2009年09月29日
「中行説の桑」39
「よかったですね、中行説」嫣然と微笑み、公主も羹を啜った。
ひとしきり一座に焙り肉と羹がすすみ、また人によっては馬乳酒の微醺(びくん)も回る。
(大丈夫か)説は時々、公主横顔を見た。
手拍子で、家来達が匈奴の歌を歌っている。何かもの悲しい調べであった。楽しそうに頷きながらも、やはり公主はひそやかに息を吐いている。
(自分からは、絶対に疲れたなどといわぬ姫じゃが)豺の上の軍臣も、時折心配そうに公主を見ていることに、中行説は気づいた。公主の体調が良くないのは、間違いなかった。
「我々は祁連山を得た。祁連山には紅の花が咲いている。さあ紅を作ろう、祁連山の紅だ。女達よ、その頬を紅く染めよう。我々は祁連山を得たのだ」軍臣が、歌の意味を訳した。
祁連山。先代冒頓単于が月氏から奪い、勢力圏に入れた西の山である。
「祁連山の紅でその頬を染めよう」とは、遥々嫁いで来た公主への、歓迎の歌であった。
歌は数回繰り返され、唐突に終った。軍臣がまた声を発した。「承知いたしました」というように叩頭した家来達は、また焚き火の周りに兎肉の串をぐるりと並べた。次々に肉が焼き上がる。それから、家来達は公主と軍臣に深々と叩頭した。山盛りの焙り肉を牛の皮に包み、家来達はぞろぞろと漢の天幕の方に去っていった。
「太子、何をお命じに?」
「いや・・漠縁の旅、漢の兵もさぞや倹(つま)しい食糧で耐えてきたであろうしなあ。公主様と中行説ばかりに肉を振舞うのもどうか、と。あっ、侍女にも分けるようにいっておる。三人であったな」
「はい、忝く」
(そういえばこの数日、引き割り燕麦の焦がしと干菜の羹ばかりだった)
「道案内役の五人ほどは、匈奴の言葉が判ります。あちらにても久々の宴でございます」中行説は、深く叩頭した。
「お心遣いありがとうございます」雪豹の上の公主も拱手する。
「はいそれに酒も少々。いえ、心配は要りませぬ。一人に一杯以上は勧めぬようきつく申してきました」
「それはよろしゅうございました。皆が今朝の中行説のようになったら大変ですもの」
「公主様、もう勘弁してくださいませ。二度と悪酔いはいたしませぬ」
冷や汗が流れる。
「公主様、私が中行説に強いたのです。夜中になにやら怪しげなものを埋めておりましたので」軍臣がとりなした。
「それを見咎められたのですね」
ひとしきり一座に焙り肉と羹がすすみ、また人によっては馬乳酒の微醺(びくん)も回る。
(大丈夫か)説は時々、公主横顔を見た。
手拍子で、家来達が匈奴の歌を歌っている。何かもの悲しい調べであった。楽しそうに頷きながらも、やはり公主はひそやかに息を吐いている。
(自分からは、絶対に疲れたなどといわぬ姫じゃが)豺の上の軍臣も、時折心配そうに公主を見ていることに、中行説は気づいた。公主の体調が良くないのは、間違いなかった。
「我々は祁連山を得た。祁連山には紅の花が咲いている。さあ紅を作ろう、祁連山の紅だ。女達よ、その頬を紅く染めよう。我々は祁連山を得たのだ」軍臣が、歌の意味を訳した。
祁連山。先代冒頓単于が月氏から奪い、勢力圏に入れた西の山である。
「祁連山の紅でその頬を染めよう」とは、遥々嫁いで来た公主への、歓迎の歌であった。
歌は数回繰り返され、唐突に終った。軍臣がまた声を発した。「承知いたしました」というように叩頭した家来達は、また焚き火の周りに兎肉の串をぐるりと並べた。次々に肉が焼き上がる。それから、家来達は公主と軍臣に深々と叩頭した。山盛りの焙り肉を牛の皮に包み、家来達はぞろぞろと漢の天幕の方に去っていった。
「太子、何をお命じに?」
「いや・・漠縁の旅、漢の兵もさぞや倹(つま)しい食糧で耐えてきたであろうしなあ。公主様と中行説ばかりに肉を振舞うのもどうか、と。あっ、侍女にも分けるようにいっておる。三人であったな」
「はい、忝く」
(そういえばこの数日、引き割り燕麦の焦がしと干菜の羹ばかりだった)
「道案内役の五人ほどは、匈奴の言葉が判ります。あちらにても久々の宴でございます」中行説は、深く叩頭した。
「お心遣いありがとうございます」雪豹の上の公主も拱手する。
「はいそれに酒も少々。いえ、心配は要りませぬ。一人に一杯以上は勧めぬようきつく申してきました」
「それはよろしゅうございました。皆が今朝の中行説のようになったら大変ですもの」
「公主様、もう勘弁してくださいませ。二度と悪酔いはいたしませぬ」
冷や汗が流れる。
「公主様、私が中行説に強いたのです。夜中になにやら怪しげなものを埋めておりましたので」軍臣がとりなした。
「それを見咎められたのですね」
Posted by 渋柿 at 17:47 | Comments(0)
2009年09月29日
「中行説の桑」38
「なにをお話です?」
「いえ、この者は昨夜の馬乳酒が効きすぎて、肉が食えぬのだ、と申しました」
「昨夜は説がご迷惑をお掛けしました。太子も一緒に聞こし召されたとか。お障りはなかったのでしょうか」
「はい、私は一口二口舐めただけで・・皮袋いっぱいの酒はすべて、中行説に飲まれてしまいました」
「まあ」公主は説を軽くにらんだ。
「申し訳もござりませぬ。この者根は小心なのですが・・」
「小心?いやいや大分大胆なことを申しましたぞ」
「中行説が大胆とは・・どのような」
「太子!」哀願の声で説はさえぎったが、軍臣はニヤリと笑って続けた。
「匈奴の乳や酪や肉に毛皮は、漢の食物や絹よりこの地に適しずっとすぐれておる、と」
「まあ」
「漢の一郡に及ばぬ人数で漢を兄事させているのは匈奴の衣食を堅持しているからだ、となあ・・大変な鼻息でした」
それから、家来達にまた匈奴の言葉で話しかけた。今の内容の翻訳らしい。家来達は歓声を上げて立ち上がった。次々に説に近付いて手を握り、肩を叩く。漢の宮廷から来た宦官が匈奴の衣食と暮らしを褒めたのが、よほど意外でもあり、また嬉しかったのであろう。
手に手に皮袋を持って説と乾杯しようとする。
(冗談ではない)
軍臣が、
「この者は二日酔いで苦しんでおるのだぞ」というふうに身振りを交えて執成し、やっと説は大量の献杯を免れた。
「呆れました」
「いえいえ公主様、まこと得がたい言葉。父単于に、この中行説の言葉を漠北だけでなく全匈奴に布告するよう勧めまする。和蕃公主の傳役、燕人中行説の助言として」
「もうご勘弁ください。弄らないでくださいませ」
「弄ってははおらぬ」
確かに、軍臣は宴席の座興で済まさなかった。数ヵ月後老上単于は本当に、右の触れを「匈奴大単于」として、また「漢の宦官中行説の助言により」布告することとなる。
泣きそうになった説の前に、湯気の立つ羹の器が置かれた。持ってきた男は、しきりに話しかけている。
「羹は最初にそなたが手を付けて欲しい、と申しておる。そなたとなら仲間になれそうじゃ、と。公主、かまいませぬな」
「もちろんです。中行説、折角のお志です。いただきなさい」
「はい・・」
おずおず、説が器に口を付けると、家来達が一斉に手を叩いた。それから、大鍋の羹は、公主、軍臣の前にも置かれ、家来達もめいめい自分の碗を持った。
「いえ、この者は昨夜の馬乳酒が効きすぎて、肉が食えぬのだ、と申しました」
「昨夜は説がご迷惑をお掛けしました。太子も一緒に聞こし召されたとか。お障りはなかったのでしょうか」
「はい、私は一口二口舐めただけで・・皮袋いっぱいの酒はすべて、中行説に飲まれてしまいました」
「まあ」公主は説を軽くにらんだ。
「申し訳もござりませぬ。この者根は小心なのですが・・」
「小心?いやいや大分大胆なことを申しましたぞ」
「中行説が大胆とは・・どのような」
「太子!」哀願の声で説はさえぎったが、軍臣はニヤリと笑って続けた。
「匈奴の乳や酪や肉に毛皮は、漢の食物や絹よりこの地に適しずっとすぐれておる、と」
「まあ」
「漢の一郡に及ばぬ人数で漢を兄事させているのは匈奴の衣食を堅持しているからだ、となあ・・大変な鼻息でした」
それから、家来達にまた匈奴の言葉で話しかけた。今の内容の翻訳らしい。家来達は歓声を上げて立ち上がった。次々に説に近付いて手を握り、肩を叩く。漢の宮廷から来た宦官が匈奴の衣食と暮らしを褒めたのが、よほど意外でもあり、また嬉しかったのであろう。
手に手に皮袋を持って説と乾杯しようとする。
(冗談ではない)
軍臣が、
「この者は二日酔いで苦しんでおるのだぞ」というふうに身振りを交えて執成し、やっと説は大量の献杯を免れた。
「呆れました」
「いえいえ公主様、まこと得がたい言葉。父単于に、この中行説の言葉を漠北だけでなく全匈奴に布告するよう勧めまする。和蕃公主の傳役、燕人中行説の助言として」
「もうご勘弁ください。弄らないでくださいませ」
「弄ってははおらぬ」
確かに、軍臣は宴席の座興で済まさなかった。数ヵ月後老上単于は本当に、右の触れを「匈奴大単于」として、また「漢の宦官中行説の助言により」布告することとなる。
泣きそうになった説の前に、湯気の立つ羹の器が置かれた。持ってきた男は、しきりに話しかけている。
「羹は最初にそなたが手を付けて欲しい、と申しておる。そなたとなら仲間になれそうじゃ、と。公主、かまいませぬな」
「もちろんです。中行説、折角のお志です。いただきなさい」
「はい・・」
おずおず、説が器に口を付けると、家来達が一斉に手を叩いた。それから、大鍋の羹は、公主、軍臣の前にも置かれ、家来達もめいめい自分の碗を持った。
Posted by 渋柿 at 07:58 | Comments(0)