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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年01月14日

連載「尾張享元絵巻」7

「ときに、伊吹屋、ずいぶんと儲けたであろうな」
宗春は単刀直入に尋ねた。
「はっ、恐れ入ってございます」
 言葉のわりに伊吹屋の顔色に変化はない。
「いかほど、儲けた?」
「さあて・・」
 販売にかかる人件費はほとんどなく、原価もただ同然とすれば、儲けは莫大なものであろう。
「まこと伊吹御神湯とは万病を癒(いや)す効用があるものか?」
意地の悪い宗春の問いに動ぜず、伊吹屋は静かに茶を喫する。
「その前にそなた、伊吹山にて二十年の山籠りをいたしたのか?」
 宗春は問いを重ねた。
「何によらず、万病を避けるという薬やら信心やらに金をかける者は、そもそも無茶をいたしませぬ」
伊吹屋落ち着き払っての答えは、宗春の後の問いを無視していた。
(やはり、山籠りは張ったりか)
 商いのやり方がやり方である。それ位の大風呂敷は広げるであろう。
(そうであろうなあ)
「無茶、とは?」
 宗春も、息吹屋の答えにのみ、問いを重ねる。
「一月銀一枚の湯に浸かって、深酒や大食いをいたしましょうか。これだけの元を払っておるのだから、と並みのものより日々摂生(せっせい)いたしましょう」
「ほう」
「鰯(いわし)の頭もなんとやら、病は気からというもあながち嘘ではございません。これで治ると思い込んで湯に浸かり本復する者も確かにございましょう。また、子供の喘息など時期がくれば自然に治る病気も多くございます」
「・・もしおぬしが死病に取りつかれたら、いかがいたす。御神湯に浸かるか?」
「いえ、腕のよい医者を捜しまする」
「ぷっ」
あまりの正直な答えであった。
「して儲けは。金は、そのまま蓄えておるのか?」
「いえ、報謝(ほうしゃ)宿(やど)に注ぎ込みました」
「報謝宿。あれは、そちが設けたものであったか」
尾張の長(おさ)として、行倒れや身寄りのない病人、捨て子のための今でいう私設福祉施設
「報謝宿」がいくつも東海道沿いに設けられたことは知っていた。悪(あ)しきことではないので、さしたる探索は命じていない。
「ご存知の通り、尾張は江戸から伊勢(いせ)参り、京、大坂への、旅人の通り道になっております。旅の途中病気になるもの、路銀が尽きて飢えるもの、また捨て子、年寄が大勢難渋しております」
「うーむ」
「そこで街道のあちこちに、そのような者を泊め、介抱し、場合によっては働き口を世話する報謝宿を―そう、この春で七つ目でしたか、開きました」
「伊吹屋の名をもってか?」
「いいえ学のある方など、手前の商法を毛嫌いなさいます。ご幼少の頃から御聡明と名高いお殿様が去年太守になられたとうかがい、てっきり手前の商(あきな)いは愚(おろ)か、この首もなきものと覚悟いたしました」
 御定書百箇条によれば、偽薬を売った者は、引き回しの上、死罪、と定められている。
「世辞はよい」
「報謝宿に世話になっておるものは、賄(まかな)う金がこの伊吹屋から出たとは夢にも知らぬ筈(はず)でございます。そのように取り計らいました」 
「そなた・・」まことの前身は何じゃ、という問いが喉元まで出掛かった。
  


Posted by 渋柿 at 16:20 | Comments(0)

2009年01月14日

連載「尾張享元絵巻」6

「そうじゃの、折あらば躬(み)も直々(じきじき)に伊吹屋茂平と話してみたいものよ」
「な、なんと仰(おお)せられます」
「十年、破綻もせずにその商法の綱を渡ってまいったとすれば、さぞかし溜め込んでおろう。少々躬に融通してくれるやも知れぬ」
「殿お戯(たわむ)れを。騙りの上前をはねられるとは」
「戯れではない。日時はそちに任せるゆえ、伊吹屋を連れて参れ」
「捕らえるのではなく・・」
「客として招くのよ」
「―はっ」
付家老も太守の鶴の一声には逆らえぬ。
このことに限らず、宗春は竹越の杞憂(きゆう)を来たす命令を、既に多く発している。
宗春は、祭礼や祝いごとの規模を制限する倹約令を廃し、また武士の芝居見物の禁令を解いた。楽しみを与えるが藩主の務(つと)めと考えたゆえのことである。
 
夏の盛り。
御深井の丸は、名古屋城の北面に広がる、原生林を取りこんだ一郭である。
尾張初代藩主となる九男義(よし)直(なお)のために名古屋城を築いたとき、家康は城の北面に広がる湿地帯を「いざという時の逃げ場に」と教えた。
 義直はその言葉を守り、湿地の中央の沼を掘り広げて東西三丁(一丁は一〇八メートル)、南北二丁の大池とし、南岸に小島築き、湿地を乾かした。岸辺にはあずまやや茶屋を設け、外からは判らぬように危急の際の退避、逃亡や立てこもりに必要な設備を施した。深井の森という原生林の中にも、密かに逃げ道を造った。一見、城主の風流のための一郭のように見えて、その実、城の秘密の中枢なのである。
御深井の丸には、何人(なんびと)も藩主の許可なく立ち入れぬ。
 
その日、宗春はみずから亭主となって、池端の茶屋の一つにしつらいをし、伊吹屋を朝茶に招いた。今日も暑くなるのだろう、深井の森の蝉(せみ)時雨(しぐれ)がはや、かしましい。障子は開け放してあるので一面の蓮(はす)の花が見渡せる。
茶室のにじり口があいた。やせた老人が、作法どおり狭い入り口を潜り抜け、客の座まで膝行(しっこう)した。
「お招き、ありがとうございます」
白扇を畳の縁外に置き、一揖(いちゆう)するのも作法にかなう。
(武士の出、というは確かなようじゃ)
 宗春は風炉の釜にギヤマンの水差しから柄杓(ひしゃく)で数杯の水を差した。
水差しの蓋は、今朝宗春自身が、池で摘んだ緑鮮やかな蓮の葉である。床に活けてあるのも純白の蓮一輪。まだ開く前の蕾(つぼみ)である。
広口の、これもギヤマン造の夏茶碗に薄茶を立てた。蝉時雨が一段と高まる。息吹屋は自身膝行して碗をわが座に取り入れた。
「頂戴いたします」また一揖。
伊吹屋茂平は茶の心得並々ならぬと見える。
  


Posted by 渋柿 at 07:17 | Comments(0)