2009年09月05日
「中行説の桑」6
「ありがとよ。でもまあいつもながら、あんたも匈奴のくせに学があるもんなあ。その様子じゃ鄭の子産の話も知っているんだろ?」
「さあて、どこぞの小国の宰相が大国の上卿に、あなた様の人徳は茂る桑のようですとかなんとか、おべんちゃらで引いたとか引かなかったとか・・所詮耳学問で詳しくは知らないよ。昔は、燕や代の偉い様のお宅にも出入りしててねえ」
「あんた、春秋も齧ってるんだねえ」
「耳学問だっていってるだろ、齧ったなんてもんじゃないよ」
「ふうん」
「お前達、父さんが壷一杯の酪を買ってくださったよ」母が、子供たちの手を濡れた布で拭いながらいった。
説たちは、歓声を上げる。
酪とは、ヨーグルトをさすとか練乳であるとか諸説あるが、この時期塞外民族が漢民族との交易の品としたのは、今でいうバターである。
小屋には、春先や晩秋蚕を暖めるための小さな土の炉がしつらえてある。今も火が入り、掛かった鍋には湯が滾っていた。
「さあ、酪の粥をあげよう」母は、四つの器に燕麦の焦がしを入れて酪を一掬いずつ落とし、湯を注いで子ども達に渡した。
石臼で挽き割りにした燕麦を鍋で炒り焦がしたものは、そのままでも食べられ、熱湯を注ぐと粥になる。忙しいときの説たちの常食だった。 無論、普段は酪など入れることはない。めったにない酪入りの粥は、ほのかな塩味の脂が、腸に染みるほど旨かった。目も回るほどだった空腹感が、消えていった。
酪は岩塩を加えてあるので、春蚕の繭を煮る頃までの保存が効く。
惜しみ惜しみ酪湯を飲み、野菜などを炒めたりもするが、もっぱら繭を煮た後の蚕の蛹を炒めるために入手するのだ。
春蚕の蛹の炒め物は、中行家にとって一番のごちそうだった。
「繭を煮る時は、みんな臭い臭いというくせに」と母は笑いながら、子ども達の何度ものお替りを許したものである。
「旨いかい?小父さんの娘たちがなあ、瓢箪の中に牛の乳入れてな、初めは激しくあとは静かに交替で瓢箪を振って作ったんだ。娘が三人いて助かってるよ」匈奴の男は両手で瓢箪を抱える仕草をし、言葉の通り、激しく次はゆっくり振って見せた。
「さあて、どこぞの小国の宰相が大国の上卿に、あなた様の人徳は茂る桑のようですとかなんとか、おべんちゃらで引いたとか引かなかったとか・・所詮耳学問で詳しくは知らないよ。昔は、燕や代の偉い様のお宅にも出入りしててねえ」
「あんた、春秋も齧ってるんだねえ」
「耳学問だっていってるだろ、齧ったなんてもんじゃないよ」
「ふうん」
「お前達、父さんが壷一杯の酪を買ってくださったよ」母が、子供たちの手を濡れた布で拭いながらいった。
説たちは、歓声を上げる。
酪とは、ヨーグルトをさすとか練乳であるとか諸説あるが、この時期塞外民族が漢民族との交易の品としたのは、今でいうバターである。
小屋には、春先や晩秋蚕を暖めるための小さな土の炉がしつらえてある。今も火が入り、掛かった鍋には湯が滾っていた。
「さあ、酪の粥をあげよう」母は、四つの器に燕麦の焦がしを入れて酪を一掬いずつ落とし、湯を注いで子ども達に渡した。
石臼で挽き割りにした燕麦を鍋で炒り焦がしたものは、そのままでも食べられ、熱湯を注ぐと粥になる。忙しいときの説たちの常食だった。 無論、普段は酪など入れることはない。めったにない酪入りの粥は、ほのかな塩味の脂が、腸に染みるほど旨かった。目も回るほどだった空腹感が、消えていった。
酪は岩塩を加えてあるので、春蚕の繭を煮る頃までの保存が効く。
惜しみ惜しみ酪湯を飲み、野菜などを炒めたりもするが、もっぱら繭を煮た後の蚕の蛹を炒めるために入手するのだ。
春蚕の蛹の炒め物は、中行家にとって一番のごちそうだった。
「繭を煮る時は、みんな臭い臭いというくせに」と母は笑いながら、子ども達の何度ものお替りを許したものである。
「旨いかい?小父さんの娘たちがなあ、瓢箪の中に牛の乳入れてな、初めは激しくあとは静かに交替で瓢箪を振って作ったんだ。娘が三人いて助かってるよ」匈奴の男は両手で瓢箪を抱える仕草をし、言葉の通り、激しく次はゆっくり振って見せた。
Posted by 渋柿 at 18:05 | Comments(0)
2009年09月05日
「中行説の桑」5
「ああ、そいつぁ子供たちに教えたばかりさ。おいお前、隰桑阿たり其の葉妖たり・・て最後まで書いてみろ」父は火箸を長兄に渡した。
「ええ!書けるかなあ」
「間違ったら直してやる」
「はい」長兄は火箸に竈ののススを付け、土間に習ったばかりの「その詩」を書いた。
隰桑有阿、其葉有難、既見君子、其樂如何
隰桑有阿、其葉有沃、既見君子、云何不樂
隰桑有阿、其葉有幽、既見君子、徳音孔膠
心乎愛矣、遐不謂矣、中心藏之、何日忘之
「おお、それそれ。孔子様がいにしえの詩を編まれた中にあるんだってなあ」
(隰桑阿たり其の葉妖たり既に君子を見る 云に何ぞ楽しまざらんや・・)
中行説も、「晋の六卿の末裔」のいわれを持つ家の子として詩経のこの詩は父から講ぜられている。
「隰辺りの桑は美しく、その葉は柔らかにしげる。こうやってあなたに逢えました。どんなに嬉しいか知れません、か・・。この詩みたいに桑も茂る、家も栄える。良かったな、中行さん」
こう続く、詩である。
隰辺りの桑は美しく、その葉はつややかに沃(うるお)う。こうやってあなたに逢えました。どうして喜ばずに居れましょう。
隰辺りの桑は美しく、その葉は小暗く繁っている。こうやって君子にお逢いでき、優しい言葉も聞けました。
心に愛しておりながら、どうしても言葉に言えず、想いを中心に秘したまま、忘れることもないでしょう。
若い娘の切ない恋を歌っている。
酪さんは目を細めて父の肩を叩いた。「完璧じゃないか。賢い息子じゃ」
「ええ!書けるかなあ」
「間違ったら直してやる」
「はい」長兄は火箸に竈ののススを付け、土間に習ったばかりの「その詩」を書いた。
隰桑有阿、其葉有難、既見君子、其樂如何
隰桑有阿、其葉有沃、既見君子、云何不樂
隰桑有阿、其葉有幽、既見君子、徳音孔膠
心乎愛矣、遐不謂矣、中心藏之、何日忘之
「おお、それそれ。孔子様がいにしえの詩を編まれた中にあるんだってなあ」
(隰桑阿たり其の葉妖たり既に君子を見る 云に何ぞ楽しまざらんや・・)
中行説も、「晋の六卿の末裔」のいわれを持つ家の子として詩経のこの詩は父から講ぜられている。
「隰辺りの桑は美しく、その葉は柔らかにしげる。こうやってあなたに逢えました。どんなに嬉しいか知れません、か・・。この詩みたいに桑も茂る、家も栄える。良かったな、中行さん」
こう続く、詩である。
隰辺りの桑は美しく、その葉はつややかに沃(うるお)う。こうやってあなたに逢えました。どうして喜ばずに居れましょう。
隰辺りの桑は美しく、その葉は小暗く繁っている。こうやって君子にお逢いでき、優しい言葉も聞けました。
心に愛しておりながら、どうしても言葉に言えず、想いを中心に秘したまま、忘れることもないでしょう。
若い娘の切ない恋を歌っている。
酪さんは目を細めて父の肩を叩いた。「完璧じゃないか。賢い息子じゃ」
Posted by 渋柿 at 07:39 | Comments(0)