2009年01月27日

「尾張享元絵巻」21

元文三年、晩秋。宗春は御深井の丸に紅葉狩りの席を設けさせた。
相伴は家老竹腰志摩守正武と、同じく付家老の成瀬(なるせ)隼人(はやと)正(のしょう)正(まさ)太(ひろ)。また重臣の成瀬志摩(しま)守(のかみ)、成瀬大和(やまと)守(のかみ)、成瀬豊前(ぶぜんの)守(かみ)、河村兵馬もそこにあった。宗春の股肱の寵臣(ちょうしん)星野織部・千村親平も控えている。
紅葉は蔦、錦木、漆などが例年のごとく見事である。
池には錦繍(きんしゅう)の模様が広がっている。
時折百舌が鳴いた。
一同が揃うと、酒食を運ばせる前に、宗春は切り出した。
毛氈(もうせん)の上には家老以下重臣の六人が座し、織部と親平は落ち葉の上に膝をついて控えている。
「頼みがある」
 宗春は床几(しょうぎ)に腰掛け、毛氈の上の重臣たちを見渡した。
「詳細は、竹腰が心得ておる。皆の連名・・尾張藩士の総意ということで、幕府に躬の隠居謹慎を嘆願してくれい」
「何と!」
竹腰以外、幕府の尾張藩後嗣への介入だけは防ぎたいという宗春の意中を知っている重臣はいない。成瀬以下、数十年に亙(わた)って確執のあった将軍に喧嘩を売り、後には引かぬ殿さまを、拍手喝采して支持してきたのだ。
「竹腰殿、どういうことでござる」
 五人の目が険しく竹腰に注がれた。
「そちらに諮(はか)らなんだこと、他意はない。ゆるせ」
 宗春は穏やかに言った。
「まあ、竹腰はわが血縁ゆえなあ。謀(はかりごと)は密なるを以(も)って、じゃ」
 尾張藩祖義直の生母お亀の方は、一度夫に死に別れてから家康の側にあがった。お亀の方の前夫の子、竹腰万(まん)丸(まる)も家康の手許で育てられ、長じて義直の付家老となったのである。竹腰正武はその裔(すえ)、たしかにお亀の方を通じて宗春と血はつながっている。
「はじめから躬の命じたことよ。社稷を重きと為し、君を軽きと為す、躬は竹腰にあえて獅子身中の虫となってくれと頼んだ。このままでは身に処分が降るのはもちろん、藩主に将軍の庶子を・・」
 一同、息を呑む。
「全て、躬の我儘から出たことじゃ。将軍家のご方針にしたがっておれば、お家を存亡の危機にさらすこともなかったろうが」
「殿、殿は立派に武士の意地を」
「我ら一同、殿を誇りに思いこそすれ、ご隠居の願いなど」
 思いもかけずの事態に、反論の声は当然だった。
「いや。躬が藩主の座に就いたとき、米二万八千石と金一万三千両の蓄えがあった。今は米三万六千石と金七万四千両を・・借りておる」
 一同、寂(せき)として声もない。



Posted by 渋柿 at 09:47 | Comments(0)
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