2015年07月11日
鯰酔虎伝 最終回
「落研の仲間と、寄席には随分通ったそうです。・・入替えなしの豊島演芸場とか」
兎に角高座にしがみついてやっと生きてきた・・俺のどん底の頃だ。
「豊島演芸場に、酔っぱらいの噺家がいたって。同じ噺ばかりだけど、客に合わせてくすぐり微妙に変えてる。これがたまさか古典を演ってるのに出くわしたら、他にない味があるんだ・・そういってました。落語の根っこは反骨、やる事ぁ無茶苦茶だけど、そりゃほんとに芸に真面目だからさ、って」
師匠の事ですね、朝顔は笑った。
「そりゃ、長楽亭左京に憧れてました。うちには、古典落語の全集まであったんですよ。東京に出てきて左京師匠の高座聞いて、笑って・・泣きました。活字でしか知らなかった世界、次から次へ演じてらして」
あいつの持ちネタの多さは、凄かった。
「左京師匠みたいになりたかった。それが師匠に事欠き、酔払い爺さんの介護でしょ・・ずっと後悔してました」
そうだろうともよ。
「落語は反骨の毒・・夕顔亭鯰の良さやっと判ってきたのは、ほんの最近ですかねえ」
よせやい、照れるじゃねえか。
「・・黒紋付に袴、誂えるぜ」
噺家の礼装だ。
「えっ」
「黒羽二重の極上を二つ、な。そろそろ真打昇進の事、真面目に考えてもいい時期だろ」
おりんさんなら、間に合わせてくれる。お前の髪飾りと揃いの根付も、あの爺さん二人んとこで誂えようぜ。お前の古典は「芝浜」でも「井戸の茶碗」でも、あと一歩で真打ってとこまで来てる。その技量で、「鯰酔虎伝」も仕上げるんだ。この馬鹿野郎な噺家をさ、くたばった後も、ネタにし続けてくれよ。そんな事思っちゃ、罰当たるかい?
「その日の為にもな・・」
ずっと支えて下すったお前の親御さんに、礼を尽くすのが筋ってもんだろ。こう見えたって死んだ女房の親に挨拶した時もなあ、俺ぁ黒紋付に袴だったんだ。
兎に角高座にしがみついてやっと生きてきた・・俺のどん底の頃だ。
「豊島演芸場に、酔っぱらいの噺家がいたって。同じ噺ばかりだけど、客に合わせてくすぐり微妙に変えてる。これがたまさか古典を演ってるのに出くわしたら、他にない味があるんだ・・そういってました。落語の根っこは反骨、やる事ぁ無茶苦茶だけど、そりゃほんとに芸に真面目だからさ、って」
師匠の事ですね、朝顔は笑った。
「そりゃ、長楽亭左京に憧れてました。うちには、古典落語の全集まであったんですよ。東京に出てきて左京師匠の高座聞いて、笑って・・泣きました。活字でしか知らなかった世界、次から次へ演じてらして」
あいつの持ちネタの多さは、凄かった。
「左京師匠みたいになりたかった。それが師匠に事欠き、酔払い爺さんの介護でしょ・・ずっと後悔してました」
そうだろうともよ。
「落語は反骨の毒・・夕顔亭鯰の良さやっと判ってきたのは、ほんの最近ですかねえ」
よせやい、照れるじゃねえか。
「・・黒紋付に袴、誂えるぜ」
噺家の礼装だ。
「えっ」
「黒羽二重の極上を二つ、な。そろそろ真打昇進の事、真面目に考えてもいい時期だろ」
おりんさんなら、間に合わせてくれる。お前の髪飾りと揃いの根付も、あの爺さん二人んとこで誂えようぜ。お前の古典は「芝浜」でも「井戸の茶碗」でも、あと一歩で真打ってとこまで来てる。その技量で、「鯰酔虎伝」も仕上げるんだ。この馬鹿野郎な噺家をさ、くたばった後も、ネタにし続けてくれよ。そんな事思っちゃ、罰当たるかい?
「その日の為にもな・・」
ずっと支えて下すったお前の親御さんに、礼を尽くすのが筋ってもんだろ。こう見えたって死んだ女房の親に挨拶した時もなあ、俺ぁ黒紋付に袴だったんだ。
Posted by 渋柿 at 17:34 | Comments(0)
2015年07月04日
鯰酔虎伝 21
絡みも暴れもしない、いい三人酒の千鳥足で帰ってくると、ネタ浚いの声がした。
「・・うるせぇ、そいつの襟首掴む。もう泥酔状態でございます。いけない、こいつはいけないってんで、師匠出番ですと声を掛ける。そしたら夕顔亭鯰、立飲屋の土間の真ん中すっくと座り、演りだしたのは文七元結。これがまた、しらふよりよっぽど出来がいい」
近頃の朝顔は本格の古典と共に、その名も「鯰酔虎伝」、鯰の酒癖をネタにし倒した一連の新作も手掛けている。
(ネタになる師匠って、一財産です・・か)
左京の遺言で渋々厭々俺んとこ来た癖によ。師匠選びも芸のうちでしたねなんて、生意気な事いいやがって。
(古典の名手が演ったガンバレも、寄席の鬼っ子の文七元結も、どっちも好き。だから、古典と新作両方とも得手にするんです・・か)
その為には、途方もない努力が要るのによ。
政さん久さんにどやされ、ドアを開けた。
「師匠・・やっぱりぃ。ほんとだらしない」
「酔って・・ねえ、よ」
「呂律、回ってません」
コップに水をくみ、はいと差し出す。
「京蔵師匠から、佐賀の会の確認が入ったんで、OKですっていっときました。・・十年前左京師匠と二人会をした同じ日、同じ場所なんですって、佐賀市文化会館」
「・・ちょっと待ちな、四月二九日って」
「ええ、左京さんの命日。今年が七回忌ですねえ。これも何かの因縁・・ひょっとすると、左京師匠が呼んでるのかもしれませんよ。高座で極楽往生したりして・・その時分の佐賀、楠若葉がきらきら、綺麗ですしねえ」
よしやがれ。年寄りにゃあ洒落にならねえ。
左京、勘弁してくれ。酔っちゃ連れてけ死神なんて騒いでたけど、今はまだ死にたくないんだ。朝顔が真打になるまで、どうしても。
(お前が俺に託した弟子だ。俺とお前併せた、凄ぇ噺家にしなきゃ・・嘘だろ)
この齢んなって、全く汚え生き意地だよな。
まあ足腰ぁもう大分弱ってるし、何の役にも立たねえくらい耄碌した時ぁ、すぐそっち行くからさ。そん時は又、とことん飲もうぜ。
「父と母、来てくれるそうです。楽屋に挨拶に伺うって」
どんな顔して、逢やいいんだろう。
「・・親父さん、なあ」
「は?」
「どこ出たんだい」
「都の、西北・・」
「まさか、落研だった・・とか?」
「ええ、それもあたしと同じ」
ほんとかよ、ほんとに左京の先輩だ。
「ひょっとして、水上左京て奴、ご存知だったんじゃないかい」
「いえ・・多分、左京師匠は父が卒業してからの入学です。父が五つ上ですから」
そこはまるっきり違う。朝顔の親父さんと左京の因縁なんて、とんだ与太話しやがって。
「でも、無茶な噺家の事は聞いてました」
「無茶な、噺家ぁ?」
まさか・・
「・・うるせぇ、そいつの襟首掴む。もう泥酔状態でございます。いけない、こいつはいけないってんで、師匠出番ですと声を掛ける。そしたら夕顔亭鯰、立飲屋の土間の真ん中すっくと座り、演りだしたのは文七元結。これがまた、しらふよりよっぽど出来がいい」
近頃の朝顔は本格の古典と共に、その名も「鯰酔虎伝」、鯰の酒癖をネタにし倒した一連の新作も手掛けている。
(ネタになる師匠って、一財産です・・か)
左京の遺言で渋々厭々俺んとこ来た癖によ。師匠選びも芸のうちでしたねなんて、生意気な事いいやがって。
(古典の名手が演ったガンバレも、寄席の鬼っ子の文七元結も、どっちも好き。だから、古典と新作両方とも得手にするんです・・か)
その為には、途方もない努力が要るのによ。
政さん久さんにどやされ、ドアを開けた。
「師匠・・やっぱりぃ。ほんとだらしない」
「酔って・・ねえ、よ」
「呂律、回ってません」
コップに水をくみ、はいと差し出す。
「京蔵師匠から、佐賀の会の確認が入ったんで、OKですっていっときました。・・十年前左京師匠と二人会をした同じ日、同じ場所なんですって、佐賀市文化会館」
「・・ちょっと待ちな、四月二九日って」
「ええ、左京さんの命日。今年が七回忌ですねえ。これも何かの因縁・・ひょっとすると、左京師匠が呼んでるのかもしれませんよ。高座で極楽往生したりして・・その時分の佐賀、楠若葉がきらきら、綺麗ですしねえ」
よしやがれ。年寄りにゃあ洒落にならねえ。
左京、勘弁してくれ。酔っちゃ連れてけ死神なんて騒いでたけど、今はまだ死にたくないんだ。朝顔が真打になるまで、どうしても。
(お前が俺に託した弟子だ。俺とお前併せた、凄ぇ噺家にしなきゃ・・嘘だろ)
この齢んなって、全く汚え生き意地だよな。
まあ足腰ぁもう大分弱ってるし、何の役にも立たねえくらい耄碌した時ぁ、すぐそっち行くからさ。そん時は又、とことん飲もうぜ。
「父と母、来てくれるそうです。楽屋に挨拶に伺うって」
どんな顔して、逢やいいんだろう。
「・・親父さん、なあ」
「は?」
「どこ出たんだい」
「都の、西北・・」
「まさか、落研だった・・とか?」
「ええ、それもあたしと同じ」
ほんとかよ、ほんとに左京の先輩だ。
「ひょっとして、水上左京て奴、ご存知だったんじゃないかい」
「いえ・・多分、左京師匠は父が卒業してからの入学です。父が五つ上ですから」
そこはまるっきり違う。朝顔の親父さんと左京の因縁なんて、とんだ与太話しやがって。
「でも、無茶な噺家の事は聞いてました」
「無茶な、噺家ぁ?」
まさか・・
Posted by 渋柿 at 14:50 | Comments(0)
2015年07月02日
鯰酔虎伝 20
「ねっ、ミュージシャンでもジャニーズでもねえんだ、男臭い場所の男臭い寄席に田舎娘が引き付けられたなあ、親から左京の事聞いたとでも考えなきゃ平仄が合わねえ」
「久さんのいう通りだ。あれだぜ、東京で大学まで出した娘が、いくら爺さんとはいえ男と同棲するってんだ、普通親が文句の一つも言うもんだぜ。それを立派な噺家にしてやって下さいってんで、米は送る味噌は送る・・」
「その上毎年、伊万里梨に伊万里みかんだろ」
「鯰さんを信用したのさ、生前の左京さんと飲み仲間だったって事でなあ」
まさか・・でも落語に興味持ったそもそもの切っ掛けは、まだ当人からは聞いてない。
「まあ今だって碧ちゃんと師匠、所帯持ってる様なもんだ、俺達みたいにさ」
政さんと久さんが目くばせを交わした。俺達も五十年、ずっと一つ屋根の下で暮らしてるんだからなあ、そう苦笑いする。
(聞いてるよ)
政さんも久さんも、ずっとおりんさんに惚れてたんだってなあ。でもおりんさん、どうしても友達の仲裂けなかったそうだよ。そしてずっと、三人で同じアパートの、三つの部屋で暮らしてきたんだ。
(とんだ・・真間の手児奈だね)
万葉の乙女は男の争い苦にして自殺しちまったんだが・・八十過ぎたって俺同様、達者に手前で稼いでるんだ。こんな不思議な三角関係も、当人達がよきゃそれでいいんだろ。
(三人で入る永代供養の墓も、もう決めてるっていってたな)
俺の墓も、まだ空きがありゃあそこにするか。女房と娘のお骨と一緒に。
「師匠の文七元結胸に堪えたぜ、なあ政さん」
「ああ、やせ我慢はああでなくちゃいけねえ」
・・娘は女郎になっても死ぬ訳じゃねえ、我慢するさ。あんたはこの金が無きゃあ身ぃ投げて死ぬってんだろ、ええい持ってけ・・
(やせ我慢・・か)
朝顔が愛しい。そりゃ生涯唯一の弟子だからだけど、女房でもあり娘でもあり・・ひょっとすると惚れちまったのかもしれない。
朝顔は女房娘の骨壺と位牌に、今もご膳と水を供えてくれている。さつき、これから風邪だろうが指一本触れないから・・勘弁してくれ。そしてあいつに似合いの男が現れたら、喜んで嫁に出す。あの根性だ、女房稼業と噺家稼業の両方、立派にやっていくだろうよ。
(・・卓袱台返さなくて、よかった)
左京が死んで六年、やっとまたできた、多分最後の飲み仲間だ。大事にしなくちゃ。
「久さんのいう通りだ。あれだぜ、東京で大学まで出した娘が、いくら爺さんとはいえ男と同棲するってんだ、普通親が文句の一つも言うもんだぜ。それを立派な噺家にしてやって下さいってんで、米は送る味噌は送る・・」
「その上毎年、伊万里梨に伊万里みかんだろ」
「鯰さんを信用したのさ、生前の左京さんと飲み仲間だったって事でなあ」
まさか・・でも落語に興味持ったそもそもの切っ掛けは、まだ当人からは聞いてない。
「まあ今だって碧ちゃんと師匠、所帯持ってる様なもんだ、俺達みたいにさ」
政さんと久さんが目くばせを交わした。俺達も五十年、ずっと一つ屋根の下で暮らしてるんだからなあ、そう苦笑いする。
(聞いてるよ)
政さんも久さんも、ずっとおりんさんに惚れてたんだってなあ。でもおりんさん、どうしても友達の仲裂けなかったそうだよ。そしてずっと、三人で同じアパートの、三つの部屋で暮らしてきたんだ。
(とんだ・・真間の手児奈だね)
万葉の乙女は男の争い苦にして自殺しちまったんだが・・八十過ぎたって俺同様、達者に手前で稼いでるんだ。こんな不思議な三角関係も、当人達がよきゃそれでいいんだろ。
(三人で入る永代供養の墓も、もう決めてるっていってたな)
俺の墓も、まだ空きがありゃあそこにするか。女房と娘のお骨と一緒に。
「師匠の文七元結胸に堪えたぜ、なあ政さん」
「ああ、やせ我慢はああでなくちゃいけねえ」
・・娘は女郎になっても死ぬ訳じゃねえ、我慢するさ。あんたはこの金が無きゃあ身ぃ投げて死ぬってんだろ、ええい持ってけ・・
(やせ我慢・・か)
朝顔が愛しい。そりゃ生涯唯一の弟子だからだけど、女房でもあり娘でもあり・・ひょっとすると惚れちまったのかもしれない。
朝顔は女房娘の骨壺と位牌に、今もご膳と水を供えてくれている。さつき、これから風邪だろうが指一本触れないから・・勘弁してくれ。そしてあいつに似合いの男が現れたら、喜んで嫁に出す。あの根性だ、女房稼業と噺家稼業の両方、立派にやっていくだろうよ。
(・・卓袱台返さなくて、よかった)
左京が死んで六年、やっとまたできた、多分最後の飲み仲間だ。大事にしなくちゃ。
Posted by 渋柿 at 21:20 | Comments(0)
2015年07月01日
鯰酔虎伝 19
「湯へ・・行ってくる」
「師匠ぉ」
「今日、休肝日だってんだろ。大丈夫だ。どこにも寄りゃしないよ」
「約束ですよ」
「ああ」
石鹸手拭いの入ったビニール巾着を掴んで、立ち上がった。朝顔が【あの】日で、多分明後日まで銭湯に行けない事は判ってる。
中央線沿線といっても、この辺りは武蔵野の春の風情がまだ残っている。あちこちに聳える欅の大木が、煙る様に芽吹いていた。
「師匠、今日は一人かい」
がらがらの銭湯。ひとっ風呂浴びた体を拭いて、猿股履い
ていた肩を、ぽんと叩かれた。
向かいと斜向かいの爺さん達だった。向かいの爺さんは絹や縮緬で三角の部品を作るつまみ細工の職人で、斜向かいはそれを花簪に仕上げる飾職だ。二人は組んで仕事をしている。着物を着る女がめっきり少なくなった今も、年金の足しの稼ぎをしているのは、お針のおりん婆さんと一緒だった。
「どうしたい、浮かない顔して」
つまみ職人の政さんが、顔を覗き込む。
「ちょっと、な」
「今日は仕事ないんだろ、帰りにどうだい」
飾職の久さんが、そらのお猪口を傾ける。
(休肝日なんだけど・・)
知った事か。まっすぐ自分の部屋に入って、寝ちまえばいいんだ。俺の酒癖判ってて、懲りずに誘ってくれるてのが嬉しいじゃないか。
「女が親に逢ってくれって、そりゃ物騒だ」
路地の縄暖簾。盃を手に久さんがいう。
「結婚してくれって事じゃねえか。まあ、碧ちゃんも二つ目だし、色恋解禁だからねえ」
「イジるんじゃねえ。あいつ惚れてたなあ俺じゃねえよ」
湯呑に酒を空け、ぐいと呷った。苦い。
「そいつに二度も弟子入り断られて、自棄のやん八、とち狂って俺んとこ来たんだとさ」
「そりゃ左京って、長楽亭京治の弟子だったってえ二枚目だろ」
知ってるよ、碧ちゃん夢中だったから。若葉嵐ん中葬式にまで出かけてたねえ・・政さんが、お新香に箸を伸ばしながらいう。
「・・でも何で今頃、親に逢ってくれなんて、そんな話になったんだ?」
もう六年も前だろ、あんたが碧ちゃんの部屋に転がり込んできたの、ちょっとお姐さん、冷奴三つに刺身、盛り合わせで、あとお銚子二本追加ね・・久さんが場を仕切る。
「来月落語会で、佐賀行くんでね、そのついで・・てだけさ」
「こりゃ師匠あれだぜ、碧ちゃんの父つぁんてのも落研だったんだな。で、噺家になりたかったんだけど、後輩に凄い奴がいて、とても敵わねえってんで諦めて田舎帰ったんだ」
よしな、そんなつまんねえ作り話。
「その凄い奴ってのが左京さ。親もほんとは左京の弟子にしたかったんだよ、本人同様な」
むかっと来た。
(師匠が俺じゃ、ダメだってのかよ!)
左京の野郎、死んでまで俺振り回しやがって。俺だってなあ、一生懸命教えてきたんだよ!「大工調べ」の啖呵だって、「芝浜」の夫婦の演り方だって、俺が教えたんだ。
(それなのに手前達ぁ!)
俺の身にもなってみろ、入れ込みの卓袱台に手が掛かった。いけね、もう悪い酒になっちまってる。何かと世話になってるご近所とまたぞろ喧嘩騒ぎなんか起こしたら、今度こそ朝顔から【逆破門】されちまう。
「ど田舎から来た小娘が入学式済むか済まねえうちに寄席通い、それも長楽亭左京一筋だろ・・そうでなきゃおかしいよ」
堪えてるんだ、こっちの疵口抉ってる事、気付いてくれよな。
「師匠ぉ」
「今日、休肝日だってんだろ。大丈夫だ。どこにも寄りゃしないよ」
「約束ですよ」
「ああ」
石鹸手拭いの入ったビニール巾着を掴んで、立ち上がった。朝顔が【あの】日で、多分明後日まで銭湯に行けない事は判ってる。
中央線沿線といっても、この辺りは武蔵野の春の風情がまだ残っている。あちこちに聳える欅の大木が、煙る様に芽吹いていた。
「師匠、今日は一人かい」
がらがらの銭湯。ひとっ風呂浴びた体を拭いて、猿股履い
ていた肩を、ぽんと叩かれた。
向かいと斜向かいの爺さん達だった。向かいの爺さんは絹や縮緬で三角の部品を作るつまみ細工の職人で、斜向かいはそれを花簪に仕上げる飾職だ。二人は組んで仕事をしている。着物を着る女がめっきり少なくなった今も、年金の足しの稼ぎをしているのは、お針のおりん婆さんと一緒だった。
「どうしたい、浮かない顔して」
つまみ職人の政さんが、顔を覗き込む。
「ちょっと、な」
「今日は仕事ないんだろ、帰りにどうだい」
飾職の久さんが、そらのお猪口を傾ける。
(休肝日なんだけど・・)
知った事か。まっすぐ自分の部屋に入って、寝ちまえばいいんだ。俺の酒癖判ってて、懲りずに誘ってくれるてのが嬉しいじゃないか。
「女が親に逢ってくれって、そりゃ物騒だ」
路地の縄暖簾。盃を手に久さんがいう。
「結婚してくれって事じゃねえか。まあ、碧ちゃんも二つ目だし、色恋解禁だからねえ」
「イジるんじゃねえ。あいつ惚れてたなあ俺じゃねえよ」
湯呑に酒を空け、ぐいと呷った。苦い。
「そいつに二度も弟子入り断られて、自棄のやん八、とち狂って俺んとこ来たんだとさ」
「そりゃ左京って、長楽亭京治の弟子だったってえ二枚目だろ」
知ってるよ、碧ちゃん夢中だったから。若葉嵐ん中葬式にまで出かけてたねえ・・政さんが、お新香に箸を伸ばしながらいう。
「・・でも何で今頃、親に逢ってくれなんて、そんな話になったんだ?」
もう六年も前だろ、あんたが碧ちゃんの部屋に転がり込んできたの、ちょっとお姐さん、冷奴三つに刺身、盛り合わせで、あとお銚子二本追加ね・・久さんが場を仕切る。
「来月落語会で、佐賀行くんでね、そのついで・・てだけさ」
「こりゃ師匠あれだぜ、碧ちゃんの父つぁんてのも落研だったんだな。で、噺家になりたかったんだけど、後輩に凄い奴がいて、とても敵わねえってんで諦めて田舎帰ったんだ」
よしな、そんなつまんねえ作り話。
「その凄い奴ってのが左京さ。親もほんとは左京の弟子にしたかったんだよ、本人同様な」
むかっと来た。
(師匠が俺じゃ、ダメだってのかよ!)
左京の野郎、死んでまで俺振り回しやがって。俺だってなあ、一生懸命教えてきたんだよ!「大工調べ」の啖呵だって、「芝浜」の夫婦の演り方だって、俺が教えたんだ。
(それなのに手前達ぁ!)
俺の身にもなってみろ、入れ込みの卓袱台に手が掛かった。いけね、もう悪い酒になっちまってる。何かと世話になってるご近所とまたぞろ喧嘩騒ぎなんか起こしたら、今度こそ朝顔から【逆破門】されちまう。
「ど田舎から来た小娘が入学式済むか済まねえうちに寄席通い、それも長楽亭左京一筋だろ・・そうでなきゃおかしいよ」
堪えてるんだ、こっちの疵口抉ってる事、気付いてくれよな。
Posted by 渋柿 at 16:20 | Comments(0)