2009年06月10日
「伏見桃片伊万里」9
圭吾が寝部屋から、薬籠を抱えてくる。
「隼人、砒素はどこだ」
「四段目の、右」
確かに、決まりのものとは別に、小さな油紙に包まれた粉末があった。圭吾と慎一郎は慎重に調合した。焦る手に、粉末がしばしばこぼれる。砒素とは、鶏冠石からとれる劇薬である。ごく微量の砒素は喘息発作の、粘度の高い痰が詰り狭窄した気道を広げる。常用すれば危険だが、危機的状況下では劇的な特効薬でもあるのだ。娘の体力は尽きかけている。咳が、弱々しい喘ぎに変わっている。二度三度、薬が天秤皿からこぼした。焦るな!と思う。だが・・「ヒ―ッ」と娘ののどが鳴り、全身が痙攣した。
飲み下しさえくれれば!
娘は、何とか薬を嚥下した。
背中をさすり続け一刻が過ぎ、娘の喘鳴が消え、咳が収まった。肩の上下が止まり、呼吸も少しずつ穏やかになる。頬に血の気が戻ってきた。やがて、母親にもたれ、寝入る。
「もう大丈夫だ」
「おおきに、有難うさんでございました」
母親が、放心したように頭を下げた。
娘を布団に、そっと横たえる。
「やっぱり、この子、喘息やったんどすか」
「今まで、医者に―」見せたことがあるか、と聞きかけて止める。
「よう風邪を引く子やとは思うてました。治りもひどう悪うて。咳は辛そうで、見とるこっちも辛うおまして。でも我慢させて。けど、こんなんひどいんは初めてどす」
「咳がひどくなったときは、体を冷やさぬ静かなところで休ませて、水気を与えて、とにかく痰を切らせることだ。背中を叩いてもよい。本当は、こんなになる前に発作を鎮めるのが肝心なんだが。息が詰まらぬよう、それだけ用心をして、時を待つ。凌いでいるうちに、そう十一、二にもなれば」
「治るんどすか」
「ああ、大丈夫だ」
「子供の喘息は、大きくなれば大概自分の力で抑え込める。そのときそのとき、発作をなんどかやり過ごしていたら、時は来る。きっと治る」慎一郎も言葉を添える。
「また、こんなんこと、何度もあるんだっしゃろか?」
「とにかく、ここまでひどい発作だけは起こさないよう、それだけさ。日頃体を乾いた布でこするのもいい。それとなるべく滋養のあるものを」
母親は、しばらく俯いていた。
「あの、お薬礼んことどすけど―」母親は口ごもった。
「隼人、砒素はどこだ」
「四段目の、右」
確かに、決まりのものとは別に、小さな油紙に包まれた粉末があった。圭吾と慎一郎は慎重に調合した。焦る手に、粉末がしばしばこぼれる。砒素とは、鶏冠石からとれる劇薬である。ごく微量の砒素は喘息発作の、粘度の高い痰が詰り狭窄した気道を広げる。常用すれば危険だが、危機的状況下では劇的な特効薬でもあるのだ。娘の体力は尽きかけている。咳が、弱々しい喘ぎに変わっている。二度三度、薬が天秤皿からこぼした。焦るな!と思う。だが・・「ヒ―ッ」と娘ののどが鳴り、全身が痙攣した。
飲み下しさえくれれば!
娘は、何とか薬を嚥下した。
背中をさすり続け一刻が過ぎ、娘の喘鳴が消え、咳が収まった。肩の上下が止まり、呼吸も少しずつ穏やかになる。頬に血の気が戻ってきた。やがて、母親にもたれ、寝入る。
「もう大丈夫だ」
「おおきに、有難うさんでございました」
母親が、放心したように頭を下げた。
娘を布団に、そっと横たえる。
「やっぱり、この子、喘息やったんどすか」
「今まで、医者に―」見せたことがあるか、と聞きかけて止める。
「よう風邪を引く子やとは思うてました。治りもひどう悪うて。咳は辛そうで、見とるこっちも辛うおまして。でも我慢させて。けど、こんなんひどいんは初めてどす」
「咳がひどくなったときは、体を冷やさぬ静かなところで休ませて、水気を与えて、とにかく痰を切らせることだ。背中を叩いてもよい。本当は、こんなになる前に発作を鎮めるのが肝心なんだが。息が詰まらぬよう、それだけ用心をして、時を待つ。凌いでいるうちに、そう十一、二にもなれば」
「治るんどすか」
「ああ、大丈夫だ」
「子供の喘息は、大きくなれば大概自分の力で抑え込める。そのときそのとき、発作をなんどかやり過ごしていたら、時は来る。きっと治る」慎一郎も言葉を添える。
「また、こんなんこと、何度もあるんだっしゃろか?」
「とにかく、ここまでひどい発作だけは起こさないよう、それだけさ。日頃体を乾いた布でこするのもいい。それとなるべく滋養のあるものを」
母親は、しばらく俯いていた。
「あの、お薬礼んことどすけど―」母親は口ごもった。
Posted by 渋柿 at 20:28 | Comments(0)
2009年06月10日
「伏見桃片伊万里」8
慎一郎と圭吾は目を見交わせた。慎一郎が、努めて母子を怯えさせぬよう、穏やかに言った。隼人を叱りつける時とは別人の優しい声音であった。こんな時、童顔は役に立つ。
「実は今、ここではろくな治療が出来ぬのじゃ。ここは私達が寝泊りする場でな、薬がおいてない。治療所はここから少し離れておってな。今から薬を取りにまいらねばならぬ。あ、いや、娘御は動かさぬがよい。急いで行ってまいる。ここで暫く待って欲しい」
その間に圭吾も、己が膝に移した娘の背を、叩くように強く摩擦し続けた。
「大丈夫、行くのはこの男だけだ」
娘は喘ぐ。喉の奥、引きつる音がした。
(せめて、痰が出れば―慎一郎が治療所まで走るとして、それを待って、それから薬を調合して―)いや、間に合うまい、たぶん。
「どうか、助けて。お願いいたします、お願いどす」母親が、頭を畳に擦り付けた。
「では」慎一郎は立ち上がった。「心配要らぬ。すぐ戻る」
「間に合わんぞ」突然隼人の声がした。すっかり酔いつぶれていると思っていた。まだろれつは怪しい。
(酔っ払いめ!)圭吾は眉を顰めた。
事態が切迫していることは承知している。その上で最善を尽くそうとしているのだ。
「薬なら、ある」
隼人が、危うい足取りで立ち上がった。
「寝部屋に、俺の薬籠が・・ある」
「おまえ、こっちに薬籠置いているのか」
「ああ」助かった、と圭吾は安堵の息を吐く。
「だが」慎一郎が言いかけて止めた。
これほど激烈な喘息発作を鎮めるには、薬籠の常備薬では足りぬ。おそらく劇薬が必要だろう。
(砒素―か)暗然となる。
「大丈夫、砒素もある」隼人は続けた。
寝部屋へ、階段の方へ行く。ふらつく足取りであった。本当に危うい。
「俺が持って来る」圭吾が立ち上がった。
隼人はストンと尻餅をつく。
「調合も、やってくれ」
「当たり前だ!」圭吾と慎一郎が同時に怒鳴った。砒素は劇薬というより本来猛毒である。酔っ払いに任せられるようなものではない。
「実は今、ここではろくな治療が出来ぬのじゃ。ここは私達が寝泊りする場でな、薬がおいてない。治療所はここから少し離れておってな。今から薬を取りにまいらねばならぬ。あ、いや、娘御は動かさぬがよい。急いで行ってまいる。ここで暫く待って欲しい」
その間に圭吾も、己が膝に移した娘の背を、叩くように強く摩擦し続けた。
「大丈夫、行くのはこの男だけだ」
娘は喘ぐ。喉の奥、引きつる音がした。
(せめて、痰が出れば―慎一郎が治療所まで走るとして、それを待って、それから薬を調合して―)いや、間に合うまい、たぶん。
「どうか、助けて。お願いいたします、お願いどす」母親が、頭を畳に擦り付けた。
「では」慎一郎は立ち上がった。「心配要らぬ。すぐ戻る」
「間に合わんぞ」突然隼人の声がした。すっかり酔いつぶれていると思っていた。まだろれつは怪しい。
(酔っ払いめ!)圭吾は眉を顰めた。
事態が切迫していることは承知している。その上で最善を尽くそうとしているのだ。
「薬なら、ある」
隼人が、危うい足取りで立ち上がった。
「寝部屋に、俺の薬籠が・・ある」
「おまえ、こっちに薬籠置いているのか」
「ああ」助かった、と圭吾は安堵の息を吐く。
「だが」慎一郎が言いかけて止めた。
これほど激烈な喘息発作を鎮めるには、薬籠の常備薬では足りぬ。おそらく劇薬が必要だろう。
(砒素―か)暗然となる。
「大丈夫、砒素もある」隼人は続けた。
寝部屋へ、階段の方へ行く。ふらつく足取りであった。本当に危うい。
「俺が持って来る」圭吾が立ち上がった。
隼人はストンと尻餅をつく。
「調合も、やってくれ」
「当たり前だ!」圭吾と慎一郎が同時に怒鳴った。砒素は劇薬というより本来猛毒である。酔っ払いに任せられるようなものではない。
Posted by 渋柿 at 07:11 | Comments(0)