2015年07月01日

鯰酔虎伝 19

「湯へ・・行ってくる」

「師匠ぉ」

「今日、休肝日だってんだろ。大丈夫だ。どこにも寄りゃしないよ」

「約束ですよ」

「ああ」

 石鹸手拭いの入ったビニール巾着を掴んで、立ち上がった。朝顔が【あの】日で、多分明後日まで銭湯に行けない事は判ってる。

 中央線沿線といっても、この辺りは武蔵野の春の風情がまだ残っている。あちこちに聳える欅の大木が、煙る様に芽吹いていた。

「師匠、今日は一人かい」

 がらがらの銭湯。ひとっ風呂浴びた体を拭いて、猿股履い
ていた肩を、ぽんと叩かれた。

 向かいと斜向かいの爺さん達だった。向かいの爺さんは絹や縮緬で三角の部品を作るつまみ細工の職人で、斜向かいはそれを花簪に仕上げる飾職だ。二人は組んで仕事をしている。着物を着る女がめっきり少なくなった今も、年金の足しの稼ぎをしているのは、お針のおりん婆さんと一緒だった。

「どうしたい、浮かない顔して」

 つまみ職人の政さんが、顔を覗き込む。

「ちょっと、な」

「今日は仕事ないんだろ、帰りにどうだい」

 飾職の久さんが、そらのお猪口を傾ける。

(休肝日なんだけど・・)

 知った事か。まっすぐ自分の部屋に入って、寝ちまえばいいんだ。俺の酒癖判ってて、懲りずに誘ってくれるてのが嬉しいじゃないか。

「女が親に逢ってくれって、そりゃ物騒だ」
 
 路地の縄暖簾。盃を手に久さんがいう。

「結婚してくれって事じゃねえか。まあ、碧ちゃんも二つ目だし、色恋解禁だからねえ」

「イジるんじゃねえ。あいつ惚れてたなあ俺じゃねえよ」
湯呑に酒を空け、ぐいと呷った。苦い。

「そいつに二度も弟子入り断られて、自棄のやん八、とち狂って俺んとこ来たんだとさ」

「そりゃ左京って、長楽亭京治の弟子だったってえ二枚目だろ」
 
 知ってるよ、碧ちゃん夢中だったから。若葉嵐ん中葬式にまで出かけてたねえ・・政さんが、お新香に箸を伸ばしながらいう。

「・・でも何で今頃、親に逢ってくれなんて、そんな話になったんだ?」
 
 もう六年も前だろ、あんたが碧ちゃんの部屋に転がり込んできたの、ちょっとお姐さん、冷奴三つに刺身、盛り合わせで、あとお銚子二本追加ね・・久さんが場を仕切る。

「来月落語会で、佐賀行くんでね、そのついで・・てだけさ」

「こりゃ師匠あれだぜ、碧ちゃんの父つぁんてのも落研だったんだな。で、噺家になりたかったんだけど、後輩に凄い奴がいて、とても敵わねえってんで諦めて田舎帰ったんだ」

 よしな、そんなつまんねえ作り話。

「その凄い奴ってのが左京さ。親もほんとは左京の弟子にしたかったんだよ、本人同様な」

 むかっと来た。

(師匠が俺じゃ、ダメだってのかよ!)

 左京の野郎、死んでまで俺振り回しやがって。俺だってなあ、一生懸命教えてきたんだよ!「大工調べ」の啖呵だって、「芝浜」の夫婦の演り方だって、俺が教えたんだ。

(それなのに手前達ぁ!)

 俺の身にもなってみろ、入れ込みの卓袱台に手が掛かった。いけね、もう悪い酒になっちまってる。何かと世話になってるご近所とまたぞろ喧嘩騒ぎなんか起こしたら、今度こそ朝顔から【逆破門】されちまう。

「ど田舎から来た小娘が入学式済むか済まねえうちに寄席通い、それも長楽亭左京一筋だろ・・そうでなきゃおかしいよ」

 堪えてるんだ、こっちの疵口抉ってる事、気付いてくれよな。



Posted by 渋柿 at 16:20 | Comments(0)
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