2009年06月29日
「伏見桃片伊万里」32
【次回最終回です】
無論、それは圭吾の知る所ではないが、それでも後年、桐箱を誂(あつら)えて納めている。
蓋裏には、達筆でこうある。
天目二客銘一、伏見桃片一、桃片伊万里
故郷、肥前伊万里津。
深く入りこんだ湾に注ぐ、自然堤防の河口。
「千軒在所」と呼ばれるほど陶器商人たちの白壁土蔵が建ち並ぶ。隼人が淀川の川辺で診療を続けたように、圭吾は京での修業後、伊万里川のほとり、生家の離れを改築した診療所で明治を迎えた。それからも医道没頭の歳月であり、没年は明治三九年である。
ここで、本人の言「互ひに手近にて相済ませ候」とある・・圭吾の後半生、「伏見桃片」と「桃片伊万里」で粥をともにしたであろう女性について触れる。
圭吾は当時としてはかなり晩婚であった。
妻は伊万里津から四里程離れた有田郷大里村、造酒屋に嫁いでいた叔母の娘であった。つまり圭吾には実の従妹にあたる。名は道。十五以上年下らしい。男兄弟とともに幼年より伊万里津の学塾で漢学を学んでいる。十二・三から道は圭吾につき、英語・ドイツ語・医学等を学んだ。
圭吾が藩校や京大阪で学んだのは蘭語のみの筈である。向学心に燃える若い従妹・・未来の妻に教えるため、圭吾がまず英語・ドイツ語を独学したのであろう。「随分忙しかったろうに、やっぱ圭吾さんはお道さんに惚れとったとでしょうなあ」その子孫、堀家現当主は苦笑される。
無論、それは圭吾の知る所ではないが、それでも後年、桐箱を誂(あつら)えて納めている。
蓋裏には、達筆でこうある。
天目二客銘一、伏見桃片一、桃片伊万里
故郷、肥前伊万里津。
深く入りこんだ湾に注ぐ、自然堤防の河口。
「千軒在所」と呼ばれるほど陶器商人たちの白壁土蔵が建ち並ぶ。隼人が淀川の川辺で診療を続けたように、圭吾は京での修業後、伊万里川のほとり、生家の離れを改築した診療所で明治を迎えた。それからも医道没頭の歳月であり、没年は明治三九年である。
ここで、本人の言「互ひに手近にて相済ませ候」とある・・圭吾の後半生、「伏見桃片」と「桃片伊万里」で粥をともにしたであろう女性について触れる。
圭吾は当時としてはかなり晩婚であった。
妻は伊万里津から四里程離れた有田郷大里村、造酒屋に嫁いでいた叔母の娘であった。つまり圭吾には実の従妹にあたる。名は道。十五以上年下らしい。男兄弟とともに幼年より伊万里津の学塾で漢学を学んでいる。十二・三から道は圭吾につき、英語・ドイツ語・医学等を学んだ。
圭吾が藩校や京大阪で学んだのは蘭語のみの筈である。向学心に燃える若い従妹・・未来の妻に教えるため、圭吾がまず英語・ドイツ語を独学したのであろう。「随分忙しかったろうに、やっぱ圭吾さんはお道さんに惚れとったとでしょうなあ」その子孫、堀家現当主は苦笑される。
Posted by 渋柿 at 10:43 | Comments(0)