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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年01月25日

「尾張享元絵巻」19

 滝川と石川は、呆(ほう)けたように不如帰の声を聞いている。
「おお、思わぬ世間話に時を過ごしたの。なんの、茶飲みの馬鹿話よ。放念してくれい」
「ははっ」
「上使、大儀」
宗春は座を立った。
 竹腰は書院に残っている。幕府側の付家老として上使たちと善後策を相談するのであろう。
「後は野となれ、か」
 不如帰が啼(な)いた。
 
 結果として、それでも七年、宗春は藩主の座にあった。
 密かに将軍吉宗側と連絡を取っている竹腰正武によれば、領内における宗春の人気が熱狂的なので、公(おおやけ)の措置を取りかねて数年が過ぎたということである。
 八代将軍吉宗は、決してただ闇雲(やみくも)に「倹約、倹約」とのみ唱えていたわけではない。彼にとって、この七年は試練の連続であった。
 この年、享保十七年夏から冷害と、イナゴ、ウンカの大発生であった。世に言う「享保の大飢饉」である。西国、特に瀬戸内海沿岸の凶作は数年続いた。「徳川実記」はこの間の餓死者を九十七万人と記している。その撫恤に吉宗は心胆を砕いた。
 飢饉が去れば、物価一般の高騰と下落の一途を辿る米価の問題が深刻となった。原因は勿論、武士のみならず農民町人すべての生活水準の向上と消費生活の拡大である。米を財源の基礎とする幕府の長として、吉宗は様々な策を講じた。米以外の物価の引き下げを命じるいわゆる「物価引下げ令」はすでに享保九年に出されていた。それに加えて米価を上げて年貢米を高く換金して財源とするために、吉宗は大坂堂島に米市場を開き、仮需要をふやした。供給過剰を防ぐために江戸大坂への廻米を制限する「置米令」なども出した。享保二〇年には、米の公定価格を定めて強引にその線まで米価を引き上げようとさえした。
 なりふり構わず米価を引き上げようとする吉宗を、世間では「米将軍」揶揄し、嘲笑した。
 その他にも、将軍就任間もない享保七年には、吉宗自ら大広間で頭を下げ、諸大名に「石高一万石につき米百石」を幕府に献米してほしいと頭を下げて「上米令」を出している。更に年貢の増徴のための「定免法」の強制、増収のための新田の開発・・と吉宗は困窮の極みの幕府財政を立て直すために、満身創痍の悲愴な戦いを続けていた。
 そこに宗春の反抗である。
 幕府・・吉宗にとっては、許しがたいことであった。
 毒を飼おうという声もあったという。
 過去徳川将軍の意向で毒殺されたという噂のある大名を五指に余り宗春は知っている。
毒害の案は最終的に吉宗が退けたという。この間、宗春は嫡子・国丸を流行り病で失っている。翌年、男子を得るが世を早めた。
  


Posted by 渋柿 at 13:39 | Comments(0)