2009年06月10日

「伏見桃片伊万里」8

 慎一郎と圭吾は目を見交わせた。慎一郎が、努めて母子を怯えさせぬよう、穏やかに言った。隼人を叱りつける時とは別人の優しい声音であった。こんな時、童顔は役に立つ。
「実は今、ここではろくな治療が出来ぬのじゃ。ここは私達が寝泊りする場でな、薬がおいてない。治療所はここから少し離れておってな。今から薬を取りにまいらねばならぬ。あ、いや、娘御は動かさぬがよい。急いで行ってまいる。ここで暫く待って欲しい」
 その間に圭吾も、己が膝に移した娘の背を、叩くように強く摩擦し続けた。
「大丈夫、行くのはこの男だけだ」
 娘は喘ぐ。喉の奥、引きつる音がした。
(せめて、痰が出れば―慎一郎が治療所まで走るとして、それを待って、それから薬を調合して―)いや、間に合うまい、たぶん。
「どうか、助けて。お願いいたします、お願いどす」母親が、頭を畳に擦り付けた。
「では」慎一郎は立ち上がった。「心配要らぬ。すぐ戻る」
「間に合わんぞ」突然隼人の声がした。すっかり酔いつぶれていると思っていた。まだろれつは怪しい。
(酔っ払いめ!)圭吾は眉を顰めた。
事態が切迫していることは承知している。その上で最善を尽くそうとしているのだ。
「薬なら、ある」
 隼人が、危うい足取りで立ち上がった。
「寝部屋に、俺の薬籠が・・ある」
「おまえ、こっちに薬籠置いているのか」
「ああ」助かった、と圭吾は安堵の息を吐く。
「だが」慎一郎が言いかけて止めた。
 これほど激烈な喘息発作を鎮めるには、薬籠の常備薬では足りぬ。おそらく劇薬が必要だろう。
(砒素―か)暗然となる。
「大丈夫、砒素もある」隼人は続けた。
 寝部屋へ、階段の方へ行く。ふらつく足取りであった。本当に危うい。
「俺が持って来る」圭吾が立ち上がった。
隼人はストンと尻餅をつく。
「調合も、やってくれ」
「当たり前だ!」圭吾と慎一郎が同時に怒鳴った。砒素は劇薬というより本来猛毒である。酔っ払いに任せられるようなものではない。



Posted by 渋柿 at 07:11 | Comments(0)
上の画像に書かれている文字を入力して下さい
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。