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Posted by さがファンブログ事務局 at 

2009年01月30日

「尾張享元絵巻」24

 だが、宗春の想いは、奥女中が次に運んだ味噌汁の碗で途切れた。寒中、薄い味噌汁ははらわたに染(し)みるほど美味であった。 伊吹屋に杯を注し、宗春も杯を受けた。 双方微(び)薫(くん)を帯びた頃伊吹屋が杯を置いた。
「ときに・・」 傍らに広げたままになっている絵巻物を見やっていった。「この絵巻に名を付けて頂きたく・・」
「躬に名を付けよ、とな」
「是非にも、お殿さまに」
「ふうむ」宗春はしばし瞑目した。「享元絵巻、はどうであろう」
「きょうげん・・?」
「享保の享、元文の元じゃ。享元は狂言にも通ずる。躬は、おわりまでのう、太郎(たろう)冠者(かじゃ)に弄(なぶ)られるきょうげんの大名でもあったのよ」
「ご謙遜が過ぎまする」
「人の世は筋のない狂言よ。そのなかで民にいささかの慰めを与えられたとすれば、もって瞑すべしじゃ」

 享元絵巻。名古屋城管理事務所に現存し、宗春治下の城下の賑わいを今に伝えている。
 
 伊吹屋は年を感じさせぬほど飲み、宗春も久々に大酒した。快い酒であった。
 
 明けて元文四年、正月。
「徳川中納言宗春儀、行ないつねづね宜しからず、麹町尾張家下屋敷にて隠居謹慎を申しつくる。なお新しき藩主には分家高須(たかす)藩主松平義(よし)淳(あつ)を以ってすること、さし許す」これが申し渡された「ご上意」であった。 
 
 宗春は、即日麹町下屋敷に移った。時を置かず、義淳は尾張藩を襲封する。そして吉宗の片諱(かたいみな)を受け、宗(むね)勝(かつ)と名を改めた。 
 
 宗春が幽閉されて二か月後の三月、麹町の下屋敷に竹腰正武が「ご隠居様ご機嫌伺い」に現れた。屋敷内にも、桜が盛りである。 宗春は縁近くに褥(しとね)を敷き花を愛(め)でていた。
「無沙汰をいたしまして」
「色々と忙しかったであろう。ご苦労であった」
万感の思いを込めて宗春はねぎらった。
「実は・・」竹腰は珍しく口籠(くちご)もった。
「いかがした」
「明日、お忍びにて、加納遠江守どのが参られます」
「この下屋敷にか?宗勝殿の所ではなく」
「御意(ぎょい)」
 加納久通は吉宗の最も近しい臣である。
「将軍家のご意向でか」
「・・御意」
(隠居謹慎では、やはり済まなかった)告げに来た竹腰が哀れであった。
  


Posted by 渋柿 at 08:03 | Comments(0)