2009年01月22日

「尾張享元絵巻」16

「国(くに)丸(まる)に跡(あと)を継がせることは叶(かな)わぬかも知れぬな」茶筅(ちゃせん)をおいて、宗春は呟(つぶや)いた。
 国丸とは宗春の嫡男、正室を持たぬ宗春の、事実上の夫人の地位にある側室の産む所の男子である。
「将軍の庶子(しょし)を押し付けられることだけは、防いでくれ。国丸に支障あらば分家の中から次の藩主を、の」
 宗春の父綱(つな)誠(むね)も、祖父光友も子福者であった。尾張徳川家の分家の大名も数家ある。
「この竹腰、命に替えましても・・」竹腰は絞り出すような声で、応えた。泣いている。
「泣くな。社稷(しゃしょく)を重しと為し、君を軽しと為す。躬を裏切っても、尾張藩の社稷を守り抜くがそちの大忠ぞ」
 社は土地神、稷は穀物神。尾張藩の士農工商の民が安らかに暮らすことの重要性に較べれば、主君の重要性を顧慮する必要もない。宗春は、忠孝の聖典の一つ孟子(もうし)の言葉を引いた。
 竹腰はまだ泣いている。
「これで躬も心置きなく喧嘩ができる」
 しみじみと茶の苦味を味わいながら、宗春は碗を喫した。
 つたなく鶯が鳴いた。鯉が跳ねる音。
 釜の松風の音も、よみがえる。
 
四月、宗春は参勤交代で出府した。
亡くした姫の面影を偲(しの)び、ぐっと成長した国丸に慰められる。
思いついて、家臣に下知(げち)した。
「来月五日、国丸の節句には上屋敷を開け放ち、誰であれ身分を問わず旗幟(はたのぼり)を見物させよ」
 当然、家中は騒然となった。前例のないことである。
幟(のぼり)の中には、家宝、東照(とうしょう)神君(しんくん)家康直筆の一(ひと)竿(さお)もある。だが、宗春は押し切った。
当日は予想以上の人数が尾張藩上屋敷に押しかけ、にぎやかな節句となった。
 
そして直後に、将軍吉宗からの詰問の上使(じょうし)が訪れた。



Posted by 渋柿 at 10:35 | Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。