2009年01月22日
本殿はもと商業奉安殿
伊万里市松島町の松島神社。江戸中期、干拓前の絵図を見ると、周囲の伊万里市民センター市民会館の辺りは一面の干潟で、神社のある位置は文字通り松の生えた小島だったことがわかります。
(GHQ指令で破棄を迫られた奉安殿の中には、破棄するにしのびず、宗教的装飾を生かして納骨堂や神社に転用された建築も多々あるそうです)
松島神社は「皇紀二千六百年・八紘一宇」と刻まれた一の鳥居や、敗戦後伊万里商業の奉安殿(天皇皇后両陛下の写真を納めた建物)を移築したコンクリート造りの本殿等、地域の歴史を偲ぶよすがの建造物が残り、また現在も四季の祭りが氏子によって守られています。ことに春は参道の桜が見事で、花見の名所にもなっています。
松島町では、子どもクラブや老人クラブの会員の方々が、定期的に除草作業のボランティアをなさっています。八月三日に松島子どもクラブの除草作業が行われると聞いて取材にうかがいました。子どもクラブでは全体を四班に分け、交替で毎月一回作業を行っているそうです。まだ幾分涼しい午前六時半、軍手やタオルを持って神社に集合した子ども達と保護者は、丁寧に草を抜き拝殿周辺を掃き清めていました。
作業終了後「夏休みの宿題で子ども新聞を作るので」と六年生の逆取材を受けてびっくりしました。とりあえず、本紙伊万里有田特集欄等地域版のことを説明をします。熱心な取材に、この記事の紙面掲載が夏休みが終ってしまった後の九月になるのを、ちょっぴり残念に思いました。
【去年の佐賀新聞寄稿です】
Posted by 渋柿 at 16:29 | Comments(0)
2009年01月22日
「尾張享元絵巻」16
「国(くに)丸(まる)に跡(あと)を継がせることは叶(かな)わぬかも知れぬな」茶筅(ちゃせん)をおいて、宗春は呟(つぶや)いた。
国丸とは宗春の嫡男、正室を持たぬ宗春の、事実上の夫人の地位にある側室の産む所の男子である。
「将軍の庶子(しょし)を押し付けられることだけは、防いでくれ。国丸に支障あらば分家の中から次の藩主を、の」
宗春の父綱(つな)誠(むね)も、祖父光友も子福者であった。尾張徳川家の分家の大名も数家ある。
「この竹腰、命に替えましても・・」竹腰は絞り出すような声で、応えた。泣いている。
「泣くな。社稷(しゃしょく)を重しと為し、君を軽しと為す。躬を裏切っても、尾張藩の社稷を守り抜くがそちの大忠ぞ」
社は土地神、稷は穀物神。尾張藩の士農工商の民が安らかに暮らすことの重要性に較べれば、主君の重要性を顧慮する必要もない。宗春は、忠孝の聖典の一つ孟子(もうし)の言葉を引いた。
竹腰はまだ泣いている。
「これで躬も心置きなく喧嘩ができる」
しみじみと茶の苦味を味わいながら、宗春は碗を喫した。
つたなく鶯が鳴いた。鯉が跳ねる音。
釜の松風の音も、よみがえる。
四月、宗春は参勤交代で出府した。
亡くした姫の面影を偲(しの)び、ぐっと成長した国丸に慰められる。
思いついて、家臣に下知(げち)した。
「来月五日、国丸の節句には上屋敷を開け放ち、誰であれ身分を問わず旗幟(はたのぼり)を見物させよ」
当然、家中は騒然となった。前例のないことである。
幟(のぼり)の中には、家宝、東照(とうしょう)神君(しんくん)家康直筆の一(ひと)竿(さお)もある。だが、宗春は押し切った。
当日は予想以上の人数が尾張藩上屋敷に押しかけ、にぎやかな節句となった。
そして直後に、将軍吉宗からの詰問の上使(じょうし)が訪れた。
国丸とは宗春の嫡男、正室を持たぬ宗春の、事実上の夫人の地位にある側室の産む所の男子である。
「将軍の庶子(しょし)を押し付けられることだけは、防いでくれ。国丸に支障あらば分家の中から次の藩主を、の」
宗春の父綱(つな)誠(むね)も、祖父光友も子福者であった。尾張徳川家の分家の大名も数家ある。
「この竹腰、命に替えましても・・」竹腰は絞り出すような声で、応えた。泣いている。
「泣くな。社稷(しゃしょく)を重しと為し、君を軽しと為す。躬を裏切っても、尾張藩の社稷を守り抜くがそちの大忠ぞ」
社は土地神、稷は穀物神。尾張藩の士農工商の民が安らかに暮らすことの重要性に較べれば、主君の重要性を顧慮する必要もない。宗春は、忠孝の聖典の一つ孟子(もうし)の言葉を引いた。
竹腰はまだ泣いている。
「これで躬も心置きなく喧嘩ができる」
しみじみと茶の苦味を味わいながら、宗春は碗を喫した。
つたなく鶯が鳴いた。鯉が跳ねる音。
釜の松風の音も、よみがえる。
四月、宗春は参勤交代で出府した。
亡くした姫の面影を偲(しの)び、ぐっと成長した国丸に慰められる。
思いついて、家臣に下知(げち)した。
「来月五日、国丸の節句には上屋敷を開け放ち、誰であれ身分を問わず旗幟(はたのぼり)を見物させよ」
当然、家中は騒然となった。前例のないことである。
幟(のぼり)の中には、家宝、東照(とうしょう)神君(しんくん)家康直筆の一(ひと)竿(さお)もある。だが、宗春は押し切った。
当日は予想以上の人数が尾張藩上屋敷に押しかけ、にぎやかな節句となった。
そして直後に、将軍吉宗からの詰問の上使(じょうし)が訪れた。
Posted by 渋柿 at 10:35 | Comments(0)