2009年09月22日
「中行説の桑」26
それからしばらく、中行説は公主の旅立ちの準備に忙しかった。
「中行説ではないか」 匈奴の衣食習俗の確認のため、石渠閣でその関係の記録を調べていた説は、突然頭上から声を掛けられて飛び上がった。
宦官として皇帝にも近侍する身分となっている。ここで記録を閲覧しても誰も咎めなどしないはずであったが、はじめてここに来た日に受けた屈辱と衝撃は、忘れることなく心に刻まれてしまっている。
「これは司馬喜様」幼年の説に学問の手ほどきをしてくれた史官であった。十に少し足らぬほどの男の子を連れている。
「久しぶりじゃなあ」
「はい」
互いに畑違いの仕事である。あれから、何かの折に姿を見ることはあってもゆっくり語る暇もなく時が過ぎている。
「匈奴に行くことに成ったとなあ」
「陛下のご命令でございますれば」説はただそういった。詳しく話せば公主や張沢、ひいては皇帝にも差しさわりがある。
「匈奴関係の記録か」司馬喜は説が読んでいる竹簡を覗き込んだ。
「相変わらず真面目じゃのう。まあ、どのような境遇になっても学ぶこころざしを失わなければ道は続こうで・・挫けるなよ」
「はい」
「父上、このお方は?」喜に寄り添った少年が聞いた。説は少年に向き直った。
「ご子息ですな。後宮に仕えております中行説と申します。昔、お父上に学問の手ほどきを受けました」
「これは申し遅れました。司馬喜の長子、談と申します。宜しくお願いいたします」少年は行儀よく挨拶し、拱手した。
「痛み入ります」節も拱手を返す。
「司馬喜様、今日はご子息にご教授ですか」
「おう、調度沐休でなあ」
「お約束でございます。今日は詩経をみっちり教えてくださいませ」
少年が、甘えたように父にいう。
「よしよし。・・説、出立の前に暇があれば、我が屋敷に訪ねてくるがよい。我が家の桑も、もうはつ夏には実を結ぶようになったぞ」
「桑?」
「ほれ、談が生れたときに庭に植えた桑の木よ。桑葉湯なら、いつでも馳走できる」
「・・ありがとうございます」
「では」
「失礼いたします」
説が子供の頃してくれたように、これから文献を借り出して、楡の木陰ででも息子に読んでやるのだろう。寂しい微笑を浮かべて、説は父子の後姿を見送った。
(子にせがまれて詩を講じる、か)そのような幸せは、説には無縁であった。(申し訳ないが、お屋敷にはお伺いせず・・出立しよう)
説はまた文献に目を落とした。
「中行説ではないか」 匈奴の衣食習俗の確認のため、石渠閣でその関係の記録を調べていた説は、突然頭上から声を掛けられて飛び上がった。
宦官として皇帝にも近侍する身分となっている。ここで記録を閲覧しても誰も咎めなどしないはずであったが、はじめてここに来た日に受けた屈辱と衝撃は、忘れることなく心に刻まれてしまっている。
「これは司馬喜様」幼年の説に学問の手ほどきをしてくれた史官であった。十に少し足らぬほどの男の子を連れている。
「久しぶりじゃなあ」
「はい」
互いに畑違いの仕事である。あれから、何かの折に姿を見ることはあってもゆっくり語る暇もなく時が過ぎている。
「匈奴に行くことに成ったとなあ」
「陛下のご命令でございますれば」説はただそういった。詳しく話せば公主や張沢、ひいては皇帝にも差しさわりがある。
「匈奴関係の記録か」司馬喜は説が読んでいる竹簡を覗き込んだ。
「相変わらず真面目じゃのう。まあ、どのような境遇になっても学ぶこころざしを失わなければ道は続こうで・・挫けるなよ」
「はい」
「父上、このお方は?」喜に寄り添った少年が聞いた。説は少年に向き直った。
「ご子息ですな。後宮に仕えております中行説と申します。昔、お父上に学問の手ほどきを受けました」
「これは申し遅れました。司馬喜の長子、談と申します。宜しくお願いいたします」少年は行儀よく挨拶し、拱手した。
「痛み入ります」節も拱手を返す。
「司馬喜様、今日はご子息にご教授ですか」
「おう、調度沐休でなあ」
「お約束でございます。今日は詩経をみっちり教えてくださいませ」
少年が、甘えたように父にいう。
「よしよし。・・説、出立の前に暇があれば、我が屋敷に訪ねてくるがよい。我が家の桑も、もうはつ夏には実を結ぶようになったぞ」
「桑?」
「ほれ、談が生れたときに庭に植えた桑の木よ。桑葉湯なら、いつでも馳走できる」
「・・ありがとうございます」
「では」
「失礼いたします」
説が子供の頃してくれたように、これから文献を借り出して、楡の木陰ででも息子に読んでやるのだろう。寂しい微笑を浮かべて、説は父子の後姿を見送った。
(子にせがまれて詩を講じる、か)そのような幸せは、説には無縁であった。(申し訳ないが、お屋敷にはお伺いせず・・出立しよう)
説はまた文献に目を落とした。
Posted by 渋柿 at 17:54 | Comments(0)