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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年09月18日

「中行説の桑」20

「無理です。そもそも桑の木は、匈奴の地では育ちません」聞かれる心配はなかったが、それでも説は声をひそめた。
「育ちませんか」
「匈奴の地は、まず水が少のうございます。まばらに草が生えておるのがせいぜいでございます。育つとしたら御柳(タマリスク)と申す背の低い木くらいがやっとで」
「桑がなければ、蚕は育たぬのですね」
「はい。蚕は桑しか食べません。それも毎日、驚くほどの桑の葉を食べまする」
「でも、くぬぎや樫の葉を食む蚕の眷属がおる、と聞いております。ひょっとしたらその御柳とやらの葉、蚕が口にするかもしれませんよ。生き延びるために」公主は、あでやかな微笑みでそういった。
「柳を食む蚕など、聞いたこともござりませぬ」説はため息をついた。
「お願いです、無茶をおっしゃいますな」
「ええ、私、無茶を申しておりますわね」
 まだ十六歳と聞いている。にも関わらず賢い姫だ、と思った。人間が飼わぬ、桑も食わぬ、蚕の一種は確かに存在する。何千年前、伝説の黄帝の后が蚕を飼い、絹を織り始めたという。だがくぬぎや樫に付く蚕の眷属は、緑色の繭を作り糸布にも織られている。
「でも、長城の外でも絹が出来たところで、そう漢のお国は困らぬのではないですか」
「はあ・・」
 生存の危機に見舞われれば、匈奴が、絹を穀物とともに略奪することは確かにある。自給できないからであり、それが西方との交易の「通貨」ともなるからである。
 実際に絹の生産に携わっているものたちの身になれば、匈奴から得ている乳製品などは漢の国内でも購える。漢の国内にも、長城外に養蚕の技術が広まり略奪の危険がなくなる方がむしろ有難いという人間がずっと多いのかもしれない。
「私は嫁いだら絹ではなく、牛でも羊でも皮の衣を着るつもりですがね・・」公主は、自分の纏った鮮やかな緋の袿裳の裾を引きながらいった。
「まさか・・」
 その言葉とは裏腹に、抜けるように白い公主の肌に、その袿裳はよく似合っている。
 この少女が毛皮を纏った姿を、説は思い浮かべることはできない。
「もし匈奴の地でも絹が出来るようになったら、面白いではありませんか」
  


Posted by 渋柿 at 18:59 | Comments(0)

2009年09月18日

「中行説の桑」19

「えっ」
 宦官は宮中に宿営するのが原則である。しかし特に認められて、都の中に家を持つこともできた。時代が下れば、そこで内々にならば「妻」を持ち養子を迎えて家庭を持っている宦官さえもいたのである。
「それは宦官令様の、お骨折りでございましょう。誠にありがとうございます」
「あ、いや・・儂の力ばかりではないがの」張沢は、照れたように笑った。「そなたの父母は、燕に健在なのであろう」
「はい・・宦官になってから一度も会ってはおりませんが」
「呼び寄せるがよい」
 思い掛けない言葉だった。
 蚕が病気で死に絶えて、説は一家を救うために身を売り、人の賤しむ宦官となった。
(父母・・来てくれるだろうか)
 二人の兄は嫁を迎えて養蚕の家業を続けているし、近くに嫁いだ姉の子達も、父母はむつきのうちから慈しんできたはずである。宦官となった中行説は、無論のこと華燭の典に招かれることもなく、暫くはあった母の燕王府を通じた音信も絶え絶えである。人の卑しむ身の上となってしまっているのだ。
宦官となった時に肉親との絆を失った朋輩も多い。
(多分、父さんも母さんも燕を離れたがらないだろう)説は、寂しく思った。(どうせ、肉親との縁はすでに切れている)
「では、酪のこと、よろしくな」張沢は、もう一度説の肩を叩き、去っていった。
 半日の半分の半分、初めは激しくあとは静かに・・記憶にある「酪の小父さん」の言葉をなぞり三日、中行説は瓢箪に牛の乳を入れて試行錯誤を繰り返した。激しく振る時間の加減、静かに揺する時間の加減・・幾つもの瓢箪の牛乳を無駄にし、ついに「これが酪」という物を作った。
 その酪を溶かした湯は、和蕃公主の御意に叶った。
 それから数度、召されてお褒めの言葉を賜り、説はしばしば公主の前に伺候し、話し相手を勤めている。
 その和蕃公主が、「国禁を犯し、匈奴の地で絹の生産ができおるよう、蚕種と桑の種を持ち出したい」という。
  


Posted by 渋柿 at 07:06 | Comments(0)