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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年09月09日

「中行説の桑」14

「天下の勇士?」
 司馬喜は、薄く笑った。
 茅の草の葉にかまきりが一匹、鎌を振り上げて闖入者を威嚇している。茅を避けて手巾を敷き、竹簡を地面に置く。 
「春秋を経て戦国の世、司馬一族も衛や趙や秦にと散ったがの、わが祖先は秦の恵文王に仕えておったらしい」
「やはり記録を司って?」
「いやあ、畑違いの鉄官でなあ」
 国家が独占した製鉄の技術官また管轄官である。
「漢の御世になって、父は長安の市場の司の職を得たがの、孫子の代までかかっても司馬氏の家職、記録と歴史記述を成し遂げよとて、儂を史官にしたわけよ。全く蟷螂の斧の如き話でなあ」
「蟷螂の・・斧?」
 茅の上のかまきりは、相変わらず頭上の人間を睨みつけ、鎌を振り上げている。
「春秋の君主で、人妻にちょっかいを出してその夫に殺されたというちと情けないお方を知っておるかの?」
「確か・・斉の莊公でしたか」
「そうじゃ、或る時、荘公が猟に出たが、一匹のかまきりが、あやうく踏みつぶされそうになりながら、前足の大鎌を振るって車を撃とうとしたそうな」司馬喜は手を伸ばしてかまきりの頭をちょんと突いた。
 かまきりは前足を振り下ろしたが、その前に司馬喜はさっと手を引いた。
 言葉を続ける。
「それを見た荘公は『元気な奴じゃ、これは何という虫かな?』と左右の者に聞くとな、御者がいうたそうな。『これはかまきりという虫でございます。この虫は進むことしか知らなくて、全く退くことを知りませんし、自分の力のほども弁えずに、一途に敵に当る奴めでございます』とな」また司馬喜はかまきりを軽く突いた。「荘公はこの言葉を聞いて『この虫がもし人間であったとすれば、それは必ず天下に並びなき勇士であったろう』といって車を戻させ、わざわざ蟷螂を避けて進んだという」
「さすが太常府の史官様、良くご存知で」
 一気に弁じる司馬喜の記憶力と、その熱意。中行説は舌を巻くしかない。
「なりたてじゃがな。自分や子孫の力も弁えず、天地開闢から今に至る歴史を記そうなどと、戦車に斧振り上げるかまきりのような夢さ。もっとも史官というのは、いつもそんなもんだがな」
「いつも・・?」
「この莊公が臣下の崔杼に殺された時もそうでなあ。面と向かってその罪を鳴らしたのは史官だけだったそうじゃ」司馬喜は空を仰ぐ。
  


Posted by 渋柿 at 17:04 | Comments(0)

2009年09月09日

「中行説の桑」13

「お前の名は?」
「中行説と申します」声を弾ませて答えた。

 沐休、という。皇帝の在す宮中に仕えるものは、身を清浄に保たねば成らぬ・・ということだろう。官衙に勤める宰相初め官吏もから中行説たち見習い宦官まで、沐浴のためという名目で六日に一度休みがあった。
 借りた絹の手巾を司馬喜に返したのは、あの三日後の説の沐休の日だった。
 この前のことがことである。宦官の身で石渠閣に入るのも憚られ、入り口の物陰で待っていると、幸い程なく司馬喜は現れた。
「申し訳ございません。洗ったのですが・・染みになってしまいました」
「よいよい、気にするな」司馬喜は鷹揚に手巾を受け取った。「今日は沐休か?」
「はい」
「それはよい。儂も今日は沐休でな・・ちょっと待っておれ」司馬喜は一旦閣内に入り、すぐに竹簡を二束ほど抱えて出てきた。「詩経は全部読んだのかな?」
「とてもとても。うちに書物はございませんで、父が自分の覚えている分をぽつりぽつり教えてくれたくらいのものでございます」
「親の生業はなんじゃな?」
「蚕を飼って絹を織っておりました」
「学のある蚕飼殿じゃなあ。中行という姓というたが、もしやあの晋六卿中行恒子の?」
「末裔だと父は申しますが、さてまことか否か・・」
「・・ついて来い」司馬喜は楼閣の裏の、四、五本の楡の大木の木陰に説をいざなった。 秋、風が心地よい。
「石渠閣の中では大声は出せぬし、この前の超衛のような石頭もおるでなあ。ここが良い。わがお浚いも兼ねての、これからお前に学問を講じたいのじゃが、どうかな」
「え、私に学を授けて下さると・・」
「わが家はそちの家よりいま少し由来が古くての、周の御世、王室の記録を司っていたそうじゃ」
「え、あの堯舜の御世に発する黎の司馬氏で」
「少なくともわが親父殿はそう信じておるのよ。何処も同じじゃな」説は返事に困った。
「恵王の頃は晋にも仕えていたというからの、そちの先祖とわが先祖、意外と知り合いだったかも知れんぞ」そういいながら司馬喜は楡の太い根元に腰をかけた。竹間を足元に置こうとして手を止める。「見ろ、ここに天下の勇士がおる」
  


Posted by 渋柿 at 06:35 | Comments(0)