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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年06月25日

「伏見桃片伊万里」28

 夏秋が廻った。
 翌年正月七日、淀橋、圭吾の塒である。
 あれから、世の中は大きく動いていた。六月、アメリカのペリーが艦隊四隻を率いて浦賀に来航し、大砲を誇示して幕府に開国を迫ったのだ。強硬な交渉の挙句、今年返事を求めてまた来るという。鎖国をこの二百余年国是としてきた日本は、攘夷、開国と鼎がひっくり返るような騒ぎとなった。
 当然、塾の同輩の、洋学熱はさらに高まっている。

 今日の圭吾の目覚めは遅かった。もう昼近い。夜舟で深更、伏見から帰ってきたばかりなのだ。
(寝過したか。去年の七草は、慎一郎がいた、隼人もいた)
 文机には、位牌が一つ乗っている。
 圭吾の宗旨と同じ、曹洞の居士号であった。
 裏に書かれたその俗名は栗林慎一郎とある。

 荼毘に附した慎一郎の遺骨は、百カ日前に、備中足守の遺族のもとに届けた。
(村田どのが甦生なさるとあらば―慎一郎も本懐でござろう―あの子を誇りと致します、か)隼人が托した長い詫状を読んだ、老親と長兄の言葉であった。
(俺にも、向けられていた言葉だ)
 一人で粥を炊き、七草を刻む。
「七草薺(なずな)、唐土の鳥の、届かぬうちに―」
 若菜の節句の朝、鳥が囀り始める前に俎板で音をたてて若菜を刻みながら、そう唱えるらしい。郷里の肥前・伊万里にはこんな呪(まじな)いはない。京大阪では、どこでもそうするものだとお登世が教えてくれた。
 村田隼人は、伏見で町医者となった。
「何じゃぁ!酒毒に冒された脳髄だから、治療には惚れた女と所帯を持つしかない、じゃと!」と、師は隼人が自分に下した診立に、常に似ぬ爆笑をした。そして快く退塾・開業を許可してくれたのだ。  
 圭吾も援助した。隼人は感謝して、受けた。
お登世は今、隼人の妻となっている。
  


Posted by 渋柿 at 07:48 | Comments(0)