2009年06月16日
「伏見桃片伊万里」18
「虫だ!虫!虫!」
隼人の絶叫だった。二人の感傷めいたものは吹き飛んだ。
「虫!虫!」
投げ出すように夕餉の碗と箸を置き、二階に駆け上がる。体内の酒が、切れたのだ。
今でいう離脱症状。禁断症状・退薬状態ともいう。血中に薬物が存在するのが常態となってしまった者が、薬物の摂取を突然止めると、精神的・身体的苦痛は激甚である。
酒もまぎれもない薬物、それも向精神薬なのだ。隼人ほどの大量飲酒者の血中から、急激に酒精の濃度が下がったら、それはただでは済まない。
激しい幻覚が現れていた。枯れ果てた手が布団を、畳を、わが身を払う。一昼夜の病臥で、さらにやせ衰えた手であり、体であった。
「虫、虫だあ!」無数に這い回る虫が、隼人だけには見えている。
夥しい汗であった。焦点の定まらぬ瞳。
「おい」
「落ち着け」
二人がかりで押えた。錯乱している。隼人は薬籠に這寄った。
「あっ」
薬籠を開け、細身の刃身(メス)を掴む。
「わぁー!、わぁー!」恐怖に駆られた叫びとともに、隼人は刃身を空に振った。実在せぬ虫達は、空間一杯飛び回っているらしい。
「あぶない」
涙が滲んだ。判る。こいつも医者、しかも蝕まれていったのは自分の心と体だ。何時かこうなる、そう心のどこかで判っていたのか。だから、その前にと―なのか。
「あと二三回は」
「ああ、酒が完全に抜けるまで」
「薬籠は、こいつの目から離しておこう、しばらく」
「ああ」
それから数回、隼人は夢を見たまま覚醒し、暴れた。圭吾と慎一郎は無理やり湯冷ましと重湯を飲ませ、最低限の体力の維持を図った。
後はただ押さえつけて、暴発の時が過ぎるのを待つしかなかった。
隼人が完全に正気を持って目覚めたのは、正月十三日。
隼人の絶叫だった。二人の感傷めいたものは吹き飛んだ。
「虫!虫!」
投げ出すように夕餉の碗と箸を置き、二階に駆け上がる。体内の酒が、切れたのだ。
今でいう離脱症状。禁断症状・退薬状態ともいう。血中に薬物が存在するのが常態となってしまった者が、薬物の摂取を突然止めると、精神的・身体的苦痛は激甚である。
酒もまぎれもない薬物、それも向精神薬なのだ。隼人ほどの大量飲酒者の血中から、急激に酒精の濃度が下がったら、それはただでは済まない。
激しい幻覚が現れていた。枯れ果てた手が布団を、畳を、わが身を払う。一昼夜の病臥で、さらにやせ衰えた手であり、体であった。
「虫、虫だあ!」無数に這い回る虫が、隼人だけには見えている。
夥しい汗であった。焦点の定まらぬ瞳。
「おい」
「落ち着け」
二人がかりで押えた。錯乱している。隼人は薬籠に這寄った。
「あっ」
薬籠を開け、細身の刃身(メス)を掴む。
「わぁー!、わぁー!」恐怖に駆られた叫びとともに、隼人は刃身を空に振った。実在せぬ虫達は、空間一杯飛び回っているらしい。
「あぶない」
涙が滲んだ。判る。こいつも医者、しかも蝕まれていったのは自分の心と体だ。何時かこうなる、そう心のどこかで判っていたのか。だから、その前にと―なのか。
「あと二三回は」
「ああ、酒が完全に抜けるまで」
「薬籠は、こいつの目から離しておこう、しばらく」
「ああ」
それから数回、隼人は夢を見たまま覚醒し、暴れた。圭吾と慎一郎は無理やり湯冷ましと重湯を飲ませ、最低限の体力の維持を図った。
後はただ押さえつけて、暴発の時が過ぎるのを待つしかなかった。
隼人が完全に正気を持って目覚めたのは、正月十三日。
Posted by 渋柿 at 19:40 | Comments(0)
2009年06月16日
「伏見桃片伊万里」17
圭吾の生家でも勿論、佐賀藩領の有田・伊万里両郷の産の「伊万里」だけでなく、波佐見や三河内のものも含めて、代々くらわんか「伊万里」をも北前船に積んできた。
「どっちにしても多分、伊万里津から積出されたものではあるらしいが」そう、圭吾は説明を結んだ。
慎一郎は、ふっとため息をつく。
「それで伏見で伊万里のお宝、か。それにしても、なあ。この寒空、喘息の子、寝かせるあてでもあればよいが」
「迷惑、かけたくなかったのかな」
「いや、深い事情があったのかもしれん」
慎一郎が腕を組んだ。
「事情?」
「ああ。考えて見ろ、あの言葉遣い、とてもお菰さんとも思えんだったろ」
「まさか。ご落胤とか、お大名の。お家騒動で命を狙われた姫君・・」
「草双紙じゃあるまいし、いや待て、お大名でなくとも、お家騒動はあるな。大店の隠し子が悪番頭に追われている。―いやいやこれも草双紙か。何しろ薬礼がくらわんかのどんぶり鉢、だもんなあ」
「とうとう、名乗りもしなかった」
薄桃色の器だけが、母子との出会いが夢でも幻でもなかったことを証していた。
「温かい色をしている。本当に伏見の桃の汀なのかもな、これは」
慎一郎は碗を差し上げ、息を吐いた。
「伏見か。ああ、何時か行って見たいな、できれば桃の咲く頃」
圭吾も同じ、思えば勉学のみに明暮れてきた。互いに遊山などとは無縁のまま、上阪して三年の歳月は過ぎようとしている。
「どっちにしても多分、伊万里津から積出されたものではあるらしいが」そう、圭吾は説明を結んだ。
慎一郎は、ふっとため息をつく。
「それで伏見で伊万里のお宝、か。それにしても、なあ。この寒空、喘息の子、寝かせるあてでもあればよいが」
「迷惑、かけたくなかったのかな」
「いや、深い事情があったのかもしれん」
慎一郎が腕を組んだ。
「事情?」
「ああ。考えて見ろ、あの言葉遣い、とてもお菰さんとも思えんだったろ」
「まさか。ご落胤とか、お大名の。お家騒動で命を狙われた姫君・・」
「草双紙じゃあるまいし、いや待て、お大名でなくとも、お家騒動はあるな。大店の隠し子が悪番頭に追われている。―いやいやこれも草双紙か。何しろ薬礼がくらわんかのどんぶり鉢、だもんなあ」
「とうとう、名乗りもしなかった」
薄桃色の器だけが、母子との出会いが夢でも幻でもなかったことを証していた。
「温かい色をしている。本当に伏見の桃の汀なのかもな、これは」
慎一郎は碗を差し上げ、息を吐いた。
「伏見か。ああ、何時か行って見たいな、できれば桃の咲く頃」
圭吾も同じ、思えば勉学のみに明暮れてきた。互いに遊山などとは無縁のまま、上阪して三年の歳月は過ぎようとしている。
Posted by 渋柿 at 08:56 | Comments(0)