)に似た白い花が、細長い葉と共に風に揺れる。
公主一行の宿営から一里(漢里・約四百メートル)ほど先に、匈奴のフェルトの天幕が張られている。
「天幕へ招く」といっても、草原の夜の宴である。天幕の前に大きな焚き火が燃え上がり、その傍らには大鍋の掛かった竃が作られていた。焚き火の正面には見事な毛皮を敷いて、公主の席が設えられている。
「これは・・」中行説は、息を呑んだ。
輝く銀色の中に漆黒の斑を散らした長い冬毛であった。
「おおもしや、これがあの名高い雪豹では」公主も目を見張る。
「よくご存知で」軍臣太子は、叩頭して公主を雪豹の上に導いた。
「ここよりももっと北、高い山に住んでおります」
風が起こり、焚き火の炎が燃え上がった。正面の公主の顔をまともに照らす。
軍臣の表情が、まぎれもなく公主の美しさに対する賛嘆に溢れているのを見て、中行説は満足であった。
公主は無論のこと中行説も、実物を見るのは初めてである。雪豹を狩るのは容易ではない。客をその毛皮に迎えるのは、匈奴では最高の礼遇と聞いていた。
「美しいこと」毛皮に座した公主は、膝の辺りを掌で撫でた。
(似合っておられる。この姫は、まるで雪豹の上に座すために生れてこられたようだ)
「お気に召しましたか」軍臣は、白い歯を見せる。
(疲れておられる)公主の、密やかなため息を初めて聞いたのは、この時だった。心なしか、歩む足取りがあやうい。
(無理もないが・・大丈夫であろうか)中行説は、招きに応じるほうがよいと勧めたことを、少し悔いた。(だが、このお姫様のこと、年上の継子に気後れなどなさるまいしなあ)
公主は赤い絹の袿裳をまとい、あの漢の文帝に贈られた翡翠の耳飾りを着けてきた。
草原。薤(にら)に似た白い花が、細長い葉と共に風に揺れる。
公主一行の宿営から一里(漢里・約四百メートル)ほど先に、匈奴のフェルトの天幕が張られている。
「天幕へ招く」といっても、草原の夜の宴である。天幕の前に大きな焚き火が燃え上がり、その傍らには大鍋の掛かった竃が作られていた。焚き火の正面には見事な毛皮を敷いて、公主の席が設えられている。
「これは・・」中行説は、息を呑んだ。
輝く銀色の中に漆黒の斑を散らした長い冬毛であった。
「おおもしや、これがあの名高い雪豹では」公主も目を見張る。
「よくご存知で」軍臣太子は、叩頭して公主を雪豹の上に導いた。
「ここよりももっと北、高い山に住んでおります」
風が起こり、焚き火の炎が燃え上がった。正面の公主の顔をまともに照らす。
軍臣の表情が、まぎれもなく公主の美しさに対する賛嘆に溢れているのを見て、中行説は満足であった。
公主は無論のこと中行説も、実物を見るのは初めてである。雪豹を狩るのは容易ではない。客をその毛皮に迎えるのは、匈奴では最高の礼遇と聞いていた。
「美しいこと」毛皮に座した公主は、膝の辺りを掌で撫でた。
(似合っておられる。この姫は、まるで雪豹の上に座すために生れてこられたようだ)
「お気に召しましたか」軍臣は、白い歯を見せる。
Posted by 渋柿 at 07:24 | Comments(2)