2015年06月23日

鯰酔虎伝 16

 あのなあ、こんな時は【芸に】惚れたっていうんだ、【左京師匠の芸に】惚れたって。  

左京には熱烈な女性ファンも多かった。かみさん一筋朴念仁のあいつ、寄席でネタになる様な艶聞なんて何も起こさなかったけどさ。

「最初にお願いした時は、女に噺家は無理だぜってにべもなくて・・でも諦め切れませんでした。左京師匠が駄目でもって、色んな師匠に弟子入り志願しました」

 だけど三年かけても全部駄目・・諦めて田舎に帰ろうかって思ってた頃聞いたのが、扇亭の余一会の左京さんの鼠穴でした、という。

「あの、復帰第一声っていってた夢落ちかい」
 
 その年の四月下席でトリを勤めている最中、突然倒れ、声が出なくなった左京。数か月の入院の末やっと回復しましたと寄席に戻って来た時、すでに癌は末期の状態だったらしい。

「二月までは、定席に通しで出てらっしゃいました。・・もう一日おき、通い詰めました」

 木戸銭二千五百円、捻り出すなあ苦労したろうが、それだけの値打ちはあった。ありゃあ、燃え尽きる前の・・煌めきだったんだ。

「新年の帝立劇場の厩火事と二月の台東座浜野矩随、行きたかったけど・・」

 高過ぎたんだろ。あそこで独演会演れるのは、ごく限られたエリートだけだからなあ。

「ホール落語でたっぷり演るなあ・・あいつの真骨頂だった」

 贔屓や俺達見事に騙し通して、左京再起と大喜びさせやがった。

「三月のラジオ真打競演、猫の皿。お声が暗くてびっくりしましたけど・・お見事でした、情景描写とか。豊島の余一会で聞いた井戸の茶碗なんて、涙が止まらなかった」

 そう、あいつはその早過ぎる晩年、人情噺に神懸った凄味を見せていた。

「四月中席七日目です、京治師匠のトリ聞きに行ったら、プログラムに載ってない左京さんが中トリで・・」

「若手の・・代バネだったそうだな」

 それが、左京の最後の高座になっちまった。

 寄席は修行の場、噺家はその割り(出演料)だけで喰えず、特に土日は落語会や営業で稼ぐ。寄席の芝居は十日で一公演だが、その途中急病や儲け仕事で空いた穴を、同格の噺家が埋める。それが代バネともいう代演制度だ。

「六尺棒でした」

「知ってるよ」

 親父の京の輔にも負けない大看板の長楽亭京治が・・左京が心酔して師事した師匠が、兜脱いだ高座だったって事も、な。

「声は、今思えば暗くて低かった。でも能天気な馬鹿息子と大甘の頑固親父、抑揚だけで演じ分けてた」

「大甘の頑固親父、ねえ。あいつぁ親父さんの猛反対押し切って噺家んなったからなあ」

 最後のネタあれにしたのは、判る気がする。

「しまいに折れる父親の姿、泣けました。だから、また出待ちしました。お願いです、弟子にしてください、って」

 豊島演芸場は、都内四か所の落語定席の一つだが、一番の格下。客と芸人の出入り口は同じで、熱心なファンはそこで贔屓の芸人を待って祝儀を渡したりサインを貰ったりする。

「タクシーに乗るとこ、声かけました。左京師匠、私を覚えていて下さいました」

「そうかい」

「で、左京師匠みたいになりたい、この三年色んな師匠方に頭下げてたっていいました」
「それで?」

「左京師匠、暫く考えてらっしゃいました。で、溜息吐いて・・それだけ落語が好きなら弟子にしてやりたいのはやまやまだけど、無理なんだ、すまねえなって・・」

 四十五歳の若さで死ぬ、十日前だ。高座で力を使い果たし、立ってるのもやっとだったろう。車のドアに手をつき、肩で息をしながら苦笑している左京の姿が・・見える。





Posted by 渋柿 at 21:36 | Comments(0)
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