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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年06月06日

「伏見桃片伊万里」5

 今までは塾生の多くが、郷里藩校等で一応医学を修めた医者だった。それが、時代ゆえか、医学を飛ばして直接洋学に飛び込む塾生も出はじめた。古参の弟子達も、語学や政治学・法学・軍事知識等の学問に目が向いている。当然、圭吾ら二十歳前後の塾生が主に治療所の診療当番に当ることになってしまった。
 食事当番はまだしも輪番が保たれたているが、診療体制としては、兄弟子は一月に数回、深夜の宿直をこなす程度である。
 この日、慎一郎が塾から帰ってきたのは、子の刻近く。急患があったという。竈はもちろん、唯一の暖である小火鉢の火種も、尽きている。米櫃の上に下げてきた風呂敷包を乗せ、冷めた雑炊をそのまま掻込んだ。
「何だ?」
「先生からお裾分け。梅干と、鰹節は到来ものらしい」
 師夫妻は折に触れ、男所帯を心遣う。隼人は、酔いつぶれている。二階から掻巻きを持ってきてかけてやるのは圭吾の日課になってしまった。
「困ったものだ。先生も案じておられた」慎一郎は圭吾の顔を見た。
「こいつ、大阪へ来るまで、自分の口にしたことはなかったらしい、酒」
「ああ。こいつ臓腑が下手に丈夫過ぎるんだ。毎日毎日、普通の胃の腑じゃ、まずここまで飲めんよ。親が存命なら、泣くぞ」
「天涯孤独、幸か不幸かな。親を早く亡くして、こいつが継ぐはずだった家は叔父御が家督しちまったっていうし」
「まあ、叔父御に育てられ、お陰で医者になれて、今も仕送りは途切れんらしい」
 叔父は二十石取りであったか、とてもゆとりある暮らしなどではない筈の中で、義理ある隼人に精一杯のことをしてくれている。
「隼人も、叔父御に義理があるな」
「叔父御にも息子が産れたってさ。国に帰りゃ、双方義理絡み、面倒も起こる。もう帰るに帰れん・・まあ、こいつも酒でも飲まなきゃやってられんか」
 塾は塾生の飲酒を禁じているが、建前。手荒い新入歓迎は習いだ。圭吾や慎一郎は終日二日酔いに苦しんだのに、隼人だけはケロリとしていた。肝の臓の性が違うらしい。
  


Posted by 渋柿 at 20:24 | Comments(0)

2009年06月06日

「伏見桃片伊万里」4

 嘉永六年甲寅という。明治維新の十余年前ということになる。堀圭吾が大阪の医塾に学んで三年目の初春であった。大阪、堂島に程近い書過(かいしょ)町の蘭学塾。ここは、その当時でも上総佐倉の佐藤泰然の順天堂と並び賞される医塾であった。
 この塾は、当初から塾生の住込みを原則としていた。圭吾が借家から通ったのは、例外である。肥前伊万里、陶器商の生家は、代々士分を金であがなっている。「鎖国」を布いていた佐賀藩領から、大阪遊学が認められたのもその故であった。但し経費の殆どは圭吾の父の負担ではあったが。父は、塾の近くの仕舞屋(しもたや)一軒丸々を借りてくれた。最初、圭吾は謝絶した。「ありがたく受けるがよい」とむしろ強く勧めたのは師である。「うちが塾生をこの狭い棟に住みこませているのは、皆が長屋など借りる余裕もないからじゃ。他意はない。暗く狭い場の方が学問が進むと言うわけもないじゃろ。ご生家に余裕があって仕舞屋を借りて貰えるなら、それにこしたことはないと思うが」師はそういった。
 塾と同じ淀橋、歩いて四半刻とかからぬ近場に、圭吾の寝起きする仕舞屋がある。台所と土間に六畳二間、二階に六畳と四畳半と、一人住まいには贅沢なほどの塒であった。
 
 七草の、縄暖簾の酒盛りの翌々日、正月の松も取れた九日の夕でのことである。
 圭吾は塾の勉学と医療をすませ、朝炊いておいた飯を残りの味噌汁に入れて雑炊にして夕餉とした。日課であった。淀橋の塾生の、多くは下級武士階層の出で炊事は苦にならぬ。
 ざっとは飯・汁も自分達で煮炊きした。木賃・米味噌塩に青物代などを折半し、当番で朝と夕餉を整えた。昼食は朝の残り。握飯の時もある。通いの圭吾は、昼だけを塾で摂る。
 仕送りと、天満の叔父から貰う小遣い、圭吾の懐は暖かい身であるから、たまさかには、酒食も友に奢れる。そのうちの一人が酔って塾に帰らなく―いや帰れなくなった。圭吾の家に泊まることが重なり、あげく深夜泥酔して訪れ上がり込んだ。そのままずるずると居ついて、共同生活の羽目になってしまったのだ。人の良い圭吾も、立派な酒乱のその村田隼人は持て余した。師は、隼人が圭吾の塒に転がり込むことを黙認し、同時に同じく栗林慎一郎に圭吾や隼人とともに起居するように命じた。慎一郎は同年ながら、今や隼人や圭吾のお目付け役のような立場になっている。
  


Posted by 渋柿 at 07:59 | Comments(0)