2009年06月28日

「伏見桃片伊万里」31

 このところ、「自分のやってきたことが、間違いだったとは思わぬが―」塾を去れと、他ならぬ師が勧めていた。塾は漸く医学を逸れ、洋学塾の色彩を強めている。医学を学ぶのに最適の場所とは、もはや言いがたい、と。
(立身出世をする選択は、捨てよ。一介の医者として生涯を送るのだ。ゆくゆくは郷里の村医者になって医道をゆくがよい、か)
 師の言葉は重かった。
「まず京に出よ。そして経験を積め」
 淀川を伏見で分岐して、高瀬川を溯れば文化の先進地、京。名医は多い。そのうちの一人に師が紹介状を認めてくれた。
(自分はもちろん―)酒毒治療と称して既に開業した隼人も、本来はあと数年修業と学問が欲しい若輩である。師はそれを案じている。 
「まあ隼人も伏見に居れば、また学ぶ機会もあろうが」
 粥を、あの器に盛る。対の小。もう一つのやや大振りの器を見る。
(こっちは何時か自分の伴侶となってくれる人に、使って貰うか)
 圭吾は、七草粥の箸をとった。
 器は二つとも、桃色がかった白磁の地に花弁の紅が散り、一つは淡く、一つは青を秘めた緋が勝っている。どちらも、温かい。

 胎土と釉薬(ゆうやく)の不純物が巧まずもたらした、妙なる窯(よう)変(へん)であった。
 それが淀川水系で日々雑器として使われて、数世紀を経た。
 現在、くらわんか船の使い捨て容器・伊万里の安手は、驚くべき再評価を受けている。本来は日常の雑器。それが・・特に紅や緋を発したものを、滋潤の味わい、東南アジアの古民具風の懐深い器として、多くの数寄者(すきしゃ)が珍重している。



Posted by 渋柿 at 09:55 | Comments(0)
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