2009年06月26日
「伏見桃片伊万里」29
自分の来し方、隼人の酒毒などのくさぐさの躊躇を、お登世の据えた覚悟が押切ったのだ。身分制の厳しい時代、形だけでも長州に士籍を持つ隼人の、結婚と伏見、材木町での開業のために―師は圭吾とともに奔走してくれた。
今回訪なうと、もう隼人はすっかり町医者が板についていた。そこそこ、患家も付き始めたらしい。屏風で仕切った六畳と八畳が、待合室と診察室だった。
縁側の向こう、寒風の中に桃の樹が見えた。
「伏見では、庭木にも桃が多いんだ。実も採れるらしい。実は酒毒の患者も・・近頃何人か診てる。ここは、名代の酒どころでもあるでなあ」隼人は苦笑した。
「それに関しちゃお前以上の名医はおらん」
ふと、文机の陰を見る。
小さな厨子に『祟仁癒心居士』の位牌が納められている。
(ここにも慎一郎は、いる)
「そうだな、患者ちゅうより、一緒に酒を断つ同志だよ、俺の」
確かに伏見は、灘と並ぶ下り銘酒の酒所であった。
「よりによってとんでもない所で開業したもんだ。大丈夫か」
「酒も、そう悪いものではない」
「隼人!」
「いや、俺はもう二度と口にはせん。ただ、隠岐送りの高瀬船のな、立会いなど頼まれると・・」と隼人は彼方を見る目をした。
ここでいう高瀬船とは広義の、運河である高瀬川などで使用された底の浅い小船の総称ではなく、狭義のいわゆる『高瀬船』のことである。京で流罪となったものは、伏見までは高瀬舟、ここで三十石舟に乗換え、大阪から海路隠岐島に送られるのだ。
「人目を憚って京で見送れぬ身内が、ここで高瀬船を待つんだよ。一合、五勺、なけなしの金で極上の銘酒誂えてな。それを流人に飲ませてる。役人も目溢し。一杯の、心尽くしに・・絶望の中に微かな温もりが灯って。その虎の子、周りとわけあって。ああ、酒っていうのはこういう風に飲むものだった」
「隼人―」濶(ひろ)くなったな、と圭吾は肩を叩いてやりたい思いがする。
「あっ、八重樫源蔵にも、会ったぞ」
今回訪なうと、もう隼人はすっかり町医者が板についていた。そこそこ、患家も付き始めたらしい。屏風で仕切った六畳と八畳が、待合室と診察室だった。
縁側の向こう、寒風の中に桃の樹が見えた。
「伏見では、庭木にも桃が多いんだ。実も採れるらしい。実は酒毒の患者も・・近頃何人か診てる。ここは、名代の酒どころでもあるでなあ」隼人は苦笑した。
「それに関しちゃお前以上の名医はおらん」
ふと、文机の陰を見る。
小さな厨子に『祟仁癒心居士』の位牌が納められている。
(ここにも慎一郎は、いる)
「そうだな、患者ちゅうより、一緒に酒を断つ同志だよ、俺の」
確かに伏見は、灘と並ぶ下り銘酒の酒所であった。
「よりによってとんでもない所で開業したもんだ。大丈夫か」
「酒も、そう悪いものではない」
「隼人!」
「いや、俺はもう二度と口にはせん。ただ、隠岐送りの高瀬船のな、立会いなど頼まれると・・」と隼人は彼方を見る目をした。
ここでいう高瀬船とは広義の、運河である高瀬川などで使用された底の浅い小船の総称ではなく、狭義のいわゆる『高瀬船』のことである。京で流罪となったものは、伏見までは高瀬舟、ここで三十石舟に乗換え、大阪から海路隠岐島に送られるのだ。
「人目を憚って京で見送れぬ身内が、ここで高瀬船を待つんだよ。一合、五勺、なけなしの金で極上の銘酒誂えてな。それを流人に飲ませてる。役人も目溢し。一杯の、心尽くしに・・絶望の中に微かな温もりが灯って。その虎の子、周りとわけあって。ああ、酒っていうのはこういう風に飲むものだった」
「隼人―」濶(ひろ)くなったな、と圭吾は肩を叩いてやりたい思いがする。
「あっ、八重樫源蔵にも、会ったぞ」
Posted by 渋柿 at 08:22 | Comments(0)