2009年09月23日
「中行説の桑」28
まず一行は黄河を上流へと北上し長城に至った。そこには塞(とりで)の長官が、新しい馬車や馬、輜重糧秣を用意していた。ここで公主以下、兵士侍女も所持品を含めた身体検査を受けた。無論、公主や侍女を調べるためには、長城近くの住民の妻を待機させている。
「規則でございますれば・・」長官は、気の毒そうにいって、兵や女達をそれぞれの天幕にいざなった。
かなり入念な調べだったが、公主の被り物の中身は、無事のまま、長城を越えることができた。
「この辺りが、秦の世のころ蒙恬将軍が匈奴から奪った地ですね」公主は、馬車の幌の内から中行説に話しかけた。
「はい。秦は匈奴との戦いに国力を消耗して滅びたとも申せますなあ。昔は長城がもっと北を走っていたそうでございます」
「秦の太子が弟に謀られて自害したのも、ここでしたなあ」
この旅の途次、徒然の故か公主はよく説に話しかける。通過する土地について、驚くほど知悉していることに、説は舌を巻いた。 さらに北上を続け、黄河が「几」の字型に大きく湾曲するところで、浅瀬を選び河を渡った。ここまで来るのに十日を要している。
(蚕種は、大丈夫であろうか)中行説は気が気ではない。
護衛の兵士たちは夕暮れには天幕を張り、自炊する。公主の食事は三人の侍女が炊ぎ、説が運んだ。
公主の馬車の幌の内に入ることが許されているのは、説だけだった。公主は馬車の中で食事をし、また眠った。
侍女達も夜は兵士が用意した天幕で休む。説はその天幕で一緒に眠ることもあったが、たいがい馬車の傍らで焚き火をしながら夜を明かした。
長城を越え、三日ほどは路傍に小さい流れや泉もあり、薊(あざみ)に似た花や御柳(タマリスク)も生えていた。苜蓿(うまごやし)が柔らかく茂る場所もあった。
(これなら、桑も育つかもしれぬ)と、中行説はひそかに安堵した。しかし、それは早計であった。
三日目からいよいよ、石と砂の世界に入った。の夕方、道案内の長が「明日より砂漠の縁を進むことになります」といい、宿営地のそばの泉から水瓶や皮袋に水を満たし始めた。
「これより先、泉は当分ございません。皮袋は兵一人一人、自分の馬に積みまするが、大瓶は馬車に積みます」
すでに荷車には昨夜の宿営地で集めた薪が秣と共に積まれている。侍女達も馬車を水瓶に明け渡し、ここからは替え馬に乗ることとなる。
泉に水を飲みに来ていたらしい羚(かもしか)が時ならぬ人馬のざわめきに驚いたのか、荒野へ駆け去って行った。
「中行説、卵の色が変なのです」水汲みでやや遅くなった夕食を捧げて公主の馬車の幌の内に入ると、公主が自分の被り物を脱ぎながらいった。
詰め物の真綿の中に、絹に包んだ蚕種と桑の種が潜めてある。公主の指が真綿を抜き、絹を開く。長安を出たときは黄色かった卵は、鮮やかな紅色に変わっていた。
「卵が、目覚めたのです」
「規則でございますれば・・」長官は、気の毒そうにいって、兵や女達をそれぞれの天幕にいざなった。
かなり入念な調べだったが、公主の被り物の中身は、無事のまま、長城を越えることができた。
「この辺りが、秦の世のころ蒙恬将軍が匈奴から奪った地ですね」公主は、馬車の幌の内から中行説に話しかけた。
「はい。秦は匈奴との戦いに国力を消耗して滅びたとも申せますなあ。昔は長城がもっと北を走っていたそうでございます」
「秦の太子が弟に謀られて自害したのも、ここでしたなあ」
この旅の途次、徒然の故か公主はよく説に話しかける。通過する土地について、驚くほど知悉していることに、説は舌を巻いた。 さらに北上を続け、黄河が「几」の字型に大きく湾曲するところで、浅瀬を選び河を渡った。ここまで来るのに十日を要している。
(蚕種は、大丈夫であろうか)中行説は気が気ではない。
護衛の兵士たちは夕暮れには天幕を張り、自炊する。公主の食事は三人の侍女が炊ぎ、説が運んだ。
公主の馬車の幌の内に入ることが許されているのは、説だけだった。公主は馬車の中で食事をし、また眠った。
侍女達も夜は兵士が用意した天幕で休む。説はその天幕で一緒に眠ることもあったが、たいがい馬車の傍らで焚き火をしながら夜を明かした。
長城を越え、三日ほどは路傍に小さい流れや泉もあり、薊(あざみ)に似た花や御柳(タマリスク)も生えていた。苜蓿(うまごやし)が柔らかく茂る場所もあった。
(これなら、桑も育つかもしれぬ)と、中行説はひそかに安堵した。しかし、それは早計であった。
三日目からいよいよ、石と砂の世界に入った。の夕方、道案内の長が「明日より砂漠の縁を進むことになります」といい、宿営地のそばの泉から水瓶や皮袋に水を満たし始めた。
「これより先、泉は当分ございません。皮袋は兵一人一人、自分の馬に積みまするが、大瓶は馬車に積みます」
すでに荷車には昨夜の宿営地で集めた薪が秣と共に積まれている。侍女達も馬車を水瓶に明け渡し、ここからは替え馬に乗ることとなる。
泉に水を飲みに来ていたらしい羚(かもしか)が時ならぬ人馬のざわめきに驚いたのか、荒野へ駆け去って行った。
「中行説、卵の色が変なのです」水汲みでやや遅くなった夕食を捧げて公主の馬車の幌の内に入ると、公主が自分の被り物を脱ぎながらいった。
詰め物の真綿の中に、絹に包んだ蚕種と桑の種が潜めてある。公主の指が真綿を抜き、絹を開く。長安を出たときは黄色かった卵は、鮮やかな紅色に変わっていた。
「卵が、目覚めたのです」
Posted by 渋柿 at 16:40 | Comments(0)
2009年09月23日
「中行説の桑」27
三
先代、冒頓単于が匈奴の版図を最大にしていた。現在のモンゴル共和国をすっぽりと包み、東南は漢の長城に肉薄している。そして北はロシア領バイカル湖、西はカザフスタン領バルハシ湖をさらに越えて、その勢力を伸ばしていた。和蕃公主が嫁ぐべき老上単于の本拠地は、数千里の彼方の漠北・・ゴビ砂漠を突っ切ったその向こうである。
清明節の日、未央宮の正殿に文武百官が居並ぶ前で、文帝は公主の両耳に手ずから翡翠の耳飾りを着けた。餞(はなむけ)である。公主は跪いて暇を乞い、輿入れの一行は長安を出発した。何度も皇帝の使者を護衛して獏北に赴いた将五騎が、道案内として先導する。幌を掛けた公主の馬車の前後を、五十人の騎兵が守護し、三人の侍女が乗る無蓋の馬車が従った。最後尾は輜重を積んだ荷車が二十輌続く。中行説も騎馬で、公主の馬車の脇にぴたりと寄り添った。
驚くべきことであった。何とおしのび、窶した騎乗姿で、皇帝は花嫁行列を渭水のほとりまで見送ったのだ。
「道中、無事を祈っておる」
河畔の柳は清明の季を違えず、柔らかく萌え初めていた。文帝は馬上その枝を折り、馬車を降りて跪いた公主にそのまま渡した。
「陛下」公主は帽子の上の巾角(ベール)を脱ぎ、その上に折柳を受けた。
折柳。旅人の無事を祈る習いのものである。通常は丸く環にして渡す。「環」は、「還」に通ずる。無事に還れとの意である。異郷に嫁ぐ公主には、永遠に「還る」日はない。枝のままの折柳を渡すしかないのだ。
中行説は進み出、公主から折柳を受けて拝し、公主の馬車の幌にかざした。そして、公主の帽子を再び巾角で覆った。この帽子の内に、蚕種と桑の種を潜ませていることは、公主と中行説だけがしか知らぬ。
「参ります」
公主はもう一度深く皇帝を拝し、馬車に乗った。
「うむ」
輿入れのためだけに作られた仮橋を、花嫁行列は渡る。渡りきって振り返ると、騎乗の文帝の姿は小さくなってなお対岸にあった。
先代、冒頓単于が匈奴の版図を最大にしていた。現在のモンゴル共和国をすっぽりと包み、東南は漢の長城に肉薄している。そして北はロシア領バイカル湖、西はカザフスタン領バルハシ湖をさらに越えて、その勢力を伸ばしていた。和蕃公主が嫁ぐべき老上単于の本拠地は、数千里の彼方の漠北・・ゴビ砂漠を突っ切ったその向こうである。
清明節の日、未央宮の正殿に文武百官が居並ぶ前で、文帝は公主の両耳に手ずから翡翠の耳飾りを着けた。餞(はなむけ)である。公主は跪いて暇を乞い、輿入れの一行は長安を出発した。何度も皇帝の使者を護衛して獏北に赴いた将五騎が、道案内として先導する。幌を掛けた公主の馬車の前後を、五十人の騎兵が守護し、三人の侍女が乗る無蓋の馬車が従った。最後尾は輜重を積んだ荷車が二十輌続く。中行説も騎馬で、公主の馬車の脇にぴたりと寄り添った。
驚くべきことであった。何とおしのび、窶した騎乗姿で、皇帝は花嫁行列を渭水のほとりまで見送ったのだ。
「道中、無事を祈っておる」
河畔の柳は清明の季を違えず、柔らかく萌え初めていた。文帝は馬上その枝を折り、馬車を降りて跪いた公主にそのまま渡した。
「陛下」公主は帽子の上の巾角(ベール)を脱ぎ、その上に折柳を受けた。
折柳。旅人の無事を祈る習いのものである。通常は丸く環にして渡す。「環」は、「還」に通ずる。無事に還れとの意である。異郷に嫁ぐ公主には、永遠に「還る」日はない。枝のままの折柳を渡すしかないのだ。
中行説は進み出、公主から折柳を受けて拝し、公主の馬車の幌にかざした。そして、公主の帽子を再び巾角で覆った。この帽子の内に、蚕種と桑の種を潜ませていることは、公主と中行説だけがしか知らぬ。
「参ります」
公主はもう一度深く皇帝を拝し、馬車に乗った。
「うむ」
輿入れのためだけに作られた仮橋を、花嫁行列は渡る。渡りきって振り返ると、騎乗の文帝の姿は小さくなってなお対岸にあった。
Posted by 渋柿 at 07:11 | Comments(0)