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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2008年08月31日

それでも小説を…

 実際に見たことはない。昔、作家を志して上京した人は、アルバイトでかつかつの生活費を稼ぎながら、唐草の風呂敷の原稿をになって出版社をめぐった。原稿を持ち込んでも辛らつな批評、それどころかずっと放置されて読んでももらえないことも。何か悲壮なこの原稿持ち込みが、神田の出版社街の日常の風景だったという。
 今はITがある。実は私も、時空随意の持ち込みをやっているところ。出版社のアポを取った上で、風呂敷の代わりにメールに添付して。故郷にいても、昔の御茶ノ水・三畳一間の悲壮感の…気分だけは味わえる。
 厳しい批評や放置、最悪の場合クリックミスで原稿が削除されてしまうなどの覚悟がいるのは昔と変わらない。また、出版社も商売、売れぬ本は出さない。歯に衣着せぬ鋭い批評(というより批判)にへこむことが多いが、プロの指摘は的確。打たれ強くさえなれば、カルチャースクールなどのような費用もかからず、身につく文章修業ができる。(…そう、自分を叱咤している)
 ハードルは高い。むなしく原稿持ち込みを繰り返すだけの者から見れば、出版社=編集者とは難攻不落の砦。そこを攻略して出版にこぎ着ければ、大願成就と思っていた。ところが…
 某出版社の営業の方のブログを見て噴き出した。複数の取引先の書店から「仕入れたはずのないおたくの本が、うちの棚に」という連絡。調べてみると出版はしたが売れず、店頭販売を打ち切られた著者が「万置き」…そっと自分の本を店に置き去っていたという。万引の反対の行為だからそう呼ぶらしい。
 笑った後、悲しくなった。万置きをした方の気持ちが、わかる。「何か」にとりつかれた果て、…万置きも、そのかみの唐草の風呂敷も、そして添付ファイルの私も…悲しい姿に見える。
 それでも小説を書いている。
(2006年2月、佐賀新聞手鏡欄掲載文です)  


Posted by 渋柿 at 11:53 | Comments(3)

2008年08月29日

紡ぎ織っていたころ

 綿の木には、オクラに似た美しい花が咲いたそうです。桑の熟した実は、甘酸っぱかったそうです。
 めっきり涼しくなりました。義母が、綿や桑の木を植えていたころの思い出話をしてくれました。
 綿を採りいれ、綿繰り機で種を除いて、布団綿を作るのが秋、綿はもっぱらその用途に使いました。布団綿を包む真綿は、庭の桑の葉で飼った蚕の繭の、形がいびつで糸繰りに向かないもので作ります。
 義母が嫁ぐころまで、国見の山すそ、旧大山村の里では、繭を糸に紡ぎ機を織り、着物に仕立てていたそうです。染めだけは難しいので、里でまとめて京都の染物屋さんに頼みました。
 型染めで、端切れの見本で注文します。それぞれの好みや年齢で、大島紬のように渋い色調や、友禅のような華やかな柄
などを選び、どのように仕上がるか染め上がってくるまでわくわくして待ったそうです。
 義母は今、その着物の幾つかを、ベストやスカートに作り直して着ています。
 紡ぎ織っていたその「母への想い」が、伝わってくるようです。
  


Posted by 渋柿 at 16:16 | Comments(0)

2008年08月27日

 伊万里の愚痴聞き地蔵様

 
 伊万里市上黒尾町、市街地から延命橋を渡った辺りには、延命地蔵尊が鎮座し、橋の名の由来にもなっています。「『これは、そこの地蔵さんば連れてこらしたとですか』てよう聞かれます」そう笑う、延命橋たもとの吉富美和子さんのお宅の玄関先に、去年三月「愚痴聞き地蔵」様が建立されました。
 様々な悩みを抱えている方の「ぐち」を耳に手を当て身を乗り出して聞く、ユーモラスなお姿です。前に石の椅子も用意され、じっくり腰掛けて聞いていただけます。ちょっと、クライアントを前にしたカウンセラーを思わせます。  
「一昨年十一月、NHKで放送された、名古屋の桂芳院の『愚痴聞き地蔵物語』を見て思い立ちました」と、吉富さん。ご近所の、九十九歳になる力武ツマさんと、同じお地蔵様を建立しました。
「これはいい。お願いをしておすがりする仏様ではなく、ただぐちを聞いてくださるお地蔵様があってもいいのではないか」と思われたそうです。
 お地蔵様ながら、どこか羅漢さんのように、人間くさく親しみやすいお姿です。ぐちきき地蔵様は、初秋の日差しの中、今日もぐちに耳を傾けていらっしゃいます。
「いつでも、いすに座ってお地蔵さんの前で、ほっと一息ついてください」とのことでした。
  


Posted by 渋柿 at 14:32 | Comments(4)

2008年08月26日

「五足の靴」と伊万里

五足の靴は、与謝野寛が、太田正雄、北原白秋、平野万里、吉井勇の4人を連れて旅した記録で、1907年に発表されました。

前旅程略
8月3日 佐賀城跡を一周佐賀泊。
8月4日 虹の松原見物。 文芸会。
8月5日佐世保へ向かう。 伊万里で鉄道馬車から鉄道へ乗り換え、列車待ち時間、伊万里川畔の委託郵便局(現冨田お茶屋)で私信投函。
後旅程略

五足の靴は、柳川、唐津、長崎、天草がよく知られています。唐津から佐世保までの途中下車、
伊万里にもこんな足跡を残していました。
 (お茶屋の方にうかがった話です)
  


Posted by 渋柿 at 09:06 | Comments(8)

2008年08月25日

大里八幡


伊万里市二里町大里の鎮守・神之原神社(通称大里八幡)。参道を辿ればまず、ケヤキの大木が六本見事な樹形を見せ、境内には、クスノキ、アラカシなどが神社の景観を作っています。
中でも木口(きくち)池と呼ばれる水辺のウラジロガシは、樹齢二百年の大樹です。
 大木群だけに何度も落雷があり「氏子の災厄を引き受けらす」と子どもの頃聞きました。 
木口池に掛かる橋を渡ったところには、初代日本商工会議所会頭を務めた郷土出身の実業家、藤山雷太の銅像(長崎・平和祈念像の北村西望の作)が建っています。
雷太は旧暦文久三年八月一日(新暦九月十三日)八幡神社の秋祭りの日に生まれました。そのとき家(現大里公民館)のセンダンの木に落雷があり、「雷太」と命名されたといわれています。現在でも、「秋祭り」は九月中旬に行われており、何年に一度かは秋の嵐に遭遇するそうです。

 また、師走の最初の卯の日には、「取り追う祭り」が行われます。南北朝時代、南朝の武将・菊池武重が負傷の身を忍ばせ、姓を武重と変えて、八幡神社の宮司となったという伝説があります。木口池の名はそれに由来するといわれ、一族の再起を図るため、武重が行った火中訓練が、この「取り追う祭り」の起源だといわれています。
松明のもと、若衆がこわ飯を取り合う勇壮な祭りは、現在まで受け継がれています。
 八幡様の宮司は、昭和四十七年頃まで武重家の世襲でした。現在では神事の際には市内東山代町の青幡神社か、有田町の陶山神社から神職を招いているそうです。

  


Posted by 渋柿 at 17:13 | Comments(4)

2008年08月24日

小城の殿様、無言の上陸

>太明山本光寺 伊万里市山代町楠久

楠久津は、松浦党や鍋島水軍の歴史を持つ、古くからの港でした。
佐賀藩は、ここに長崎警護のための御船屋を設けました。参勤交代の旅船も発着しましたので、その諸手配もまた大事な役目で、管理をしたのは、支藩小城鍋島家です。
本光寺は、元和二年に数寺を併せ、鍋島藩祖直茂の孫で小城初代藩主の元茂を開基、楠久津の生まれでもあり、直茂の顧問的存在である菩提寺高伝寺住職不鉄桂文を開山として建てられました。

小城藩祖鍋島元茂は、父勝茂の長男として生まれました。しかし、父が徳川家康の養女と再婚し弟が誕生したために廃嫡され、祖父直茂の隠居領を継ぎました。
元茂は、三代将軍家光のお小姓頭をつとめました。幼児期祖父の許で育った元茂は、不鉄に深く精神的薫陶を受けたようです。
元茂が江戸で没したとき、船路で楠久に上陸した遺体は、通夜修行の名目でなんと二週間余、本光寺に留められました。鍋島家の菩提寺の高伝寺に埋葬するか否か、佐賀城の意見が対立していたからだそうです。当時、元茂が嫡子の座を譲った弟は早世し、甥の光茂が家督を継いでいました。元茂を菩提寺に葬れば、後々のお家騒動のもととなるという危惧があったのでしょう。曲折の末墓所は、祖父の多布施居館跡に建てられた、不鉄開山の宗智寺となりました。
本光寺に残る元茂の位牌は将軍家光夫人から与えられたという伝承もあり、御船屋に詰める小城藩士らの、「悲運の殿様」への参詣が、幕末まで絶えなかったということです。
その地楠久津は今、伊万里湾大橋の巨大なアーチが山紫水明の風光に新たな趣を加えています。

  


Posted by 渋柿 at 07:37 | Comments(1)

2008年08月22日

いすのき

08月20日
15:40 いすのき

 伊万里湾岸の瀬戸町・早里の山神宮まで出かけました。
 境内の柞の木(イスノキ・檮とも書くきます。ハハソと読めば別種の小楢となってします)は樹齢二百年、二年前県の天然記念物に指定されました。
 西日本に多く分布するそうですから、めずらしい木ではないはずですが・・ 
 伊万里・有田では鎮守の森以外ではめったに柞の大木がみられません。染付けの釉薬としては鉄分含有が極めて少ない柞灰が極上とされています。雑木として自生していた柞は刈り尽くされ、(柞灰は江戸後期には日向から移入されるようになり)神域だけかろうじて残りました。 有田民俗博物館の館報「皿山」56号(有田町HPで閲覧可)で、柞について詳しい説明があります。 
 柞の木は灰釉だけでなく、櫛の材料でもありました。福岡県の弥生遺跡などから柞木櫛が出土していますし、平安時代の延喜式では、神事と宮中で使う櫛は柞と定められているそうです。(今でも皇室の正式行事の櫛は柘植ではなく柞だそうで)。
 探せば、伊万里の公園や中学校に、実生らしい柞がありました。少し嬉しくなりました。
 (伊万里市民図書館には、イミテーションのいすの木があります)

 虫瘤は中が空洞で穴があるため、上手に吹くと笛のようになります。
これを「瓢(ひょん)の笛」といい、俳諧では秋の季語だそうです。

どうしても悲しく吹けぬ瓢の笛 後藤比奈夫
ひょんの笛力を抜きて吹けば鳴る 植松千英子
ひよんの実を拾ひしが幸初詣 田中英子
ひよんの実を机に英文学者留守 川崎展宏
ひよんの笛穴大きなと小さなと 茨木和生
ひよんの笛鳴らす傘寿の同窓会 中山杲
  


Posted by 渋柿 at 09:12 | Comments(4)

2008年08月21日

はじめまして

佐賀新聞社のSNS「ひびの」からやってまいりました。
使い方がまだよく分りませんが、どうぞよろしくお願いします。  


Posted by 渋柿 at 20:12 | Comments(4)