2009年06月30日
「伏見桃片伊万里」【最終回】
圭吾の医師としての声望は確実に揚がっていった。いつしか遠く平戸や波佐見・佐世保あたりからも、圭吾を頼る患者が訪れるようになっていた。建て増しが、続いた。妻・道も、診療所の世帯の切盛から患者の看護、はては圭吾の手術の助手を勤め、圭吾を終生支えている。
隼人と交す便りは、途切れなかった。圭吾に二年先立つその最期まで、お登世を泣かすことはなかったようである。
圭吾の診療所の目印は、圭吾が植えた数本の桃の樹であった。
隼人との書簡、時候の挨拶は多く相互の庭の桃の近況で始まっている。先述の郷土史の造詣も深い現当主のお話によると、堀圭吾は桃の花をこよなく愛した。圭吾没後は、昭和直前まで存命だった道も、庭の桃を丹精していたという。圭吾と道の孫である氏の祖父は、圭吾と桃のことを折にふれ語っていたそうである。氏やその同級生たち複数の遥かな記憶に、この桃の樹のことは確かに残っている。
残念ながら・・その樹自体は氏等の幼少時枯死したそうであるが。
ただ、『祟仁癒心居士』の位牌とともに、『伏見桃片』と『桃片伊万里』は、今も堀家の所蔵である。
隼人と交す便りは、途切れなかった。圭吾に二年先立つその最期まで、お登世を泣かすことはなかったようである。
圭吾の診療所の目印は、圭吾が植えた数本の桃の樹であった。
隼人との書簡、時候の挨拶は多く相互の庭の桃の近況で始まっている。先述の郷土史の造詣も深い現当主のお話によると、堀圭吾は桃の花をこよなく愛した。圭吾没後は、昭和直前まで存命だった道も、庭の桃を丹精していたという。圭吾と道の孫である氏の祖父は、圭吾と桃のことを折にふれ語っていたそうである。氏やその同級生たち複数の遥かな記憶に、この桃の樹のことは確かに残っている。
残念ながら・・その樹自体は氏等の幼少時枯死したそうであるが。
ただ、『祟仁癒心居士』の位牌とともに、『伏見桃片』と『桃片伊万里』は、今も堀家の所蔵である。
Posted by 渋柿 at 07:44 | Comments(0)
2009年06月29日
「伏見桃片伊万里」32
【次回最終回です】
無論、それは圭吾の知る所ではないが、それでも後年、桐箱を誂(あつら)えて納めている。
蓋裏には、達筆でこうある。
天目二客銘一、伏見桃片一、桃片伊万里
故郷、肥前伊万里津。
深く入りこんだ湾に注ぐ、自然堤防の河口。
「千軒在所」と呼ばれるほど陶器商人たちの白壁土蔵が建ち並ぶ。隼人が淀川の川辺で診療を続けたように、圭吾は京での修業後、伊万里川のほとり、生家の離れを改築した診療所で明治を迎えた。それからも医道没頭の歳月であり、没年は明治三九年である。
ここで、本人の言「互ひに手近にて相済ませ候」とある・・圭吾の後半生、「伏見桃片」と「桃片伊万里」で粥をともにしたであろう女性について触れる。
圭吾は当時としてはかなり晩婚であった。
妻は伊万里津から四里程離れた有田郷大里村、造酒屋に嫁いでいた叔母の娘であった。つまり圭吾には実の従妹にあたる。名は道。十五以上年下らしい。男兄弟とともに幼年より伊万里津の学塾で漢学を学んでいる。十二・三から道は圭吾につき、英語・ドイツ語・医学等を学んだ。
圭吾が藩校や京大阪で学んだのは蘭語のみの筈である。向学心に燃える若い従妹・・未来の妻に教えるため、圭吾がまず英語・ドイツ語を独学したのであろう。「随分忙しかったろうに、やっぱ圭吾さんはお道さんに惚れとったとでしょうなあ」その子孫、堀家現当主は苦笑される。
無論、それは圭吾の知る所ではないが、それでも後年、桐箱を誂(あつら)えて納めている。
蓋裏には、達筆でこうある。
天目二客銘一、伏見桃片一、桃片伊万里
故郷、肥前伊万里津。
深く入りこんだ湾に注ぐ、自然堤防の河口。
「千軒在所」と呼ばれるほど陶器商人たちの白壁土蔵が建ち並ぶ。隼人が淀川の川辺で診療を続けたように、圭吾は京での修業後、伊万里川のほとり、生家の離れを改築した診療所で明治を迎えた。それからも医道没頭の歳月であり、没年は明治三九年である。
ここで、本人の言「互ひに手近にて相済ませ候」とある・・圭吾の後半生、「伏見桃片」と「桃片伊万里」で粥をともにしたであろう女性について触れる。
圭吾は当時としてはかなり晩婚であった。
妻は伊万里津から四里程離れた有田郷大里村、造酒屋に嫁いでいた叔母の娘であった。つまり圭吾には実の従妹にあたる。名は道。十五以上年下らしい。男兄弟とともに幼年より伊万里津の学塾で漢学を学んでいる。十二・三から道は圭吾につき、英語・ドイツ語・医学等を学んだ。
圭吾が藩校や京大阪で学んだのは蘭語のみの筈である。向学心に燃える若い従妹・・未来の妻に教えるため、圭吾がまず英語・ドイツ語を独学したのであろう。「随分忙しかったろうに、やっぱ圭吾さんはお道さんに惚れとったとでしょうなあ」その子孫、堀家現当主は苦笑される。
Posted by 渋柿 at 10:43 | Comments(0)
2009年06月28日
「伏見桃片伊万里」31
このところ、「自分のやってきたことが、間違いだったとは思わぬが―」塾を去れと、他ならぬ師が勧めていた。塾は漸く医学を逸れ、洋学塾の色彩を強めている。医学を学ぶのに最適の場所とは、もはや言いがたい、と。
(立身出世をする選択は、捨てよ。一介の医者として生涯を送るのだ。ゆくゆくは郷里の村医者になって医道をゆくがよい、か)
師の言葉は重かった。
「まず京に出よ。そして経験を積め」
淀川を伏見で分岐して、高瀬川を溯れば文化の先進地、京。名医は多い。そのうちの一人に師が紹介状を認めてくれた。
(自分はもちろん―)酒毒治療と称して既に開業した隼人も、本来はあと数年修業と学問が欲しい若輩である。師はそれを案じている。
「まあ隼人も伏見に居れば、また学ぶ機会もあろうが」
粥を、あの器に盛る。対の小。もう一つのやや大振りの器を見る。
(こっちは何時か自分の伴侶となってくれる人に、使って貰うか)
圭吾は、七草粥の箸をとった。
器は二つとも、桃色がかった白磁の地に花弁の紅が散り、一つは淡く、一つは青を秘めた緋が勝っている。どちらも、温かい。
胎土と釉薬(ゆうやく)の不純物が巧まずもたらした、妙なる窯(よう)変(へん)であった。
それが淀川水系で日々雑器として使われて、数世紀を経た。
現在、くらわんか船の使い捨て容器・伊万里の安手は、驚くべき再評価を受けている。本来は日常の雑器。それが・・特に紅や緋を発したものを、滋潤の味わい、東南アジアの古民具風の懐深い器として、多くの数寄者(すきしゃ)が珍重している。
(立身出世をする選択は、捨てよ。一介の医者として生涯を送るのだ。ゆくゆくは郷里の村医者になって医道をゆくがよい、か)
師の言葉は重かった。
「まず京に出よ。そして経験を積め」
淀川を伏見で分岐して、高瀬川を溯れば文化の先進地、京。名医は多い。そのうちの一人に師が紹介状を認めてくれた。
(自分はもちろん―)酒毒治療と称して既に開業した隼人も、本来はあと数年修業と学問が欲しい若輩である。師はそれを案じている。
「まあ隼人も伏見に居れば、また学ぶ機会もあろうが」
粥を、あの器に盛る。対の小。もう一つのやや大振りの器を見る。
(こっちは何時か自分の伴侶となってくれる人に、使って貰うか)
圭吾は、七草粥の箸をとった。
器は二つとも、桃色がかった白磁の地に花弁の紅が散り、一つは淡く、一つは青を秘めた緋が勝っている。どちらも、温かい。
胎土と釉薬(ゆうやく)の不純物が巧まずもたらした、妙なる窯(よう)変(へん)であった。
それが淀川水系で日々雑器として使われて、数世紀を経た。
現在、くらわんか船の使い捨て容器・伊万里の安手は、驚くべき再評価を受けている。本来は日常の雑器。それが・・特に紅や緋を発したものを、滋潤の味わい、東南アジアの古民具風の懐深い器として、多くの数寄者(すきしゃ)が珍重している。
Posted by 渋柿 at 09:55 | Comments(0)
2009年06月27日
「伏見桃片伊万里」30
「あの、慎一郎を蹄に掛けた・・どこでだ」
「高瀬舟でさ。米相場の失敗の責めを取らされたとかで、あのあとすぐ浪人しちまったんだと。食い詰めて喧嘩沙汰のあげく、相手何人も半殺しにしちまったらしい」
「それで隠岐送り、か」
「牢の中で、ひどく腹を下しておっての。俺が診た。どうも見覚えはある顔だったし、役人から姓名を聞いたときは驚いたぜ」
「お前、あの頃の記憶はまだはっきりしてないだろうしなあ。で、どうした?」
「とりあえず、吐寫は止めた。下痢止めの処方、三日分持たせたが。大阪に着いたら揚屋で休ませてやれって、さもなければ隠岐まで持たんって、役人をおどかしておいいたから、多分本復したろうよ」
「おまえのこと、気づいたか?」
「いや。ただもう、腹を少々指圧してやっただけでも痛みが薄らいだとか、泣いて有難がって、な。よっぽど辛かったんだろうよ」
「俺は、多分お前と判ってて、黙ってたような気がするがな。―そうか、あの八重樫が流人になあ」圭吾は、乗り打ちで駆け去ったあの日の高飛車な姿を思った。その八重樫を、隼人が介抱するめぐり合わせになろうとは。
(もう一人前の医者だな、隼人)
「侍なんて、主家を離れれば容易く、己に負けてしまうものらしいな」流人姿の八重樫を思い出したように、隼人はつぶやいた
「お前は負けられんぞ、患者のためにも、お登世さんとお千代ちゃんのためにも、な」
「ああ。それに―」隼人は顔を赤らめた。「生れるんだ、この夏、お千代の次の子が」
「本当か!」
「もし男の子なら、名はもう決めている」
「慎一郎―か?」
隼人はああと答え、二人とも暫く黙って、庭の冬木の桃を見ていた。
久々にお登世の手料理を振舞われ待されて伏見を辞したのは、昨日の昼のことだった。
「こんなんしか有らへんのどすけど・・」
蕪・大根の葉、すなわち菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)はお登世が丹精した桃の樹の向こうの中庭で引いたのだろう。芹、薺(なずな)、御形、繁縷、仏の座は、お千代が淀の川辺で摘み集めてきた。
「うちが摘んだんえ」自慢そうにいうお千代の、頭を撫でる。
「えらいなあお千代ちゃん、もうすぐお姉ちゃんやもんなあ」
こうして、伏見の土産に粥に入れる春の七草を持たされたのだった。
「高瀬舟でさ。米相場の失敗の責めを取らされたとかで、あのあとすぐ浪人しちまったんだと。食い詰めて喧嘩沙汰のあげく、相手何人も半殺しにしちまったらしい」
「それで隠岐送り、か」
「牢の中で、ひどく腹を下しておっての。俺が診た。どうも見覚えはある顔だったし、役人から姓名を聞いたときは驚いたぜ」
「お前、あの頃の記憶はまだはっきりしてないだろうしなあ。で、どうした?」
「とりあえず、吐寫は止めた。下痢止めの処方、三日分持たせたが。大阪に着いたら揚屋で休ませてやれって、さもなければ隠岐まで持たんって、役人をおどかしておいいたから、多分本復したろうよ」
「おまえのこと、気づいたか?」
「いや。ただもう、腹を少々指圧してやっただけでも痛みが薄らいだとか、泣いて有難がって、な。よっぽど辛かったんだろうよ」
「俺は、多分お前と判ってて、黙ってたような気がするがな。―そうか、あの八重樫が流人になあ」圭吾は、乗り打ちで駆け去ったあの日の高飛車な姿を思った。その八重樫を、隼人が介抱するめぐり合わせになろうとは。
(もう一人前の医者だな、隼人)
「侍なんて、主家を離れれば容易く、己に負けてしまうものらしいな」流人姿の八重樫を思い出したように、隼人はつぶやいた
「お前は負けられんぞ、患者のためにも、お登世さんとお千代ちゃんのためにも、な」
「ああ。それに―」隼人は顔を赤らめた。「生れるんだ、この夏、お千代の次の子が」
「本当か!」
「もし男の子なら、名はもう決めている」
「慎一郎―か?」
隼人はああと答え、二人とも暫く黙って、庭の冬木の桃を見ていた。
久々にお登世の手料理を振舞われ待されて伏見を辞したのは、昨日の昼のことだった。
「こんなんしか有らへんのどすけど・・」
蕪・大根の葉、すなわち菘(すずな)・蘿蔔(すずしろ)はお登世が丹精した桃の樹の向こうの中庭で引いたのだろう。芹、薺(なずな)、御形、繁縷、仏の座は、お千代が淀の川辺で摘み集めてきた。
「うちが摘んだんえ」自慢そうにいうお千代の、頭を撫でる。
「えらいなあお千代ちゃん、もうすぐお姉ちゃんやもんなあ」
こうして、伏見の土産に粥に入れる春の七草を持たされたのだった。
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2009年06月26日
「伏見桃片伊万里」29
自分の来し方、隼人の酒毒などのくさぐさの躊躇を、お登世の据えた覚悟が押切ったのだ。身分制の厳しい時代、形だけでも長州に士籍を持つ隼人の、結婚と伏見、材木町での開業のために―師は圭吾とともに奔走してくれた。
今回訪なうと、もう隼人はすっかり町医者が板についていた。そこそこ、患家も付き始めたらしい。屏風で仕切った六畳と八畳が、待合室と診察室だった。
縁側の向こう、寒風の中に桃の樹が見えた。
「伏見では、庭木にも桃が多いんだ。実も採れるらしい。実は酒毒の患者も・・近頃何人か診てる。ここは、名代の酒どころでもあるでなあ」隼人は苦笑した。
「それに関しちゃお前以上の名医はおらん」
ふと、文机の陰を見る。
小さな厨子に『祟仁癒心居士』の位牌が納められている。
(ここにも慎一郎は、いる)
「そうだな、患者ちゅうより、一緒に酒を断つ同志だよ、俺の」
確かに伏見は、灘と並ぶ下り銘酒の酒所であった。
「よりによってとんでもない所で開業したもんだ。大丈夫か」
「酒も、そう悪いものではない」
「隼人!」
「いや、俺はもう二度と口にはせん。ただ、隠岐送りの高瀬船のな、立会いなど頼まれると・・」と隼人は彼方を見る目をした。
ここでいう高瀬船とは広義の、運河である高瀬川などで使用された底の浅い小船の総称ではなく、狭義のいわゆる『高瀬船』のことである。京で流罪となったものは、伏見までは高瀬舟、ここで三十石舟に乗換え、大阪から海路隠岐島に送られるのだ。
「人目を憚って京で見送れぬ身内が、ここで高瀬船を待つんだよ。一合、五勺、なけなしの金で極上の銘酒誂えてな。それを流人に飲ませてる。役人も目溢し。一杯の、心尽くしに・・絶望の中に微かな温もりが灯って。その虎の子、周りとわけあって。ああ、酒っていうのはこういう風に飲むものだった」
「隼人―」濶(ひろ)くなったな、と圭吾は肩を叩いてやりたい思いがする。
「あっ、八重樫源蔵にも、会ったぞ」
今回訪なうと、もう隼人はすっかり町医者が板についていた。そこそこ、患家も付き始めたらしい。屏風で仕切った六畳と八畳が、待合室と診察室だった。
縁側の向こう、寒風の中に桃の樹が見えた。
「伏見では、庭木にも桃が多いんだ。実も採れるらしい。実は酒毒の患者も・・近頃何人か診てる。ここは、名代の酒どころでもあるでなあ」隼人は苦笑した。
「それに関しちゃお前以上の名医はおらん」
ふと、文机の陰を見る。
小さな厨子に『祟仁癒心居士』の位牌が納められている。
(ここにも慎一郎は、いる)
「そうだな、患者ちゅうより、一緒に酒を断つ同志だよ、俺の」
確かに伏見は、灘と並ぶ下り銘酒の酒所であった。
「よりによってとんでもない所で開業したもんだ。大丈夫か」
「酒も、そう悪いものではない」
「隼人!」
「いや、俺はもう二度と口にはせん。ただ、隠岐送りの高瀬船のな、立会いなど頼まれると・・」と隼人は彼方を見る目をした。
ここでいう高瀬船とは広義の、運河である高瀬川などで使用された底の浅い小船の総称ではなく、狭義のいわゆる『高瀬船』のことである。京で流罪となったものは、伏見までは高瀬舟、ここで三十石舟に乗換え、大阪から海路隠岐島に送られるのだ。
「人目を憚って京で見送れぬ身内が、ここで高瀬船を待つんだよ。一合、五勺、なけなしの金で極上の銘酒誂えてな。それを流人に飲ませてる。役人も目溢し。一杯の、心尽くしに・・絶望の中に微かな温もりが灯って。その虎の子、周りとわけあって。ああ、酒っていうのはこういう風に飲むものだった」
「隼人―」濶(ひろ)くなったな、と圭吾は肩を叩いてやりたい思いがする。
「あっ、八重樫源蔵にも、会ったぞ」
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2009年06月25日
「伏見桃片伊万里」28
夏秋が廻った。
翌年正月七日、淀橋、圭吾の塒である。
あれから、世の中は大きく動いていた。六月、アメリカのペリーが艦隊四隻を率いて浦賀に来航し、大砲を誇示して幕府に開国を迫ったのだ。強硬な交渉の挙句、今年返事を求めてまた来るという。鎖国をこの二百余年国是としてきた日本は、攘夷、開国と鼎がひっくり返るような騒ぎとなった。
当然、塾の同輩の、洋学熱はさらに高まっている。
今日の圭吾の目覚めは遅かった。もう昼近い。夜舟で深更、伏見から帰ってきたばかりなのだ。
(寝過したか。去年の七草は、慎一郎がいた、隼人もいた)
文机には、位牌が一つ乗っている。
圭吾の宗旨と同じ、曹洞の居士号であった。
裏に書かれたその俗名は栗林慎一郎とある。
荼毘に附した慎一郎の遺骨は、百カ日前に、備中足守の遺族のもとに届けた。
(村田どのが甦生なさるとあらば―慎一郎も本懐でござろう―あの子を誇りと致します、か)隼人が托した長い詫状を読んだ、老親と長兄の言葉であった。
(俺にも、向けられていた言葉だ)
一人で粥を炊き、七草を刻む。
「七草薺(なずな)、唐土の鳥の、届かぬうちに―」
若菜の節句の朝、鳥が囀り始める前に俎板で音をたてて若菜を刻みながら、そう唱えるらしい。郷里の肥前・伊万里にはこんな呪(まじな)いはない。京大阪では、どこでもそうするものだとお登世が教えてくれた。
村田隼人は、伏見で町医者となった。
「何じゃぁ!酒毒に冒された脳髄だから、治療には惚れた女と所帯を持つしかない、じゃと!」と、師は隼人が自分に下した診立に、常に似ぬ爆笑をした。そして快く退塾・開業を許可してくれたのだ。
圭吾も援助した。隼人は感謝して、受けた。
お登世は今、隼人の妻となっている。
翌年正月七日、淀橋、圭吾の塒である。
あれから、世の中は大きく動いていた。六月、アメリカのペリーが艦隊四隻を率いて浦賀に来航し、大砲を誇示して幕府に開国を迫ったのだ。強硬な交渉の挙句、今年返事を求めてまた来るという。鎖国をこの二百余年国是としてきた日本は、攘夷、開国と鼎がひっくり返るような騒ぎとなった。
当然、塾の同輩の、洋学熱はさらに高まっている。
今日の圭吾の目覚めは遅かった。もう昼近い。夜舟で深更、伏見から帰ってきたばかりなのだ。
(寝過したか。去年の七草は、慎一郎がいた、隼人もいた)
文机には、位牌が一つ乗っている。
圭吾の宗旨と同じ、曹洞の居士号であった。
裏に書かれたその俗名は栗林慎一郎とある。
荼毘に附した慎一郎の遺骨は、百カ日前に、備中足守の遺族のもとに届けた。
(村田どのが甦生なさるとあらば―慎一郎も本懐でござろう―あの子を誇りと致します、か)隼人が托した長い詫状を読んだ、老親と長兄の言葉であった。
(俺にも、向けられていた言葉だ)
一人で粥を炊き、七草を刻む。
「七草薺(なずな)、唐土の鳥の、届かぬうちに―」
若菜の節句の朝、鳥が囀り始める前に俎板で音をたてて若菜を刻みながら、そう唱えるらしい。郷里の肥前・伊万里にはこんな呪(まじな)いはない。京大阪では、どこでもそうするものだとお登世が教えてくれた。
村田隼人は、伏見で町医者となった。
「何じゃぁ!酒毒に冒された脳髄だから、治療には惚れた女と所帯を持つしかない、じゃと!」と、師は隼人が自分に下した診立に、常に似ぬ爆笑をした。そして快く退塾・開業を許可してくれたのだ。
圭吾も援助した。隼人は感謝して、受けた。
お登世は今、隼人の妻となっている。
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2009年06月24日
「伏見桃片伊万里」27
「私は酒毒。下手をすると二十五までも生きられん。不思議なものでな、同じ酒毒でも、女房子持ちの方が酒毒に勝ってやっていくんだよ。独り者は、絶対予後がよくない。―私は慎一郎の万分の一でも、医者として世に出来る限りのことをしなければならないんだ。たのむ。まったく迷惑な話だろうが」
「・・・」
「お千代ちゃん、私の娘になってくれ」
母子は驚愕のあまり、固まっている。
圭吾は吹き出した。
「ぷっ、こんな珍妙な求婚、聞いたこともないぞ。お登世さん、こいつあんたに惚れてるんだよ。まあ、今まで女を口説いたこともない朴念仁だからなあ」
「お前には、言われたくない。お登世さん、私と所帯を持ってくれたら、神かけて二度と酒は手にせぬ。―尤も何度もそういってはまた飲んで女房子を泣かすのが、酒毒の常ではあるんだが」
「何を、支離滅裂なこといってる。酒毒の解説はいい。今は口説いているんだろうが、お登世さんを。―お登世さん、こいつは自分が病だってことわかってる。大概の酒毒にゃそれに気付かせるまでが骨なんだが、大丈夫、こいつはあと五十年はもつ」
「五十年たぁ安受けあいするなあ、圭吾」
「いや、やっぱり、十年かなあ。―まあ五年は―」
「馬鹿野郎!」
「先生たち、面白いわあ」お千代の明るい声がした。
芯に青磁のあをを潜めたように、桃の花は怖いほど冴えたうす紅であった。
花が、風に散る。
(慎一郎、いい供養になったな。それにしてもなあ、お前と一緒に、この花を見たかったよ)
「・・・」
「お千代ちゃん、私の娘になってくれ」
母子は驚愕のあまり、固まっている。
圭吾は吹き出した。
「ぷっ、こんな珍妙な求婚、聞いたこともないぞ。お登世さん、こいつあんたに惚れてるんだよ。まあ、今まで女を口説いたこともない朴念仁だからなあ」
「お前には、言われたくない。お登世さん、私と所帯を持ってくれたら、神かけて二度と酒は手にせぬ。―尤も何度もそういってはまた飲んで女房子を泣かすのが、酒毒の常ではあるんだが」
「何を、支離滅裂なこといってる。酒毒の解説はいい。今は口説いているんだろうが、お登世さんを。―お登世さん、こいつは自分が病だってことわかってる。大概の酒毒にゃそれに気付かせるまでが骨なんだが、大丈夫、こいつはあと五十年はもつ」
「五十年たぁ安受けあいするなあ、圭吾」
「いや、やっぱり、十年かなあ。―まあ五年は―」
「馬鹿野郎!」
「先生たち、面白いわあ」お千代の明るい声がした。
芯に青磁のあをを潜めたように、桃の花は怖いほど冴えたうす紅であった。
花が、風に散る。
(慎一郎、いい供養になったな。それにしてもなあ、お前と一緒に、この花を見たかったよ)
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2009年06月23日
「伏見桃片伊万里」26
桃の花は今が盛り。陰陽の濃淡がそのまま襲(かさね)の匂い、夢のように美しい。
「昼舟に乗るや伏見の桃の花、か」
「蕪村か?」
「芭蕉だ。蕪村はな、夜桃林を出て暁さがの人」
「どういう意味だ?そりゃ」
「夜舟で桃の伏見を発って、夜明け頃嵯峨に着いたっていう意味さ。―高瀬舟は西高瀬の方へ上ったんだろう」
「ふうん。淀の昼舟が芭蕉で、高瀬夜舟が蕪村か。お前はものを知ってるなあ、圭吾」
「お前が無粋なだけだ」
(全く隼人、無粋にもほどがある)
お登世の唇に、薄く紅が引かれている。今日の母子は、古手屋で探して縫直した、縞の小袖であった。臙脂と紺に朱と青と、色合がよく似ていて、御揃に見えぬこともない。
麗らかに晴れた空に桃の花が映える。風に散る花弁が華やかであった。あの器の、薄い桃色の地に散る紅班はまさにこの光景の観立てである。値千金。花見の客の多さも頷かれた。
花の路の、中ほどに設えられた小亭で、休息する。腰掛の緋毛氈の上にも、一ひら、二ひら桃の花弁が舞い落ちた。
雲雀がのどかに囀る。鶯も。
隼人は大きく息を吸い、犬が咳をするような声を出した。
「しっ、慎一郎は、磨きあげた白磁だった」
「どうした、また具合でも悪いのか」
隼人は面を上気させ、額に汗。
「い、いや。今日は慎一郎の四九日・・慎一郎は、百年いや千年に一人の名医にもなった筈。学才・技量・人格全て万人に一人。それが、俺のために」
そこで、思い詰めた瞳がお登世を見た。
「俺は出来損ない、それも罅と欠けだらけ。だが何とかまだ器の用は足せる。いや、足さねばならん。だから、お登世さん」
「へえ」
「俺の、私の妻になって欲しい」
桃の花が舞う。
「昼舟に乗るや伏見の桃の花、か」
「蕪村か?」
「芭蕉だ。蕪村はな、夜桃林を出て暁さがの人」
「どういう意味だ?そりゃ」
「夜舟で桃の伏見を発って、夜明け頃嵯峨に着いたっていう意味さ。―高瀬舟は西高瀬の方へ上ったんだろう」
「ふうん。淀の昼舟が芭蕉で、高瀬夜舟が蕪村か。お前はものを知ってるなあ、圭吾」
「お前が無粋なだけだ」
(全く隼人、無粋にもほどがある)
お登世の唇に、薄く紅が引かれている。今日の母子は、古手屋で探して縫直した、縞の小袖であった。臙脂と紺に朱と青と、色合がよく似ていて、御揃に見えぬこともない。
麗らかに晴れた空に桃の花が映える。風に散る花弁が華やかであった。あの器の、薄い桃色の地に散る紅班はまさにこの光景の観立てである。値千金。花見の客の多さも頷かれた。
花の路の、中ほどに設えられた小亭で、休息する。腰掛の緋毛氈の上にも、一ひら、二ひら桃の花弁が舞い落ちた。
雲雀がのどかに囀る。鶯も。
隼人は大きく息を吸い、犬が咳をするような声を出した。
「しっ、慎一郎は、磨きあげた白磁だった」
「どうした、また具合でも悪いのか」
隼人は面を上気させ、額に汗。
「い、いや。今日は慎一郎の四九日・・慎一郎は、百年いや千年に一人の名医にもなった筈。学才・技量・人格全て万人に一人。それが、俺のために」
そこで、思い詰めた瞳がお登世を見た。
「俺は出来損ない、それも罅と欠けだらけ。だが何とかまだ器の用は足せる。いや、足さねばならん。だから、お登世さん」
「へえ」
「俺の、私の妻になって欲しい」
桃の花が舞う。
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2009年06月22日
「伏見桃片伊万里」25
(どうする?)
(そう、しよう。慎一郎が居たら、きっとそうした筈だ)圭吾と隼人は目と目を交わした。
「お登世さん、もうしばらく、温かくなるまでここに居てくれぬか。この馬鹿の見張りが要るのでな。また酒に手を出したら今度こそ破滅だ。ついでに家の切盛やって貰えたら、有難い」
「寒さが去るまで、お千代ちゃんの喘息も、案じられる。あ、いやこれはついでだが」
お登世は、やがて涙ぐんだ。
「ほんまに、ありがとうさんでございます。お言葉に甘えさせていただきます」
(なあ、お前がこの親子を呼び戻してくれたんだろう、慎一郎)
冬が過ぎて、春も爛漫となった、伏見城址の桃林である。
淀橋の船着場から枚方経由、一昼夜の船旅をして三十石を降りた男女四人がいた。
圭吾と隼人、お登世とお千代である。
「ほんまに、喰らわんか、喰らわんかっていいはるんどすなあ」
「餅喰らわんか、牛ん蒡汁喰らわんか、まではよかったが、はよう金出せしっみたれめが、には肝を潰した」
船中、くらわんか船に行き合い、餅と牛蒡汁を買った。容器は、一応「白磁」ではあった。だが、黄ばみ、呉須の藍色の線描も淡い。辛うじてそれと知れる、紛い物の阿蘭陀文字がその肌に漂っていた。
(波佐見か三川内か―もしかしたら有田か伊万里かどこの窯だろう?―まあ、どこでもいいか、そりゃ)
お登世と隼人が笑み交わしている。
(お千代ちゃんに字など教えていたし、な)
近頃三人は本当の親子のように見える。
くらわんかの器は、重ねて船端に置いた。こうしておけば回収され、洗われてまた使い回しされるのだ。
隼人は、お千代の手を引く。
あれから、軽い発作は数回起こしたが、お千代に砒素を用いねばならぬことはなかった。
お千代は自力で発作を乗り越えた。
圭吾と、別して隼人が渾身の看護に当った。
(伏見か。何時か行って見たいな、できれば桃の咲く頃)そう、口にしていた。
今日は『祟仁癒心居士』栗林慎一郎の四九日である。
(そう、しよう。慎一郎が居たら、きっとそうした筈だ)圭吾と隼人は目と目を交わした。
「お登世さん、もうしばらく、温かくなるまでここに居てくれぬか。この馬鹿の見張りが要るのでな。また酒に手を出したら今度こそ破滅だ。ついでに家の切盛やって貰えたら、有難い」
「寒さが去るまで、お千代ちゃんの喘息も、案じられる。あ、いやこれはついでだが」
お登世は、やがて涙ぐんだ。
「ほんまに、ありがとうさんでございます。お言葉に甘えさせていただきます」
(なあ、お前がこの親子を呼び戻してくれたんだろう、慎一郎)
冬が過ぎて、春も爛漫となった、伏見城址の桃林である。
淀橋の船着場から枚方経由、一昼夜の船旅をして三十石を降りた男女四人がいた。
圭吾と隼人、お登世とお千代である。
「ほんまに、喰らわんか、喰らわんかっていいはるんどすなあ」
「餅喰らわんか、牛ん蒡汁喰らわんか、まではよかったが、はよう金出せしっみたれめが、には肝を潰した」
船中、くらわんか船に行き合い、餅と牛蒡汁を買った。容器は、一応「白磁」ではあった。だが、黄ばみ、呉須の藍色の線描も淡い。辛うじてそれと知れる、紛い物の阿蘭陀文字がその肌に漂っていた。
(波佐見か三川内か―もしかしたら有田か伊万里かどこの窯だろう?―まあ、どこでもいいか、そりゃ)
お登世と隼人が笑み交わしている。
(お千代ちゃんに字など教えていたし、な)
近頃三人は本当の親子のように見える。
くらわんかの器は、重ねて船端に置いた。こうしておけば回収され、洗われてまた使い回しされるのだ。
隼人は、お千代の手を引く。
あれから、軽い発作は数回起こしたが、お千代に砒素を用いねばならぬことはなかった。
お千代は自力で発作を乗り越えた。
圭吾と、別して隼人が渾身の看護に当った。
(伏見か。何時か行って見たいな、できれば桃の咲く頃)そう、口にしていた。
今日は『祟仁癒心居士』栗林慎一郎の四九日である。
Posted by 渋柿 at 16:40 | Comments(0)
2009年06月21日
「伏見桃片伊万里」24
遺骨を抱いて塒に戻ってくると、締めた戸の前に人影があった。
「あなた方は―」
「はい、その節はえろうお世話に」
あの、お菰の母娘だった。
「何のお礼も出来んと、恥ずしゅうて―ご無礼なことしてしまいました。亡くならはったって聞きましたもんどすから、あの先生」
「野辺の送りを済ませてきたところだ。娘さん、あれから喘息はどうだね」
慎一郎の問いに、娘が答えた。
「うち、大丈夫どした」
「この近くの居酒屋はんの薪小屋に置いてもろうてまして、あの夜ここにお医者はんがおられるっておしえてくらはったんもそこのお爺はんで」
七草の節句、粥をふるまってくれた店であった。
「ここは寒い。とにかく中へ」
「あなた方が恥ずかしいと言うなら、俺は穴でも掘って隠れにゃならん、さあ、入って」
隼人はバツが悪そうに言葉を添える。
母娘は、文机の遺骨に焼香し、合掌した。母親は登世、娘は千代と名乗った。
登世は堂島の米問屋の娘だったが、十七の年に裏店の錺職と駆落したそうである。
千代の誕生前に夫を流行病で亡くし、お菰の境遇に落ちたと言う。
(道理で、お菰さんにしちゃ、どこか妙に世間知らずなはずだ)
「ご生家を頼られたら。このように可愛い孫もおられるのだから」
小火鉢に火を熾し、鉄瓶をかけた。
「実家は米相場に失敗して潰れたんどす。二親はもうなくなりました。兄は生きてるのか死んでるのか」横顔、薄く嗤う。
亭主を亡くして、手に職もなく、幼子を抱えて、この母親―お登世が来し方つぶさに舐めたであろう辛酸。
二人にも、おぼろげ察することはできる。
おそらく、本当の地獄も見たはず。
「あなた方は―」
「はい、その節はえろうお世話に」
あの、お菰の母娘だった。
「何のお礼も出来んと、恥ずしゅうて―ご無礼なことしてしまいました。亡くならはったって聞きましたもんどすから、あの先生」
「野辺の送りを済ませてきたところだ。娘さん、あれから喘息はどうだね」
慎一郎の問いに、娘が答えた。
「うち、大丈夫どした」
「この近くの居酒屋はんの薪小屋に置いてもろうてまして、あの夜ここにお医者はんがおられるっておしえてくらはったんもそこのお爺はんで」
七草の節句、粥をふるまってくれた店であった。
「ここは寒い。とにかく中へ」
「あなた方が恥ずかしいと言うなら、俺は穴でも掘って隠れにゃならん、さあ、入って」
隼人はバツが悪そうに言葉を添える。
母娘は、文机の遺骨に焼香し、合掌した。母親は登世、娘は千代と名乗った。
登世は堂島の米問屋の娘だったが、十七の年に裏店の錺職と駆落したそうである。
千代の誕生前に夫を流行病で亡くし、お菰の境遇に落ちたと言う。
(道理で、お菰さんにしちゃ、どこか妙に世間知らずなはずだ)
「ご生家を頼られたら。このように可愛い孫もおられるのだから」
小火鉢に火を熾し、鉄瓶をかけた。
「実家は米相場に失敗して潰れたんどす。二親はもうなくなりました。兄は生きてるのか死んでるのか」横顔、薄く嗤う。
亭主を亡くして、手に職もなく、幼子を抱えて、この母親―お登世が来し方つぶさに舐めたであろう辛酸。
二人にも、おぼろげ察することはできる。
おそらく、本当の地獄も見たはず。
Posted by 渋柿 at 08:24 | Comments(0)
2009年06月20日
「伏見桃片伊万里」23
「無力無能でない人間の方が、この世にゃ少ないと思うがな。俺がこの塾にきたすぐの頃、お前に圧倒されたよ。こいつにゃ敵わないって。酒が、巧くお前を回してた」
「とんだ見掛け倒しだったな」
「俺もな」
机上の蝋燭、灯が揺らいだ。
横たわる慎一郎の童顔が、一瞬苦笑したように見えた。
「人に何んぼのこと出来るもんか。無力無能で。見っともなくて、無様で、支離滅裂で。所詮、人は泥人形の裔さ。丁寧に造られようと飛沫だろうと」
「女渦か。畜生、初めから飛沫たあ出来が違う。うん、一瞬でも、躊躇しなかった。してりゃ、死なずに済んだのに。大馬鹿野郎!」
(そう、俺はあのとき、躊躇した)
「俺は奴の患者だったか?だったとして・・患者の命が全てに優先するか?頼まれもせんのに・・医道を本気で一貫させてやがって。死んで何になる!」
(こいつは、そんな出来の良すぎる泥人形・・だった)
「そりゃ、先生は『医者は自分のためにではなく人のために生きるものだ』っておっしゃるが、な」圭吾は線香の煙を見上げた。
「ともかく、お前はまだ生きてる。俺も。情けないけどな、出来損ない同士・・やっていこう。それなりの使い道を見つけるさ、生きてりゃ。慎一郎は、この器が好きだと行っていたし」灯明の許、煮しめを盛った器を見る。
(これは、慎一郎の供養に一番、ふさわしい器だな)
翌日・塾での葬儀、隼人は自他の無言の叱責によく耐えた。
一同で庭に薪を積み上げ、荼毘に伏す。
「とんだ見掛け倒しだったな」
「俺もな」
机上の蝋燭、灯が揺らいだ。
横たわる慎一郎の童顔が、一瞬苦笑したように見えた。
「人に何んぼのこと出来るもんか。無力無能で。見っともなくて、無様で、支離滅裂で。所詮、人は泥人形の裔さ。丁寧に造られようと飛沫だろうと」
「女渦か。畜生、初めから飛沫たあ出来が違う。うん、一瞬でも、躊躇しなかった。してりゃ、死なずに済んだのに。大馬鹿野郎!」
(そう、俺はあのとき、躊躇した)
「俺は奴の患者だったか?だったとして・・患者の命が全てに優先するか?頼まれもせんのに・・医道を本気で一貫させてやがって。死んで何になる!」
(こいつは、そんな出来の良すぎる泥人形・・だった)
「そりゃ、先生は『医者は自分のためにではなく人のために生きるものだ』っておっしゃるが、な」圭吾は線香の煙を見上げた。
「ともかく、お前はまだ生きてる。俺も。情けないけどな、出来損ない同士・・やっていこう。それなりの使い道を見つけるさ、生きてりゃ。慎一郎は、この器が好きだと行っていたし」灯明の許、煮しめを盛った器を見る。
(これは、慎一郎の供養に一番、ふさわしい器だな)
翌日・塾での葬儀、隼人は自他の無言の叱責によく耐えた。
一同で庭に薪を積み上げ、荼毘に伏す。
Posted by 渋柿 at 14:26 | Comments(0)
2009年06月19日
「伏見桃片伊万里」22
師らが塾に帰って、圭吾と二人きりになっても、隼人は目を据え、ひたすら内に自分を責めていた。
「腑分けに使ってくれ。この体。死んだらすぐに。いや、生身を、じかに切り刻んでくれ。心の臓が止まらぬうちに。俺は無力無能、せめてこの体を役に立ててくれ。医者なら腑分けの経験はきっと役に立つ。せめてそれ位おまえの役に立ててくれ。そうでもしなければ、俺は―」
圭吾に、強い感情が湧きあがった。
「書けよ」斬りつけるようにいった。
「書けよ。おれが今腑分けしてやる。刃身はおまえの薬籠だな」圭吾は、隼人に矢立と紙を突きつけた。
「生きてるうちに腑分けしろ?俺の役に立ちたい?耐えられないだけのことだろ。持て余した自分の命の残り飯、人に喰わすな!」
「命の、残り飯」隼人は、圭吾の言葉の衝撃をまともに受けた。
暫く、呆然としていた。
「仕方がない、俺も付き合うか、冥土にでもなあ」
「冥土?」
「御禁制だろうが。まあ、慎一郎と三人仲良くやるか、あっちでな」
近代医療史に残る山脇東洋や杉田玄白は例外中の例外である。死体の腑分けは厳禁されている。執刀した者は、死罪という厳とした決りがあった。
「俺は、俺は・・どうすればいいんだ。」
隼人は、身を揉んで泣き出した。
慎一郎の枕辺、経机がわりにその文机を置いている。
塾の仲間が持ち寄った香炉・燭台・鈴。供物の飯の碗と、煮しめの牛蒡・大根・豆腐・蒟蒻を盛っている碗は、あの日母子が残した下手の伊万里を使った。
圭吾は線香の火を継いだ。先の線香は尽きようとしていた。朝まで香は絶やせない。
「お前は、自分を無力無能だといったな」
圭吾は小火鉢の炭を移す。
「腑分けに使ってくれ。この体。死んだらすぐに。いや、生身を、じかに切り刻んでくれ。心の臓が止まらぬうちに。俺は無力無能、せめてこの体を役に立ててくれ。医者なら腑分けの経験はきっと役に立つ。せめてそれ位おまえの役に立ててくれ。そうでもしなければ、俺は―」
圭吾に、強い感情が湧きあがった。
「書けよ」斬りつけるようにいった。
「書けよ。おれが今腑分けしてやる。刃身はおまえの薬籠だな」圭吾は、隼人に矢立と紙を突きつけた。
「生きてるうちに腑分けしろ?俺の役に立ちたい?耐えられないだけのことだろ。持て余した自分の命の残り飯、人に喰わすな!」
「命の、残り飯」隼人は、圭吾の言葉の衝撃をまともに受けた。
暫く、呆然としていた。
「仕方がない、俺も付き合うか、冥土にでもなあ」
「冥土?」
「御禁制だろうが。まあ、慎一郎と三人仲良くやるか、あっちでな」
近代医療史に残る山脇東洋や杉田玄白は例外中の例外である。死体の腑分けは厳禁されている。執刀した者は、死罪という厳とした決りがあった。
「俺は、俺は・・どうすればいいんだ。」
隼人は、身を揉んで泣き出した。
慎一郎の枕辺、経机がわりにその文机を置いている。
塾の仲間が持ち寄った香炉・燭台・鈴。供物の飯の碗と、煮しめの牛蒡・大根・豆腐・蒟蒻を盛っている碗は、あの日母子が残した下手の伊万里を使った。
圭吾は線香の火を継いだ。先の線香は尽きようとしていた。朝まで香は絶やせない。
「お前は、自分を無力無能だといったな」
圭吾は小火鉢の炭を移す。
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2009年06月19日
「伏見桃片伊万里」21
「遺書は、書く」隼人は、まだ支離滅裂なことを繰り返している。
師や相弟子たちが帰るまで、針の筵の思いではないかと案じたが、他者を慮る正常な感覚までには回復していないようである。
あの八重樫の主家、蔵屋敷には師も同道して抗議してくれた。だが、往来に突っ立ていたほうに非あり、と謝罪は薄かったという。
「しかもあの八重樫という男、すでに藩を放逐されておったわ。あ奴もう、薩摩藩と何のかかわりも無いと、のう」師は、吐き捨てるように行った。
「それは、斯様なことをしでかした故、でしょうか」
「今度の大相場で、薩摩さまは大損をなさったそうな。表向きはその責めを負ってということであったが、まあ、人一人が天下の往来で死んでおる。蔵屋敷の御重役は、これ幸いと八重樫を蜥蜴(とかげ)の尻尾(しっぽ)にしたのであろうよ」
「それにしても、今朝の今朝のことを、夕刻には放逐とは―」
「薩摩さまはこの十年、殿さま方と御世子方の、国許と江戸屋敷を根城にした暗闘があっった。そなたも噂くらいは聞いていよう。八重樫は襲封なされて日の浅い御世子派で、蔵屋敷の殿さま派からみれば邪魔でもあったらしいわ」
名医の誉れ高い師は、方々に顔が広い。
当然、かの屋敷にも知己はいたのだろう。
「とまれ八重樫は、もう罰されておる」
「はい」
「あとは、慎一郎の冥福だけを祈ろうよ」
そういって師は、最前までずっと慎一郎の通夜にともに侍っていたのだ。
師や相弟子たちが帰るまで、針の筵の思いではないかと案じたが、他者を慮る正常な感覚までには回復していないようである。
あの八重樫の主家、蔵屋敷には師も同道して抗議してくれた。だが、往来に突っ立ていたほうに非あり、と謝罪は薄かったという。
「しかもあの八重樫という男、すでに藩を放逐されておったわ。あ奴もう、薩摩藩と何のかかわりも無いと、のう」師は、吐き捨てるように行った。
「それは、斯様なことをしでかした故、でしょうか」
「今度の大相場で、薩摩さまは大損をなさったそうな。表向きはその責めを負ってということであったが、まあ、人一人が天下の往来で死んでおる。蔵屋敷の御重役は、これ幸いと八重樫を蜥蜴(とかげ)の尻尾(しっぽ)にしたのであろうよ」
「それにしても、今朝の今朝のことを、夕刻には放逐とは―」
「薩摩さまはこの十年、殿さま方と御世子方の、国許と江戸屋敷を根城にした暗闘があっった。そなたも噂くらいは聞いていよう。八重樫は襲封なされて日の浅い御世子派で、蔵屋敷の殿さま派からみれば邪魔でもあったらしいわ」
名医の誉れ高い師は、方々に顔が広い。
当然、かの屋敷にも知己はいたのだろう。
「とまれ八重樫は、もう罰されておる」
「はい」
「あとは、慎一郎の冥福だけを祈ろうよ」
そういって師は、最前までずっと慎一郎の通夜にともに侍っていたのだ。
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2009年06月18日
「伏見桃片伊万里」20
そんな馬鹿な!と全身を貫く悪寒の中で、祈るように見た瞳孔は―開いていた。
ほぼ即死だった。頭を蹴られ、額の左、頭蓋が陥没している。慎一郎を蹄に掛けた侍は、それでも下馬はしない。
「役目の上じゃ」懐中から出した文箱の紋所は丸に十文字、かの西国の大藩のものである。
(薩摩!)
年貢米を堂島の市で売りさばくために設けた、大阪蔵屋敷の使番らしい。
(早馬が頻繁に通るとは、居酒屋の親爺もいっていた)臍をかむ思いだった。
薩摩藩がこの十数年、のちにお由羅騒動と呼ばれるお家騒動の渦中にあったことは世間にも洩れている。実父に疎まれていた藩主が庶弟を抑えてやっと襲封したのは四年前、藩政を整えるために米相場だけでなく、お家芸の抜け荷にも総力を挙げているらしい。
悔やんでも悔やみきれない。
商人にとっても大名にとっても、米相場はまさに鉄火場である。早馬だけではなく、狼煙の合図も使われる。大相場が張られるのは、秋だけに限ってはいなかった。
「公用の急使ゆえゆるされよ。のちほど蔵屋敷へまいられい」
「何ぃ」気色ばんだが、侍は馬に鞭をくれた。
「せめて、名乗られい」その背に叫ぶ。
「八重樫源蔵!」殺気立っていた。
その声も馬上に遠ざかる。
隼人は、ただ呆然と立っていた。
圭吾は日記に、血を吐く文字を記している。
「無念也」
ほぼ即死だった。頭を蹴られ、額の左、頭蓋が陥没している。慎一郎を蹄に掛けた侍は、それでも下馬はしない。
「役目の上じゃ」懐中から出した文箱の紋所は丸に十文字、かの西国の大藩のものである。
(薩摩!)
年貢米を堂島の市で売りさばくために設けた、大阪蔵屋敷の使番らしい。
(早馬が頻繁に通るとは、居酒屋の親爺もいっていた)臍をかむ思いだった。
薩摩藩がこの十数年、のちにお由羅騒動と呼ばれるお家騒動の渦中にあったことは世間にも洩れている。実父に疎まれていた藩主が庶弟を抑えてやっと襲封したのは四年前、藩政を整えるために米相場だけでなく、お家芸の抜け荷にも総力を挙げているらしい。
悔やんでも悔やみきれない。
商人にとっても大名にとっても、米相場はまさに鉄火場である。早馬だけではなく、狼煙の合図も使われる。大相場が張られるのは、秋だけに限ってはいなかった。
「公用の急使ゆえゆるされよ。のちほど蔵屋敷へまいられい」
「何ぃ」気色ばんだが、侍は馬に鞭をくれた。
「せめて、名乗られい」その背に叫ぶ。
「八重樫源蔵!」殺気立っていた。
その声も馬上に遠ざかる。
隼人は、ただ呆然と立っていた。
圭吾は日記に、血を吐く文字を記している。
「無念也」
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2009年06月17日
「伏見桃片伊万里」19
離脱状態から脱した後も、隼人の心身の回復は覚束なく、目が離せなかった。それでも、少しずつ、布団を畳み、箒雑巾を持ち、と日常生活の波をゆっくり取り戻していった。
十八日には三人一緒に湯屋にも行けた。二十一日には一番早く起きて、飯を炊いた。
(このまま、酒を断てたら・・)圭吾と慎一郎に、希望が見えた。その朝・・
「味噌が、切れた」隼人が、やっと洗物を終えていった。
自分なりの、回復への努力である。
「買って来る」圭吾は慎一郎を見た。
やらせよう、と慎一郎は頷いた。
味噌は豆腐屋の一軒置いた隣、荒物屋で売っている。ふわふわと、まだ重量感のない足取りの隼人を、見送った。
その時、けたたましい蹄の音がした。
「どけ、どけ!」
早馬の疾走。 襷鉢巻も物々しい武士が騎乗していた。立ち竦む隼人。瞬時のことだった。小さな体が、横から飛び出しわが 身でそれを庇った。
慎一郎だった。
鈍い、音がして二人は蹴り飛ばされた。
流石に、馬上の武士が手綱を引き絞っていた。しかし、下馬はしない。
「慎一郎!隼人!」圭吾は駆け寄った。
馬が嘶く。
(血!)それは、隼人の血ではなかった。
尚もその両手はしっかりと隼人の肩を抱いている慎一郎の体の下に、赤いしみが出来、広がっていく。
「慎一郎!」
「うっ」うめいてやっとよろよろ立ち上がったのは、隼人だけだった。
慎一郎は、動かない。圭吾は、震える手で慎一郎の脈を見た。
(触れない!)
十八日には三人一緒に湯屋にも行けた。二十一日には一番早く起きて、飯を炊いた。
(このまま、酒を断てたら・・)圭吾と慎一郎に、希望が見えた。その朝・・
「味噌が、切れた」隼人が、やっと洗物を終えていった。
自分なりの、回復への努力である。
「買って来る」圭吾は慎一郎を見た。
やらせよう、と慎一郎は頷いた。
味噌は豆腐屋の一軒置いた隣、荒物屋で売っている。ふわふわと、まだ重量感のない足取りの隼人を、見送った。
その時、けたたましい蹄の音がした。
「どけ、どけ!」
早馬の疾走。 襷鉢巻も物々しい武士が騎乗していた。立ち竦む隼人。瞬時のことだった。小さな体が、横から飛び出しわが 身でそれを庇った。
慎一郎だった。
鈍い、音がして二人は蹴り飛ばされた。
流石に、馬上の武士が手綱を引き絞っていた。しかし、下馬はしない。
「慎一郎!隼人!」圭吾は駆け寄った。
馬が嘶く。
(血!)それは、隼人の血ではなかった。
尚もその両手はしっかりと隼人の肩を抱いている慎一郎の体の下に、赤いしみが出来、広がっていく。
「慎一郎!」
「うっ」うめいてやっとよろよろ立ち上がったのは、隼人だけだった。
慎一郎は、動かない。圭吾は、震える手で慎一郎の脈を見た。
(触れない!)
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2009年06月16日
「伏見桃片伊万里」18
「虫だ!虫!虫!」
隼人の絶叫だった。二人の感傷めいたものは吹き飛んだ。
「虫!虫!」
投げ出すように夕餉の碗と箸を置き、二階に駆け上がる。体内の酒が、切れたのだ。
今でいう離脱症状。禁断症状・退薬状態ともいう。血中に薬物が存在するのが常態となってしまった者が、薬物の摂取を突然止めると、精神的・身体的苦痛は激甚である。
酒もまぎれもない薬物、それも向精神薬なのだ。隼人ほどの大量飲酒者の血中から、急激に酒精の濃度が下がったら、それはただでは済まない。
激しい幻覚が現れていた。枯れ果てた手が布団を、畳を、わが身を払う。一昼夜の病臥で、さらにやせ衰えた手であり、体であった。
「虫、虫だあ!」無数に這い回る虫が、隼人だけには見えている。
夥しい汗であった。焦点の定まらぬ瞳。
「おい」
「落ち着け」
二人がかりで押えた。錯乱している。隼人は薬籠に這寄った。
「あっ」
薬籠を開け、細身の刃身(メス)を掴む。
「わぁー!、わぁー!」恐怖に駆られた叫びとともに、隼人は刃身を空に振った。実在せぬ虫達は、空間一杯飛び回っているらしい。
「あぶない」
涙が滲んだ。判る。こいつも医者、しかも蝕まれていったのは自分の心と体だ。何時かこうなる、そう心のどこかで判っていたのか。だから、その前にと―なのか。
「あと二三回は」
「ああ、酒が完全に抜けるまで」
「薬籠は、こいつの目から離しておこう、しばらく」
「ああ」
それから数回、隼人は夢を見たまま覚醒し、暴れた。圭吾と慎一郎は無理やり湯冷ましと重湯を飲ませ、最低限の体力の維持を図った。
後はただ押さえつけて、暴発の時が過ぎるのを待つしかなかった。
隼人が完全に正気を持って目覚めたのは、正月十三日。
隼人の絶叫だった。二人の感傷めいたものは吹き飛んだ。
「虫!虫!」
投げ出すように夕餉の碗と箸を置き、二階に駆け上がる。体内の酒が、切れたのだ。
今でいう離脱症状。禁断症状・退薬状態ともいう。血中に薬物が存在するのが常態となってしまった者が、薬物の摂取を突然止めると、精神的・身体的苦痛は激甚である。
酒もまぎれもない薬物、それも向精神薬なのだ。隼人ほどの大量飲酒者の血中から、急激に酒精の濃度が下がったら、それはただでは済まない。
激しい幻覚が現れていた。枯れ果てた手が布団を、畳を、わが身を払う。一昼夜の病臥で、さらにやせ衰えた手であり、体であった。
「虫、虫だあ!」無数に這い回る虫が、隼人だけには見えている。
夥しい汗であった。焦点の定まらぬ瞳。
「おい」
「落ち着け」
二人がかりで押えた。錯乱している。隼人は薬籠に這寄った。
「あっ」
薬籠を開け、細身の刃身(メス)を掴む。
「わぁー!、わぁー!」恐怖に駆られた叫びとともに、隼人は刃身を空に振った。実在せぬ虫達は、空間一杯飛び回っているらしい。
「あぶない」
涙が滲んだ。判る。こいつも医者、しかも蝕まれていったのは自分の心と体だ。何時かこうなる、そう心のどこかで判っていたのか。だから、その前にと―なのか。
「あと二三回は」
「ああ、酒が完全に抜けるまで」
「薬籠は、こいつの目から離しておこう、しばらく」
「ああ」
それから数回、隼人は夢を見たまま覚醒し、暴れた。圭吾と慎一郎は無理やり湯冷ましと重湯を飲ませ、最低限の体力の維持を図った。
後はただ押さえつけて、暴発の時が過ぎるのを待つしかなかった。
隼人が完全に正気を持って目覚めたのは、正月十三日。
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2009年06月16日
「伏見桃片伊万里」17
圭吾の生家でも勿論、佐賀藩領の有田・伊万里両郷の産の「伊万里」だけでなく、波佐見や三河内のものも含めて、代々くらわんか「伊万里」をも北前船に積んできた。
「どっちにしても多分、伊万里津から積出されたものではあるらしいが」そう、圭吾は説明を結んだ。
慎一郎は、ふっとため息をつく。
「それで伏見で伊万里のお宝、か。それにしても、なあ。この寒空、喘息の子、寝かせるあてでもあればよいが」
「迷惑、かけたくなかったのかな」
「いや、深い事情があったのかもしれん」
慎一郎が腕を組んだ。
「事情?」
「ああ。考えて見ろ、あの言葉遣い、とてもお菰さんとも思えんだったろ」
「まさか。ご落胤とか、お大名の。お家騒動で命を狙われた姫君・・」
「草双紙じゃあるまいし、いや待て、お大名でなくとも、お家騒動はあるな。大店の隠し子が悪番頭に追われている。―いやいやこれも草双紙か。何しろ薬礼がくらわんかのどんぶり鉢、だもんなあ」
「とうとう、名乗りもしなかった」
薄桃色の器だけが、母子との出会いが夢でも幻でもなかったことを証していた。
「温かい色をしている。本当に伏見の桃の汀なのかもな、これは」
慎一郎は碗を差し上げ、息を吐いた。
「伏見か。ああ、何時か行って見たいな、できれば桃の咲く頃」
圭吾も同じ、思えば勉学のみに明暮れてきた。互いに遊山などとは無縁のまま、上阪して三年の歳月は過ぎようとしている。
「どっちにしても多分、伊万里津から積出されたものではあるらしいが」そう、圭吾は説明を結んだ。
慎一郎は、ふっとため息をつく。
「それで伏見で伊万里のお宝、か。それにしても、なあ。この寒空、喘息の子、寝かせるあてでもあればよいが」
「迷惑、かけたくなかったのかな」
「いや、深い事情があったのかもしれん」
慎一郎が腕を組んだ。
「事情?」
「ああ。考えて見ろ、あの言葉遣い、とてもお菰さんとも思えんだったろ」
「まさか。ご落胤とか、お大名の。お家騒動で命を狙われた姫君・・」
「草双紙じゃあるまいし、いや待て、お大名でなくとも、お家騒動はあるな。大店の隠し子が悪番頭に追われている。―いやいやこれも草双紙か。何しろ薬礼がくらわんかのどんぶり鉢、だもんなあ」
「とうとう、名乗りもしなかった」
薄桃色の器だけが、母子との出会いが夢でも幻でもなかったことを証していた。
「温かい色をしている。本当に伏見の桃の汀なのかもな、これは」
慎一郎は碗を差し上げ、息を吐いた。
「伏見か。ああ、何時か行って見たいな、できれば桃の咲く頃」
圭吾も同じ、思えば勉学のみに明暮れてきた。互いに遊山などとは無縁のまま、上阪して三年の歳月は過ぎようとしている。
Posted by 渋柿 at 08:56 | Comments(0)
2009年06月15日
「伏見桃片伊万里」16
お菰の母子は、手紙ひとつ置いていくでもなく、くらわんかの器二つだけを残していた。
釜に、母親が朝炊いてくれた飯がいくらか残っていた。それを味噌汁の雑炊にして、二人で食べる。母子が残していった器で・・
「あの二人、なけなしの飯碗・・置いていっちまった。まず、これからどうやって飯食うつもりだ」圭吾は案じた。
「こりゃ、くらわんかだろ。大阪と伏見の間の、淀川の三十石船の」慎一郎が言った。
「ああ、上りは一日、下りは半日という、あれな。伏見から高瀬川の高瀬舟が―」
「京と繋がってる―伏見は水運の街、か」
「城址に桃が植えられてて、春は桃の名所でもあるらしいぞ」
「三十石船の客を相手に喰らわんかって売ってる、あの器だろ、これ」
「ああ蕎麦に餅に牛蒡汁、な」
そういった圭吾も、無論慎一郎も、淀川の船旅などしたことはない。
「街道の枚方、だったか?」
「いや、枚方だけとも限らん、伏見にもいるらしい。講釈師の見てきたような何やらによるとな、大阪夏の陣で真田幸村に追い詰められた徳川秀忠公が、助けてくれた百姓に横柄な物言い天下御免のお墨付きをだされたそうな。その使い捨ての器さ」
「これも、伊万里なのか?」
「ああ―いや、それは・・難しいな」圭吾は、口ごもりつつ、ふるさとの「旅陶器」について慎一郎に説明した。
以下、要約するとこのようなことになる。
江戸初期、有田・伊万里焼の草創期に、大量に出た面もの(失敗作)を北前船に積み、上方に売った。幾許か、金にするためである。
それが買喰いの使い捨て容器として流通した。
確かに建前では、今の皿山代官支配、有田・伊万里両郷の産で面ものは流通しないことになってはいる。が、例外のない規則はない。その上、元禄頃から、隣接する大村藩領の波佐見や平戸藩飛地の三川内辺りで大量生産がなされた。それらの地は産する陶土が繊細な加工に向かぬゆえ、使い捨てに活路を見出したのである。
数でいえば、そちらの方が圧倒的に多い。
ややこしいのは、積出港として川棚の三越浦などと共に、佐賀藩領伊万里津が使われていることだ。
伊万里郷もしくは近辺の佐賀藩領内の窯で焼かれたもののみを指すか、伊万里津から北前船で積み出された陶磁器全体を謂うか、それが「伊万里焼」の定義の広義・狭義、混乱のもととなっている。
釜に、母親が朝炊いてくれた飯がいくらか残っていた。それを味噌汁の雑炊にして、二人で食べる。母子が残していった器で・・
「あの二人、なけなしの飯碗・・置いていっちまった。まず、これからどうやって飯食うつもりだ」圭吾は案じた。
「こりゃ、くらわんかだろ。大阪と伏見の間の、淀川の三十石船の」慎一郎が言った。
「ああ、上りは一日、下りは半日という、あれな。伏見から高瀬川の高瀬舟が―」
「京と繋がってる―伏見は水運の街、か」
「城址に桃が植えられてて、春は桃の名所でもあるらしいぞ」
「三十石船の客を相手に喰らわんかって売ってる、あの器だろ、これ」
「ああ蕎麦に餅に牛蒡汁、な」
そういった圭吾も、無論慎一郎も、淀川の船旅などしたことはない。
「街道の枚方、だったか?」
「いや、枚方だけとも限らん、伏見にもいるらしい。講釈師の見てきたような何やらによるとな、大阪夏の陣で真田幸村に追い詰められた徳川秀忠公が、助けてくれた百姓に横柄な物言い天下御免のお墨付きをだされたそうな。その使い捨ての器さ」
「これも、伊万里なのか?」
「ああ―いや、それは・・難しいな」圭吾は、口ごもりつつ、ふるさとの「旅陶器」について慎一郎に説明した。
以下、要約するとこのようなことになる。
江戸初期、有田・伊万里焼の草創期に、大量に出た面もの(失敗作)を北前船に積み、上方に売った。幾許か、金にするためである。
それが買喰いの使い捨て容器として流通した。
確かに建前では、今の皿山代官支配、有田・伊万里両郷の産で面ものは流通しないことになってはいる。が、例外のない規則はない。その上、元禄頃から、隣接する大村藩領の波佐見や平戸藩飛地の三川内辺りで大量生産がなされた。それらの地は産する陶土が繊細な加工に向かぬゆえ、使い捨てに活路を見出したのである。
数でいえば、そちらの方が圧倒的に多い。
ややこしいのは、積出港として川棚の三越浦などと共に、佐賀藩領伊万里津が使われていることだ。
伊万里郷もしくは近辺の佐賀藩領内の窯で焼かれたもののみを指すか、伊万里津から北前船で積み出された陶磁器全体を謂うか、それが「伊万里焼」の定義の広義・狭義、混乱のもととなっている。
Posted by 渋柿 at 13:42 | Comments(0)
2009年06月14日
「伏見桃片伊万里」15
(もう大丈夫だ)
(半日は、眠るだろう)
安堵の笑みを交わした。
「本当に、お世話さんで」
「いや、あなた方がいなけりゃ、二階の馬鹿は間違いなくあの世に行ってた、なあ圭吾」
「ああ、命の恩人ってわけだ」
(かなりこぼしたからなあ)
(だから助かったんだ)
「あの」母親が遠慮がちに言った。「お二人とも、一睡もなさってまへん。横になりはったら」
「そうだな、そう、させてもらおうか」
「ああ」
仕舞屋の二軒先の豆腐屋は、毎朝塾の辺りまで売り歩く。折り良く天秤棒を担いで通りかかったところを呼び止め、伝言を頼んだ。
(隼人が急病で、今日三人とも塾を休む)
師は、これで多分事情を察する筈だった。
実際、欲も得もなかった。寒さも感じない。掻巻だけを被って、隼人を挟み、倒れこむように横になる。すぐに、深い眠りに落ちた。
目覚めたのは、夕刻だった。
どこにも、いなかった。
階下には娘を寝かせていた布団が畳まれていた。次の休みに纏めてやろうと溜め込んでいた大量の洗濯物も、昨日の騒ぎの汚れ物も、洗われ、干され、布団の傍らにきちんと畳まれている。
(半日は、眠るだろう)
安堵の笑みを交わした。
「本当に、お世話さんで」
「いや、あなた方がいなけりゃ、二階の馬鹿は間違いなくあの世に行ってた、なあ圭吾」
「ああ、命の恩人ってわけだ」
(かなりこぼしたからなあ)
(だから助かったんだ)
「あの」母親が遠慮がちに言った。「お二人とも、一睡もなさってまへん。横になりはったら」
「そうだな、そう、させてもらおうか」
「ああ」
仕舞屋の二軒先の豆腐屋は、毎朝塾の辺りまで売り歩く。折り良く天秤棒を担いで通りかかったところを呼び止め、伝言を頼んだ。
(隼人が急病で、今日三人とも塾を休む)
師は、これで多分事情を察する筈だった。
実際、欲も得もなかった。寒さも感じない。掻巻だけを被って、隼人を挟み、倒れこむように横になる。すぐに、深い眠りに落ちた。
目覚めたのは、夕刻だった。
どこにも、いなかった。
階下には娘を寝かせていた布団が畳まれていた。次の休みに纏めてやろうと溜め込んでいた大量の洗濯物も、昨日の騒ぎの汚れ物も、洗われ、干され、布団の傍らにきちんと畳まれている。
Posted by 渋柿 at 16:56 | Comments(2)
2009年06月14日
「伏見桃片伊万里」14
階下では、母親が飯を櫃に移していた。
「おはようさんどす。勝手なことさしてもらいまして」
「いや、助かった」
「性も根も尽き果てて・・」
「これから飯を炊くのかとうんざりしておったところだ」
二人ともまだ二十歳を過ぎたばかりの歳である。嬉しさがここは正直に声に出るのは致し方ない。
「あの、普段使ってはる器は?」
「そこに伏せてあるはずだが」
「これが―」絶句している。
(しまった)
普段に使っているのは、肥前伊万里の染付である。京大阪では、冠婚葬祭、ハレの日のみに使うような高級な品にちがいない。
「これを、普段に使ってはったんどすか」
「私は、その、実は伊万里の出なのだよ」
「そうどしたか」
母親は、いささか悄然として、染付けの器に飯と汁を盛る。
(まあ、しかたない・・か)
男所帯で捨て散らかしていた青菜の、まだ食べられるところを丹念に毟った汁の実であった。梅干と出涸らしの鰹節の小皿で、圭吾は三杯、慎一郎は四杯、飯を替えた。
気がついて、慎一郎がいった。
「自分達ばかり箸をとった。すまぬ。さあ、食べなさい。飯は残っておるかな」
「へえ」
「病人が目を覚まして、欲しがるようだったら粥にしてやるとよい、梅干を添えての」
「あの―二階のお方に」
「あいつが今、もの食べられるもんか。娘さんさ。食べたくないといったら、今は無理に勧めなくともよいが。湯冷ましなり、水気は十分に与えたがよいな」
喘息発作の苦悶から解き放たれ、娘は安らかな寝息をたてている。頬と唇に、赤味がさしていた。胸に耳をつけても、もう全く喘鳴はきこえなかった。
(もう大丈夫だ)
(半日は、眠るだろう)
安堵の笑みを交わした。
「おはようさんどす。勝手なことさしてもらいまして」
「いや、助かった」
「性も根も尽き果てて・・」
「これから飯を炊くのかとうんざりしておったところだ」
二人ともまだ二十歳を過ぎたばかりの歳である。嬉しさがここは正直に声に出るのは致し方ない。
「あの、普段使ってはる器は?」
「そこに伏せてあるはずだが」
「これが―」絶句している。
(しまった)
普段に使っているのは、肥前伊万里の染付である。京大阪では、冠婚葬祭、ハレの日のみに使うような高級な品にちがいない。
「これを、普段に使ってはったんどすか」
「私は、その、実は伊万里の出なのだよ」
「そうどしたか」
母親は、いささか悄然として、染付けの器に飯と汁を盛る。
(まあ、しかたない・・か)
男所帯で捨て散らかしていた青菜の、まだ食べられるところを丹念に毟った汁の実であった。梅干と出涸らしの鰹節の小皿で、圭吾は三杯、慎一郎は四杯、飯を替えた。
気がついて、慎一郎がいった。
「自分達ばかり箸をとった。すまぬ。さあ、食べなさい。飯は残っておるかな」
「へえ」
「病人が目を覚まして、欲しがるようだったら粥にしてやるとよい、梅干を添えての」
「あの―二階のお方に」
「あいつが今、もの食べられるもんか。娘さんさ。食べたくないといったら、今は無理に勧めなくともよいが。湯冷ましなり、水気は十分に与えたがよいな」
喘息発作の苦悶から解き放たれ、娘は安らかな寝息をたてている。頬と唇に、赤味がさしていた。胸に耳をつけても、もう全く喘鳴はきこえなかった。
(もう大丈夫だ)
(半日は、眠るだろう)
安堵の笑みを交わした。
Posted by 渋柿 at 07:17 | Comments(0)