2009年01月16日
「尾張享元絵巻」10
尾張徳川家の菩提寺建中(けんちゅう)寺への参詣の際も宗春は人々の度肝(どぎも)を抜く奇抜な衣装を着用した。行きは紅色(べにいろ)緋(ひ)縮緬(ちりめん)のくくり染めの装束に紅色の頭巾(ずきん)、帰りは白(しろ)練(ね)りの着物を着流し、帯は前結びにして二間(一間は一・八メートル)の長煙管(ながぎせる)の先を茶坊主に担がせ煙草の煙をくゆらせた。
名古屋城下は、この豪放な「殿さま」に拍手喝采した。
宗春は、自分自身の遊興だけに寛大であったのではない。
遊女町も、願い出る者があれば全て許可した。
家中の士の廓通(くるわがよ)いも黙認した。
歌舞伎・芝居の興行も、積極的に勧めた。
将軍の緊縮政策によって火の消えたようになっていた中で、名古屋だけがあかあかと灯(ひ)がともったようであった。そのことがどんなに吉宗を刺激していたか・・。
江戸時代、幕府体制そのものを維持しようとする「改革者」と、一藩、一都市の治安、繁栄をねがう地域行政官との対立は宿命である。
吉宗を始とする江戸後期以降の改革者たちの最終的な狙(ねら)いは、江戸をはじめとする主要都市の衰亡であった。都市が繁栄し、多くの消費人口を抱える力を持つ以上、農民は田畑を離れて都市に吸い寄せられ、農村が衰亡する。幕府経済の根本を農村が生産する米をはじめとした農産物に置いている以上、幕府の財政の建て直しとは、農村人口の維持増加であり、そのためには都市を衰亡させねばならないのである。
とまれ享保十六年の夏秋、宗春の治政下の名古屋は空前の繁栄であった。
秋、十月。深井の森は、楓(かえで)、錦(にしき)木(ぎ)、蔦(つた)、漆(うるし)で真っ赤に染まっている。昼下がり、時折の風に紅葉が池の水面に散り、鮮やかな模様を創る。
この日、宗春は気に入りの星野織部に相手をさせ、昼酒をたしなんでいた。
鶉(うずら)のつくね、炙(あぶ)った猪肉、兎肉は昨日織部らと行なった鷹狩の獲物である。
余談。
まさか鷹を使って猪は取れぬ。戦乱が絶えたこの時代の鷹狩である。鷹も勿論(もちろん)用いはするが、大名等の鷹狩には、槍、鉄砲も使う軍事演習という側面もあった。その証左、当時鷹狩の別名を鉄砲殺生と称した。
吉宗と宗春の共通点には、卑母所生(ひぼしょせい)の末子という他に、鷹狩を大いに好んだということもある。
生母の出自は、宿命的に二人の立場を峻別(しゅんべつ)している。
しかし、遠祖家康は、最晩年まで鷹狩を好んだという。
鷹狩りの点において、二人は等しく、家康の血を濃く受け継いだもの同士でもあった。
名古屋城下は、この豪放な「殿さま」に拍手喝采した。
宗春は、自分自身の遊興だけに寛大であったのではない。
遊女町も、願い出る者があれば全て許可した。
家中の士の廓通(くるわがよ)いも黙認した。
歌舞伎・芝居の興行も、積極的に勧めた。
将軍の緊縮政策によって火の消えたようになっていた中で、名古屋だけがあかあかと灯(ひ)がともったようであった。そのことがどんなに吉宗を刺激していたか・・。
江戸時代、幕府体制そのものを維持しようとする「改革者」と、一藩、一都市の治安、繁栄をねがう地域行政官との対立は宿命である。
吉宗を始とする江戸後期以降の改革者たちの最終的な狙(ねら)いは、江戸をはじめとする主要都市の衰亡であった。都市が繁栄し、多くの消費人口を抱える力を持つ以上、農民は田畑を離れて都市に吸い寄せられ、農村が衰亡する。幕府経済の根本を農村が生産する米をはじめとした農産物に置いている以上、幕府の財政の建て直しとは、農村人口の維持増加であり、そのためには都市を衰亡させねばならないのである。
とまれ享保十六年の夏秋、宗春の治政下の名古屋は空前の繁栄であった。
秋、十月。深井の森は、楓(かえで)、錦(にしき)木(ぎ)、蔦(つた)、漆(うるし)で真っ赤に染まっている。昼下がり、時折の風に紅葉が池の水面に散り、鮮やかな模様を創る。
この日、宗春は気に入りの星野織部に相手をさせ、昼酒をたしなんでいた。
鶉(うずら)のつくね、炙(あぶ)った猪肉、兎肉は昨日織部らと行なった鷹狩の獲物である。
余談。
まさか鷹を使って猪は取れぬ。戦乱が絶えたこの時代の鷹狩である。鷹も勿論(もちろん)用いはするが、大名等の鷹狩には、槍、鉄砲も使う軍事演習という側面もあった。その証左、当時鷹狩の別名を鉄砲殺生と称した。
吉宗と宗春の共通点には、卑母所生(ひぼしょせい)の末子という他に、鷹狩を大いに好んだということもある。
生母の出自は、宿命的に二人の立場を峻別(しゅんべつ)している。
しかし、遠祖家康は、最晩年まで鷹狩を好んだという。
鷹狩りの点において、二人は等しく、家康の血を濃く受け継いだもの同士でもあった。
Posted by 渋柿 at 16:34 | Comments(0)
2009年01月16日
連載「尾張享元絵巻」9
御深井の丸から戻ると、宗春は姫のため停止(ちょうじ)された祭りを行なうよう、改めて触れを出した。八月二十二日から二十三日の一昼夜、町中の踊り組二百あまりを次々に城内に呼んで踊らせて見物し、褒美の金を与えた。その金の出所は、実は伊吹屋である。茶室を辞するとき伊吹屋は、
「ほんの手土産(てみやげ)をお小姓の方にお預けしております」
といって帰っていった。
小姓の星野(ほしの)織部(おりべ)が困惑した表情で宗春の傍らに寄り、告げた。
「千両箱を五つ・・置いてまいりました・・」
「貰うておけ。きゃつの儲けのほんの一部であろう。下々の喜びのために遣おうよ」
宗春はさらりと言ってのけた。
(伊吹屋の身元、いま少し詳しく調べさせた方がよさそうじゃな)
自分の施策が、質素倹約によって揺らぎかけた幕府をたて直そうとしている将軍吉宗といずれ鋭く対立することを、まだ宗春は気付いていない。
宗春は藩主の座に就(つ)くにあたって「温知政要」という書を著(あら)わし、藩士たちに配った。
藩士たちを訓戒する、という形をとっているが、自分がどのような姿勢、政治方針で藩政に望むか一種のマニュフェストといてもよい。平易な文章に、宗春の面目が躍如。
曰(いわ)く、
「自分の好みを、人に押し付けるな。人にはそれぞれの好みがあるを認めるを、仁(じん)という」
従来、この「温知政要」は質素倹約一点張りの吉宗への皮肉と批判の書とされてきた。
筆者は、その解釈をとらぬ。
宗春も吉宗も生母の出自は低い。が、吉宗の母は農民の娘、宗春の母は商家の娘という違いがあった。
原則自給自足、倹約が最上の美徳の農民と違い、商人(あきんど)は他者の活発な消費がなければ成り立たぬ。人格形成に大きく影響するのは、やはり母親の存在であろう。商人は行政の規制を好まぬ。人々が倹約して消耗品を長く使い続けるとしたら、商品は動かず商売は「あがったり」である。重箱の隅をつつくように介入することは「かえつて下の痛み」。
もう一つ、肥沃(ひよく)な濃尾(のうび)平野を抱え、吉宗の産まれた紀州よりずっと「もの成り」の豊かな尾張の人々は、身分の上下を問わず「質素倹約」といわれても、ぴんと来なかったというのが実情であろう。なにしろ三十袋銀一枚の「伊吹御神湯」が伊吹屋の連鎖販売商法にもかかわらず十年売れ続けた土地である。
紀州は、尾張ほど富んではいない。
財政は、一時期、最悪であった。渋る幕府に頼み込み、借金までした。
吉宗の兄綱紀(つなのり)は、五代将軍綱(つな)吉(よし)の唯一の子女鶴姫を娶(めと)ったため、一時は六代将軍の候補に擬されもした。だが、そのため莫大な交際費が要った。
火災で藩邸の新築、鶴姫、綱紀、隠居の光貞、次兄の頼(より)職(よし)と続いた不幸のための葬儀の費用、藩財政の圧迫。吉宗が紀州藩主となったとき財政は破産寸前となっていた。それを吉宗は徹底した質素倹約で切り抜け、名君の誉(ほま)れをもって将軍の座に就いた。
商人の側の宗春の発想と、農民の出の母を持つ吉宗のそれとが、相(あい)容(いれ)ぬものであったのは必然であろう。
「ほんの手土産(てみやげ)をお小姓の方にお預けしております」
といって帰っていった。
小姓の星野(ほしの)織部(おりべ)が困惑した表情で宗春の傍らに寄り、告げた。
「千両箱を五つ・・置いてまいりました・・」
「貰うておけ。きゃつの儲けのほんの一部であろう。下々の喜びのために遣おうよ」
宗春はさらりと言ってのけた。
(伊吹屋の身元、いま少し詳しく調べさせた方がよさそうじゃな)
自分の施策が、質素倹約によって揺らぎかけた幕府をたて直そうとしている将軍吉宗といずれ鋭く対立することを、まだ宗春は気付いていない。
宗春は藩主の座に就(つ)くにあたって「温知政要」という書を著(あら)わし、藩士たちに配った。
藩士たちを訓戒する、という形をとっているが、自分がどのような姿勢、政治方針で藩政に望むか一種のマニュフェストといてもよい。平易な文章に、宗春の面目が躍如。
曰(いわ)く、
「自分の好みを、人に押し付けるな。人にはそれぞれの好みがあるを認めるを、仁(じん)という」
従来、この「温知政要」は質素倹約一点張りの吉宗への皮肉と批判の書とされてきた。
筆者は、その解釈をとらぬ。
宗春も吉宗も生母の出自は低い。が、吉宗の母は農民の娘、宗春の母は商家の娘という違いがあった。
原則自給自足、倹約が最上の美徳の農民と違い、商人(あきんど)は他者の活発な消費がなければ成り立たぬ。人格形成に大きく影響するのは、やはり母親の存在であろう。商人は行政の規制を好まぬ。人々が倹約して消耗品を長く使い続けるとしたら、商品は動かず商売は「あがったり」である。重箱の隅をつつくように介入することは「かえつて下の痛み」。
もう一つ、肥沃(ひよく)な濃尾(のうび)平野を抱え、吉宗の産まれた紀州よりずっと「もの成り」の豊かな尾張の人々は、身分の上下を問わず「質素倹約」といわれても、ぴんと来なかったというのが実情であろう。なにしろ三十袋銀一枚の「伊吹御神湯」が伊吹屋の連鎖販売商法にもかかわらず十年売れ続けた土地である。
紀州は、尾張ほど富んではいない。
財政は、一時期、最悪であった。渋る幕府に頼み込み、借金までした。
吉宗の兄綱紀(つなのり)は、五代将軍綱(つな)吉(よし)の唯一の子女鶴姫を娶(めと)ったため、一時は六代将軍の候補に擬されもした。だが、そのため莫大な交際費が要った。
火災で藩邸の新築、鶴姫、綱紀、隠居の光貞、次兄の頼(より)職(よし)と続いた不幸のための葬儀の費用、藩財政の圧迫。吉宗が紀州藩主となったとき財政は破産寸前となっていた。それを吉宗は徹底した質素倹約で切り抜け、名君の誉(ほま)れをもって将軍の座に就いた。
商人の側の宗春の発想と、農民の出の母を持つ吉宗のそれとが、相(あい)容(いれ)ぬものであったのは必然であろう。
Posted by 渋柿 at 06:57 | Comments(0)