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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年01月26日

「尾張享元絵巻」20

「上様には、御次男宗(むね)武(たけ)様か御四男宗尹(むねただ)様を殿の次の尾張藩主に、という思し召しがあるやにも・・」
竹腰がささやいたのは、御用取次の一人有馬氏倫が死去した享保二十年頃。
「それだけは、避けよ。何としても」
そのためには自裁せよとあらばそれも辞さぬゆえと、宗春は力を込めて竹腰を見据えた。
「心得てございます」
竹腰も、宗春の目をしっかり見つめて応えた。

享保の世は二十年で終わり、改元されて元文(げんぶん)元年(一七三六)となった。
 竹腰を通じて吉宗側の情報は入り続けた。
 なぜ、吉宗が自分の庶子を尾張藩に送りこもうとしているのか、尾張藩を骨抜きにするということ以外の理由があることも判っている。
 世子家(いえ)重(しげ)と次弟宗武、末弟宗尹の出来があまりに違いすぎる。弟二人が父に似て文武に秀でて「名君の器」といわれているのに、家重は・・常人(じょうじん)とも言い難かった。
 一時、吉宗は家重を廃嫡し、宗武を世子に替えることも考えたという。だが、長幼(ちょうよう)の序(じょ)を違(たが)えては、という幕閣(ばっかく)の多数意見と、家重の長男竹(たけ)千代(ちよ)が成長と共に英気を見せ始めたことで、家重の世子の首はつながった。
 吉宗も人の子の親、自分によく似た才気ある息子に、尾張のような大藩を与えたい・・無理はない。
(そこまで期が熟す前に)
 宗春の胸中、次第に一つの思案が定まっていった。
  


Posted by 渋柿 at 14:40 | Comments(0)