2014年12月16日
12月16日の記事
84歳の母と有田町白川の錦秋彩る有田ダムを訪れました。母は、背後の黒髪山天童岩と、水辺に突き出す通称ひょうたん島の位置を確認します。「ここよ」。山水画のうな景色の中、彫刻の乙女が佇む辺りから、湖水を指さしました。手にした古いアルバムには、坊主頭の男の子やもんぺの女の子たち。昭和31年、有田小学校に勤めていた母の、飯盒はんごう炊爨すいさんのスナップです。当時黒髪山から流れる川はひょうたん島の岩を巡り、白川の集落へと注いでいたそうです。
青磁の色の湖水は曾て盆地状の広場で、鎮西八郎為朝が大蛇退治の策を練ったという伝説から「評定場」と呼ばれ、昭和15年頃には雑木を払うなど整備もなされて、冬には雪合戦、子供たちの格好の遊び場でした。
「ご飯の出来具合や火の始末に神経使ったけど、子供たちは喜んだねえ」
今は、ダムを巡る道に掛かる橋の一つに残る「評定橋」の名と、陶板の「為朝大蛇退治伝説」碑だけが、昔を偲ぶよすがです。昭和28年の大水害を期に計画された多目的ダムが35年に竣工、評定場も、湖底に沈みました。
「もう、この子たちも70ねぇ」母が呟きました。
青磁の色の湖水は曾て盆地状の広場で、鎮西八郎為朝が大蛇退治の策を練ったという伝説から「評定場」と呼ばれ、昭和15年頃には雑木を払うなど整備もなされて、冬には雪合戦、子供たちの格好の遊び場でした。
「ご飯の出来具合や火の始末に神経使ったけど、子供たちは喜んだねえ」
今は、ダムを巡る道に掛かる橋の一つに残る「評定橋」の名と、陶板の「為朝大蛇退治伝説」碑だけが、昔を偲ぶよすがです。昭和28年の大水害を期に計画された多目的ダムが35年に竣工、評定場も、湖底に沈みました。
「もう、この子たちも70ねぇ」母が呟きました。
Posted by 渋柿 at 14:29 | Comments(0)