2009年06月03日
「伏見桃片伊万里」1
野良犬も冷え強(きつ)い川筋を避け、蹲(うずくま)って震えていた。突き刺さるような寒風が、鋭い音を立てて淀川べりから路地(ろじ)裏(うら)に吹き抜けた。まだ夕暮れ前という時刻である。
今日の商売を始めたばかりの筈の、揺れる赤提灯と縄暖簾のうちには、すでに客の酔声がしていた。それも、次第に大きくなる。
「そうさ。あれこそ、仙人だったんだ」
客の一人がそう言うと、一気に杯を干した。
「その来歴は全くわからん。とにかくどっからかやって来て、地蔵堂に寝起きしてさ。萩の城下の外れにな。なりは僧形(そうぎょう)だったな、一応。でも、本当の坊主だったかどうか。寺子屋みたいなことやってたけど、口にするのは仕舞にゃ殆ど酒でさ。酒仙(しゅせん)だなあ。揚句(あげく)にゃあ寺子は俺だけ」
縄暖簾がばたばたと鳴る。
居酒屋は狭く、小奇麗とは言い難い。壁に貼り付けてある煮しめやら焼魚やら品書の黄ばんだ紙も、何やら貧乏臭い。
紙の裏の糊は、どうやら飯粒らしい。
煮物焼物の香が混じって籠った店の中では、医者髷の若い男が三人、小半刻ほど前から入込で呑んでいた。先ほどからしきりにしゃべっている村田隼人は、その中の一人だった。 上背はあるが、痩せている。先ほどから酒でかなり饒舌である。
煤けた屏風の脇に置かれた、小火鉢の炭は、おき火になりかかけている。
「お前が長州は儀の話をするのはめずらしいがな、酒仙ちゅうより酒毒だ、そりゃ」
小柄で、医者髷が似合わぬ童顔の栗林慎一郎が答えた。先刻から、ろれつ怪しい隼人の相槌は専らこの男が勤めている。
「ああ。死んだよ。酒でな。よりによって真夏、俺が見つけたときゃ蝿がたかってて。腐臭、だったはずなんだが、酒精と交じり合って、何か芳しい香りがしてたよ。―多分極楽往生したんだろうぜ」
「お前、そのとき幾つだ」
「たしか七つだ。ませてたかな。そう、そのあとすぐ、親父が死んだんでな、間違いない。お袋が死んだのは翌年だった」
肴は餡(あん)かけ豆腐、鯖の塩焼き、風呂吹き大根などであった。隼人は、これらを殆ど口にしていない。ただ水のように杯を重ねている。
空の二合銚子が二本、そのうち三が二は隼人一人で飲んでしまっていた。
今日の商売を始めたばかりの筈の、揺れる赤提灯と縄暖簾のうちには、すでに客の酔声がしていた。それも、次第に大きくなる。
「そうさ。あれこそ、仙人だったんだ」
客の一人がそう言うと、一気に杯を干した。
「その来歴は全くわからん。とにかくどっからかやって来て、地蔵堂に寝起きしてさ。萩の城下の外れにな。なりは僧形(そうぎょう)だったな、一応。でも、本当の坊主だったかどうか。寺子屋みたいなことやってたけど、口にするのは仕舞にゃ殆ど酒でさ。酒仙(しゅせん)だなあ。揚句(あげく)にゃあ寺子は俺だけ」
縄暖簾がばたばたと鳴る。
居酒屋は狭く、小奇麗とは言い難い。壁に貼り付けてある煮しめやら焼魚やら品書の黄ばんだ紙も、何やら貧乏臭い。
紙の裏の糊は、どうやら飯粒らしい。
煮物焼物の香が混じって籠った店の中では、医者髷の若い男が三人、小半刻ほど前から入込で呑んでいた。先ほどからしきりにしゃべっている村田隼人は、その中の一人だった。 上背はあるが、痩せている。先ほどから酒でかなり饒舌である。
煤けた屏風の脇に置かれた、小火鉢の炭は、おき火になりかかけている。
「お前が長州は儀の話をするのはめずらしいがな、酒仙ちゅうより酒毒だ、そりゃ」
小柄で、医者髷が似合わぬ童顔の栗林慎一郎が答えた。先刻から、ろれつ怪しい隼人の相槌は専らこの男が勤めている。
「ああ。死んだよ。酒でな。よりによって真夏、俺が見つけたときゃ蝿がたかってて。腐臭、だったはずなんだが、酒精と交じり合って、何か芳しい香りがしてたよ。―多分極楽往生したんだろうぜ」
「お前、そのとき幾つだ」
「たしか七つだ。ませてたかな。そう、そのあとすぐ、親父が死んだんでな、間違いない。お袋が死んだのは翌年だった」
肴は餡(あん)かけ豆腐、鯖の塩焼き、風呂吹き大根などであった。隼人は、これらを殆ど口にしていない。ただ水のように杯を重ねている。
空の二合銚子が二本、そのうち三が二は隼人一人で飲んでしまっていた。
Posted by 渋柿 at 12:29 | Comments(2)