スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新の無いブログに表示されています。
新しい記事を書くことで広告が消せます。
  

Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年01月28日

「尾張享元絵巻」22

「躬の考えが全てまちごうておったとは、今も思っておらぬ。名古屋の町の繁栄は、身の誇り。だが、将軍家に逆らい抜いて今の台所事情じゃ。躬は罰を受けねばならぬ。ただ、藩の血筋を守るために・・躬の隠居謹慎をその方らから・・嘆願してほしいのじゃ」
 一陣の秋風。さっと紅葉が池に散る。宗春は落ち葉の上の星野織部と千村親平に向き直った。
「織部、親平、その方らは躬の左右の腕であった。躬に連座しての厳罰があろう。許せ」
 
 元文四年四月、出府。
 これが藩主として最後の参勤交代、城を出てから乗物の戸を細く開け、宗春は賑(にぎ)わう名古屋の町の様子を、目に焼き付けた。
(悔いは、ない)
 
 江戸で、春が過ぎ、夏が過ぎた。まだ、将軍からの譴責使(けんせきし)は来ない。
 竹腰に聞く。
「すべて、お上の手はずは、整っております。ただ―」
「ただ、何なのじゃ?」
「将軍家が、お待ちなのです」
「待つ、何を?」
(自分の自裁をか?)と、宗春は静かに竹腰を見る。正式の譴責使を受ける前に自裁せよとの内意なら、すぐにでも死んでみせる。
「判りませぬ。ただ、年明けまで待て、と」
「年明け?」
「年明け早々に、譴責使が下されるか、或いは家老一同が御城中に呼び出されることは間違いありません」
「将軍家は・・」
 吉宗は何を待っているのか
 これも罰か、と思った。覚悟を決めて俎板(まないた)に登った者を、一思いに処分せず、生殺し、焦燥の極みの中に身を置かせる。
 自分が売った喧嘩を思えば、この付加刑も甘んじて受けねばならぬ。
 宗春は、ついに正室を持たなかった。
 側室所生(しょせい)の子女はほとんど夭折させたが、ただ一人今年三歳になる八重姫がいる。幕法には連座の制がある。女子ゆえ見逃されるであろうと宗春は念じているが、八重姫とその生母の運命は、宗春の処分が確定するまで定まらない。
それだけが心残りだった。
 一人座して思う。
 徳川幕府を存続させるためには吉宗は、吉宗の道を進むしかなかった。
(躬も、所詮、自分の好む事を将軍家に押し付けようとしたに過ぎぬ)
 反省は人を謙虚にする。
(考えが、浅かった)
 居直りとは違う。謙虚な気持ちで、今の宗春は譴責をまっている。
  


Posted by 渋柿 at 12:51 | Comments(0)