2009年01月11日
連載「尾張享元絵巻」1
享保(きょうほう)十六年(一七三一)五月、尾張(おわり)名古屋城、本丸である。
藩主としてはじめて先月入国した徳川宗(むね)春(はる)は、付(つけ)家老・竹腰志摩守正武の報告を聞いていた。
宗春は、当年三十四歳であった。
襲封(しゅうふう)早々尾張藩江戸屋敷での遊芸音曲鳴り物を無制限に許可し、門の出入りも昼夜随意にしてしまった破天荒な殿様である。
初入国の行装も、これまでと打って変わって華麗(かれい)奇抜(きばつ)であった。
付家老としては、少々、いや大いに頭の痛いことを仕出かしそうな予感のする殿様である。
「まこと不届き、かと」
竹腰は上目遣いにいった。
「うむ」
宗春はしばし瞑目した。
「このようなものを万病に効くとは」
「だが、騙(かた)られたという届はあるのか?」
「それが、今だに一件もござらず。まことに無知蒙昧(もうまい)の下民には、あきれはてまする」
話題になっているのは「伊吹(いぶき)御神(ごしん)湯(とう)」と称する、今で言う入浴剤である。
伊吹山は近江(おうみ)と美濃(みの)国境にあり、昔から数々の薬草が採取されてきた。ゲンノショウコ、せんぶり、熊笹(くまざさ)等の薬草の宝庫であり、薬草は中腹に多い。中でも有名なものが灸(きゅう)のもぐさの原料となる蓬(よもぎ)である。
また、伊吹山は信仰の対象でもあった。
伊吹屋(いふきや)茂(も)平(へい)という名古屋城下に店を構える商人が、販売元である。
伊吹屋は、伊吹山で採った「五木八草」の薬草を混ぜ合わせたと称する粉末を、晒(さら)しの袋に包んで麗々しく包装したものを販売している。
その売り方がそもそもご禁制の取退(とりのき)き無尽講(むじんこう)ではないかと竹腰は立腹しているのであった。
「無論、横目(よこめ)に伊吹屋の商法は調べさせました」
竹腰は、膝(ひざ)を進めた。
伊吹屋が扱う「伊吹御神湯」の「正価」は銀一枚(含有量享保期四十三匁(もんめ))である。
銀五十匁で金一両、というのが幕府が定めた金銀の交換レートであるから、たかが入浴剤としては法外な値段であった。
「正価」で御神湯を買ったものは、自動的に「伊吹講」の講中として息吹屋の帳面に登録される。講中の者が新たに御神湯を購入する新講中を募れば、売上の一割二分がその者の懐に入る。そして、自身がまた御神湯を購入するときは、正価から一割二分引いた値段で買える。自分が「新講中」にした者がまた新たに「講中」を創れば最初の講中に正価の二割四分が支払われ、自身がまた購入するときの代金も正価の二割四分引きとなる。以下、子孫曾(ひ)孫と講中のピラミッドが出来ていけば、最終的には元親の講中に正価の六割までが転がり込む。購入代金も六割引きとなる。全くのねずみ算で講中は増える。
すぐに、新しく「講中」に誘う人間がいなくなる。行き詰まってしまう話である。
「六割引き」の優遇を実際に受けられるのはほんの一握り、ごく初期に「講中」になったものだけであるのは、理の当然である。
Posted by 渋柿 at 08:36 | Comments(1)