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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年01月18日

「尾張享元絵巻」12

 待つことしばし親平に伴(ともな)われて、伊吹屋茂平が縁下にかしこまった。
「無理にお願いをいたしまして、申し訳ござりませぬ」
「伊吹屋、久しいの。・・そこでは話もできぬ。まああがれ」
「殿!」
織部が制した。毎度、あまりに身分を無視した扱いである。
「よいではないか。商人と酒を酌交わすのではない一万両の大枚と一献汲むと思え」
「お戯れを・・」
遠慮する伊吹屋を無理に座にあげ、杯を握らせた。
「一瞥(いちべつ)以来じゃな。変わりはないか?」
「それが、商売を変えようと思ってご挨拶に参った次第で」
伊吹屋は杯を置いて平伏した。
「商売変え?儲かる伊吹御神湯をもう売らぬのか?」
「いえ、御神湯は売り続けます。ただ、手前と老妻それに番頭、手代の店でだけ商い、人鎖りの売り方はやめまする」
「まあ、あまり誉められた売り方ではなかったからのう」
「それと、売値も下げまする」
 気付いて、織部が酒器を上げ、伊吹屋は恐縮しながら杯を持った。杯に満たされた酒を一気に呷(あお)り、伊吹屋は言葉を継いだ。
「三十袋入りで五十文と・・いたします」
「何、五十文!」
 宗春は思わず奇声をあげた。元禄(げんろく)(一六八八~一七〇四)の頃からできはじめたそば屋で、そば一杯が十文で食べられる。
「銀一枚から銭五十文にとは、ちかごろ大変な値下げじゃの」
「それでも儲けが出ますからくりは、お殿さまもご存知」
「うむ」
「老妻と使用人が食べていくぶんには何とかやっていけまする」
「急に・・どうしたのじゃ」
無意識に差し出した宗春の杯に、織部が酒を注ぐ。
「浄(じょう)円院(えんいん)様でございます」
「はあ?」
またも宗春は奇声を出した。
 浄円院。紀州藩三代藩主・徳川光貞の側室にして、現将軍・吉宗の生母、お由利(ゆり)の方、すでに故人の院号である。
「浄円院様はおそれながら百姓の出におわし、日々の暮らしも質素になさっておられましたとか」
「それは、躬も聞いておる」
大名家に限らず、高禄の旗本や陪臣の家庭でも、魚料理の裏は返さない。上になった面だけを食べ、裏は箸もつけずに下げる。当然、魚の片身は捨てられる。浄円院は「もったいない」と魚は裏を返して骨しか残さずきれいに食べ、残った骨に熱湯をかけて啜(すす)ったという。
「御殿の庭の蓬もよう摘まれましたとか」
「蓬・・」
「香り高く茂らせて、ご自身でお摘みになり莚(むしろ)を広げて丹念に干されたそうな」
「それを、湯に入れられたのか?」
「はい、それも毎日では風呂桶を痛めると五日に一度」
「それは、蓬莱屋より聞いた話か?」
 宗春は、にやりと笑った。
「私の前身、お調べでしたか」
 伊吹屋も苦笑する。
「無理もございませぬ。やっておる事が事でございますからなあ」
「そういうことじゃ」
「御生母様の話は、旧主からの便りに聞いたのではございませんで。商人は商人なりに、江戸にも京大坂にもつて、付き合いがございまして」
「ふうーむ、将軍家ご生母が手作りされてご使用であったとなあ」
「そう聞けば法外な商売はもう出来ませぬ」
 伊吹屋が織部の杯に注ぎながらいった。
「七代様(将軍家継)までは、お上(かみ)が倹約と仰(おっしゃ)っても、それは分に応じろという意味でございましたが」
「今の将軍家は、先代の棺(ひつぎ)が慣例どおり、まさに分相応に珠玉を用い、刀掛けをこしらえてありましたのを、質素な棺に造り直させられたお方」
織部が杯を干す。
(そうであった)
宗春がまだ譜代衆、松平通春と称していた頃の記憶、七代将軍家継は幼年ながら凛(りん)とした威を備えていた。僅(わず)か八歳の亡骸(なきがら)、生母は、せめて分相応の煌(きら)びやかさで、送ってやりたかったであろう。それを、吉宗は粗末な棺に収め直した。
(情においては、惨い・・)
華奢(きゃしゃ)な背を、精一杯伸ばしていた家継の面影を偲(しの)び、宗春は怒りを感じた。
「造り直せば、かえって費用はかさむ、だがかまわぬ、結構過ぎる慣例を破るのだ、という思(おぼ)し召(め)しであったとか」
織部は、また杯を取り上げる。伊吹屋が、酌をする。
  


Posted by 渋柿 at 14:22 | Comments(0)