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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年01月13日

連載「尾張享元絵巻」5

襲封してすぐ、尾張藩江戸屋敷にあった宗春は、江戸城黒書院で八代将軍吉宗と御対顔を果たした。
「わが名より宗の一字を与える。これより宗春と名乗れ」これまで主計頭(かずえのかみ)通(みち)春(はる)と称していた宗春の、平伏した頭上に、力強い声が響いた
「ははっ」頭をあげて、吉宗の顔を見た。
宗春は、正徳三年(一七一三)先代将軍家継に拝謁して譜代衆(将軍直接の家来)となり、江戸城中に詰所(つめしょ)を賜(たまわ)った。また、二年前には吉宗自身によって、奥州梁川三万石を与えられている。吉宗とはこれが初対面ではなかったが、今までその顔をはっきりと見たことはなかった。
(ぷっ)噂どおり、美男とは程遠い、疱瘡(ほうそう)のあばたの残る異相であった。吉宗の生母は稀代(きだい)の醜女(しこめ)で、酔って手をつけた紀州三代光(みつ)貞(さだ)自身が、懐妊を告げられて狼狽したという話は名高い。しかも、身につけている衣服は、見るからに野暮ったい木綿物であった。
(田舎者じゃな)尾張家江戸屋敷で生まれ育った宗春である。元服まで江戸を知らず、紀州で育ったという吉宗に、ふと軽い侮(あなど)りを覚えた。
(城中の主となられてからも、倹約、倹約とのみおっしゃるそうじゃが・・)老中はじめ幕閣には、やはり木綿着用を命じ、絹物で御前に出た某老中を叱責したという話もあった。だが、御三家や大藩の大名には、未だ強制も叱責もない。
 無論、宗春は熨斗目(のしめ)も袴も、つややかな絹物を着用している。服飾の趣味に自信のある宗春が、自ら選んだ今日の装いであった。
「余も、紀州(きしゅう)の末子に生まれ、兄達の早世で藩を継いだ。そちも長い部屋住み・・であったな」
「はっ」
 自分と同じ、庶民と較べれば苦労とは言えないにしても・・部屋住みの冷や飯の味を知っている吉宗の言葉は、暖かく響いた。
「体をいとい、治世長く励んでくれい」尾張藩主の相次ぐ急病死をいっている。
「はっ、宗春身命をとしまして」 宗春は頬を紅潮させて応えた。
「時に・・」吉宗は宗春の、鮮やかな群青の熨斗目の袖を見た。「京の公(きん)達(だち)のように雅(みやび)なよそおいじゃな」
「はっ」
「美丈夫のそちによく似合うておる」
「恐れ入り奉ります」
「じゃがな、わが家は武門、ちと、そぐわぬやもなあ」
一瞬、宗春の背筋に、冷たいものが走った。
「いや、近頃は陸奥守も加賀宰相も、そのような色合いを好んでおる。今様のはやりじゃろうて」 そう言って、吉宗は笑顔を見せる。「くれぐれも、体をいとい、末永うの」
「はっ」
その御対顔の時のことを、宗春は太守として尾張に初入府してからも繰り返し夢に見た。
(よい歳をして夢にまで?)
 宗春はそのたび苦笑する。
夢の中の吉宗の顔は・・兄に似て兄より慕わしいときがあり、また、瞬く間に父、兄、甥までを奪い去った死神に通ずる、恐ろしさを感じさせるときもあった。
  


Posted by 渋柿 at 18:41 | Comments(0)

2009年01月13日

連載「尾張享元絵巻」4

「寺社の、札・・」
「ただの木切れ、紙切れであろう。薬師(やくし)如来(にょらい)のお札も水(すい)天宮(てんぐう)のお札も、万病に効く、安産間違いなし、というて、数百年来売られておる。伊吹屋の伊吹御神湯とやらいうも、信心と同じよ。霊験(れいげん)あらたかな伊吹山の五木八草なりと固く信じて湯浴(ゆあ)みをして・・治る気の病もあろうよ。よほどの重病人でもなくば、蓬の湯に浸かってよもや体に害はあるまい。せいぜい風呂桶の傷みが早いというが関の山よ。土台、最初に銀一枚も出せる者に、その日暮らしの貧乏人はおらぬ道理ではないか。いわば金持ちの道楽、お上が費(つい)えの心配をしてやることもなかろうて。ただし、無理に講中にさそわれて金に困ったとか、断っても断っても勧められて困る、という訴えが一件でもあらばそのときは、考えねばならぬがのう」
「はっ」
「民(たみ)が納得ずくで高値の御神湯を求めるとあらば、いたし方はない。まこと万病に効くと信じて人に勧めるのも、止めることはなるまい。当人は誠心誠意、世のため人のためと信じているのであろうからのう。世に言う取退き無尽講とやらと違(ちご)うて、子、孫を募るものが一儲けしようなどと、さらさら考えもおらぬゆえ、騙られた、だまされたという訴えもなきことわりよ」  
「万病に効くと信じて、病にかかりても御神湯に浸かり続けるばかりにて・・医者にかかったときには手遅れであった者も、この十年かなりおったはずと」
「それも、神信心と同じ、当人の考えの果てであろう。医者にも匙(さじ)違いでみすみす助かる命をあやめるということも現に皆無ではあるまい」
病気の治療法の選択は、自己責任である。自分を被害者と自覚する人間が、現実に存在していないのだ。行政は介入できぬ。これは宗春の堅い信念であった。
 
宗春は、昨年兄継友の死去により尾張藩第七代藩主となった。第三代藩主徳川綱(つな)誠(のり)の二十男・・本来、尾張の太守の座からはるか遠く、望むべくもない存在であった。ところが父の跡(あと)を継いだ長兄吉通(よしみち)、その長男五郎(ごろう)太(た)、そして夭折(ようせつ)した五郎太の跡を継いだ吉通の弟継友と、三代に亙(わた)る藩主が不審な急病で次々と死んで、宗春に藩主の座がめぐってきた。そこに幸運以上の何かがあったとのささやきが藩内外にあることも宗春は知っている
「身の運がただの幸運ではないとすれば、今の将軍家の強運も裏に何かあると申すか」
 宗春は笑い飛ばした。八代将軍徳川吉宗(よしむね)。家格では尾張家に一歩を譲る紀州(きしゅう)家二代藩主徳川光(みつ)貞(さだ)の晩年の四男に生まれた。こちらも長兄、次兄の早世で藩主となり、七代将軍の八歳での夭折を受け、宗春の兄継友と競(せ)り勝って、まんまと八代将軍の座を射止めた。
 身分低く寵(ちょう)薄い側室所生の末子という自分とよく似た出自に、宗春は吉宗に妙な親しみさえ感じている。
  


Posted by 渋柿 at 07:28 | Comments(0)