2009年06月05日
「伏見桃片伊万里」3
親父は別に怒った風もなく、銚子と土瓶を置き、汚れた器を下げた。隼人が、また一杯を一気に呷る。
「何か食べろよ、胃の腑が荒れるぞ」
「放といてくれ」
「隼人」
「お前―」
「すまん、本当に喰えんのだ」
(こりゃあ―)
(ああ、洒落じゃ済まんぞ)
慎一郎と圭吾は瞳を交した。一人で飲むから酒量が増える、ならいっそ、と相談して今宵居酒屋へ誘った。だが結果は芳しくない。黙って茶を啜る。暮早い冬とはいえまだ宵の口、他の客はなかなか来なかった。
親父が、湯気の立つ碗を運んできた。
「これは?」
「七草粥でんがな。今日は若菜の節句、御禁裏(きんり)さまでもあがられまっせ」
「そうか、今日は七草か」
「口開けの、わしの驕り、気い悪うせんと食べてくだされ」
「それはすまん。ありがたく頂こう」
「粥なら喰えるだろ、隼人」
ああ、とはいったものの、結局隼人は小ぶりの碗の半分も食べられなかった。
遠く、蹄の音がした。この居酒屋に座を占めてから、これで三度目だろうか。往来をゆ
く早馬らしい。
「堂島の米相場か」
ここから淀川橋と中州を挟んで遠くもない地に、元禄元年に開設されたという堂島の米
穀取引所があった。「堂島の米相場」は先物取引の日本のみならず世界的先駆であった。
大名とその御用商人ら豪商が利害を或いは一致させ、或いは拮抗させつつ、大金が動き大金に動かされる場所である。
「つい先ごろ、丸に十の字さまが大相場を張られたそうですが」親爺が不安そうに言った。
「丸に―?薩摩の島津か」
「へえ。薩摩さまとか長州さまとか肥前さまとか―干拓やら新田開きで田んぼ広げはった藩が再々大相場を張られましてなあ。相場ん動きは早馬やら早飛脚で伝えまっしゃろ。馬に蹴られるお人が出ねばよろしゅうおすけどなあ。全く、物騒なこっちゃ」
刻々情勢が変わる米相場の通信には、烽火の中継まで使われたと記録にある。情報の一瞬の遅れが大損を招くリスクは、今日の相場と同じであった。
「年寄り子供は用心せねばならぬのう」
心配そうな慎一郎と圭吾を、隼人はどこか虚ろな目で見ている。
「何か食べろよ、胃の腑が荒れるぞ」
「放といてくれ」
「隼人」
「お前―」
「すまん、本当に喰えんのだ」
(こりゃあ―)
(ああ、洒落じゃ済まんぞ)
慎一郎と圭吾は瞳を交した。一人で飲むから酒量が増える、ならいっそ、と相談して今宵居酒屋へ誘った。だが結果は芳しくない。黙って茶を啜る。暮早い冬とはいえまだ宵の口、他の客はなかなか来なかった。
親父が、湯気の立つ碗を運んできた。
「これは?」
「七草粥でんがな。今日は若菜の節句、御禁裏(きんり)さまでもあがられまっせ」
「そうか、今日は七草か」
「口開けの、わしの驕り、気い悪うせんと食べてくだされ」
「それはすまん。ありがたく頂こう」
「粥なら喰えるだろ、隼人」
ああ、とはいったものの、結局隼人は小ぶりの碗の半分も食べられなかった。
遠く、蹄の音がした。この居酒屋に座を占めてから、これで三度目だろうか。往来をゆ
く早馬らしい。
「堂島の米相場か」
ここから淀川橋と中州を挟んで遠くもない地に、元禄元年に開設されたという堂島の米
穀取引所があった。「堂島の米相場」は先物取引の日本のみならず世界的先駆であった。
大名とその御用商人ら豪商が利害を或いは一致させ、或いは拮抗させつつ、大金が動き大金に動かされる場所である。
「つい先ごろ、丸に十の字さまが大相場を張られたそうですが」親爺が不安そうに言った。
「丸に―?薩摩の島津か」
「へえ。薩摩さまとか長州さまとか肥前さまとか―干拓やら新田開きで田んぼ広げはった藩が再々大相場を張られましてなあ。相場ん動きは早馬やら早飛脚で伝えまっしゃろ。馬に蹴られるお人が出ねばよろしゅうおすけどなあ。全く、物騒なこっちゃ」
刻々情勢が変わる米相場の通信には、烽火の中継まで使われたと記録にある。情報の一瞬の遅れが大損を招くリスクは、今日の相場と同じであった。
「年寄り子供は用心せねばならぬのう」
心配そうな慎一郎と圭吾を、隼人はどこか虚ろな目で見ている。
Posted by 渋柿 at 09:26 | Comments(0)