2009年09月27日

「中行説の桑」35

  案内人の長が、馬を繋ぐ杭を打つ兵士を指図していた。人の夕餉の前に、馬を繋ぎ飼葉を与えねばならぬ。馬の力で本気になれば、人力で急ごしらえに地に打ち込んだ杭など引き抜きも出来るだろう。だが調教され馴れた馬たちは、一夜その杭におとなしく繋がれて朝を待つのだ。もっとも馬は百頭近くいる。
 漠縁の旅では、大地が堅く杭が立たないような宿営地もあった。繋がずに見張りだけを立てたこともある。それでも朝までに、逃げた馬はいなかった。
「遅くなりました」中行説をここまで伴った案内人が、長に頭を下げた。
「まことに、ご迷惑をお掛けいたしました」説も、恐縮しきる。
「いやあ、宦官殿には災難でしたなあ。漢人が匈奴の地に参ると、誰も一度はあういう目に逢いまする。単于の宮廷・・王庭へ入る前には、一言ご注意しようと思っておりましたが、昨夜のように急に拉致されてはどうしようもなありませんなあ」宦官令の張沢ほどの年配の長は、かえって説を慰めた。
(蚕の死骸を人知れず埋葬するため、夜半勝手に宿営を離れた・・)なおもむかつく胃の腑は、自業自得であった。
「実は・・」長は、気のいい笑顔を納めて、声を潜めた。「匈奴の太子から今宵、公主様にお招きがあったのです」
「何ですと」
「ここから単于の穹廬(きゅうろ)まではあと二日、公主の旅の徒然をお慰めしたいと軍臣太子直々の申し入れで」
 中行説の顔面から血の気が引いた。昨夜、馬乳酒で気が大きくなり、多弁の挙句醜態を演じた相手であった。
「で、公主様は何と?」
「中行説だけが供なら、参ると」
「お留めなさらなかったのですか」説と共に遅着した案内人がきいた。「匈奴の習い、ご存知でしょうに」
「うむ、これが中華の礼ならば、降嫁なさった公主は単于の嫡妻、年は下でも太子が孝養を尽くすべき母上じゃ。子の招き、母として受けるべきではあろうが・・」
「あの風習がありますからなあ」
 それは中行説も知っている。漢の地では考えられぬことであるが・・匈奴は父が死ねば子は自分の生母以外の父の妻を、また兄が死ねば兄嫁を自分の妻とする。継母にとって、継子は「子」ではなく異性なのである。嫁ぐ前に夫たるべき単于以外の異性と宴を共にするのは、如何なものか。
「いっそ・・ならばなおのことでございます、このお招き、受けたほうがよろしいのでは」説は、遠慮がちに口を挟んだ。「単于は、公主様より二十もお年は上でございます。公主様の行く末を思えば・・」
 継母と継子というだけではない。公主の、次の夫となるかも知れぬ相手であった。関係は円滑であったほうがよい。
「しかし今は、公主様は太子に嫁がれるのではない。やはり、お断りいたそう」
「公主様が、いくとおっしゃっておられる。それはなりますまい」
「そう・・でしたな」
 長は、花嫁行列の旅程には全責任と命令権を持っている。一方旅程とは別の、いわば公主の社交は、傳役の中行説が総務するべきものであった。その権限はもはや匈奴の地に入った今は、皇帝の命令からも独立しているのだ。指揮系統の混乱状態にあっては、公主の意向が何よりも優先する。




Posted by 渋柿 at 17:24 | Comments(0)
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