2010年01月17日
「続伏見桃片伊万里」27
声が出ないらしい。
お光は、懐に手を入れた。
油紙に包んだ、小さなものを取り出し、無言でお米に差し出した。
「これは―」
「いすのくし、だよ」
傍らから、隼人がいった。
「お光さんのてて親が櫛―柞櫛の職人だったのはご存知かな」
「へえ」
「お光さん、このふた月な、まだ手を震えさせながら櫛を磨いておった。お店さまにも差し上げる、とな」
「まあ」
お米はお光の手から包を受け取り、油紙を開いた。
そして押し頂いた。
「お光はん、おおきに。大事に遣わせてもらいます」
「出来、あんまりようおへんけど」
お光が、やっと小さな声でいった。
「いいええ、あて、嬉しゅうおす」
お米は、櫛を握り締めて、声を詰まらせた。
「お母ちゃん、ねえ、帰ろうなあ」
もう正吉は、お光に貼り付いて離れない。
「お光さん、一緒に帰りまひょ、旦さんも待ってますえ」
「あの、旦さんは?」
お光が尋ねた。
それは、最前から圭吾も不審に思っていた。
迎えは、播磨屋自身と思っていた。
「それが―肩が痛いって。四十肩でっしゃろけど」
「肩?」
そこは医者、圭吾が聞き咎めた。
「どちらじゃな、右か左か」
「左、っていうてましたけど」
「繰り返し痛むのかな」
「へえ、近頃再々。今日も出掛けよとしたら痛み出して。いえ、半時もせずに痛みは引くていうとりました」
(これは―)
圭吾は隼人を見た。
(用心した方がいいぞ)
隼人も、“妙に治りの早い四十肩”に別の病名が思い当たったようである。
「なるべく早く、新宮先生に見てもらうようお勧めなされ。それと、御主人の膳に塩気を控えて、な。急に重いものを持ち上げたり、息を切らすほど走ることも、避けたほうがよい」
「へえ」
お米は、きょとんとした顔で返事をした。
「ねえ、帰ろう、帰ろう」
正吉が、またお光の手を引っ張った。
お光は、懐に手を入れた。
油紙に包んだ、小さなものを取り出し、無言でお米に差し出した。
「これは―」
「いすのくし、だよ」
傍らから、隼人がいった。
「お光さんのてて親が櫛―柞櫛の職人だったのはご存知かな」
「へえ」
「お光さん、このふた月な、まだ手を震えさせながら櫛を磨いておった。お店さまにも差し上げる、とな」
「まあ」
お米はお光の手から包を受け取り、油紙を開いた。
そして押し頂いた。
「お光はん、おおきに。大事に遣わせてもらいます」
「出来、あんまりようおへんけど」
お光が、やっと小さな声でいった。
「いいええ、あて、嬉しゅうおす」
お米は、櫛を握り締めて、声を詰まらせた。
「お母ちゃん、ねえ、帰ろうなあ」
もう正吉は、お光に貼り付いて離れない。
「お光さん、一緒に帰りまひょ、旦さんも待ってますえ」
「あの、旦さんは?」
お光が尋ねた。
それは、最前から圭吾も不審に思っていた。
迎えは、播磨屋自身と思っていた。
「それが―肩が痛いって。四十肩でっしゃろけど」
「肩?」
そこは医者、圭吾が聞き咎めた。
「どちらじゃな、右か左か」
「左、っていうてましたけど」
「繰り返し痛むのかな」
「へえ、近頃再々。今日も出掛けよとしたら痛み出して。いえ、半時もせずに痛みは引くていうとりました」
(これは―)
圭吾は隼人を見た。
(用心した方がいいぞ)
隼人も、“妙に治りの早い四十肩”に別の病名が思い当たったようである。
「なるべく早く、新宮先生に見てもらうようお勧めなされ。それと、御主人の膳に塩気を控えて、な。急に重いものを持ち上げたり、息を切らすほど走ることも、避けたほうがよい」
「へえ」
お米は、きょとんとした顔で返事をした。
「ねえ、帰ろう、帰ろう」
正吉が、またお光の手を引っ張った。
Posted by 渋柿 at 19:09 | Comments(0)
2010年01月17日
「続伏見桃片伊万里」26
「せめてもの償いに、息子に慎一郎って名付けたけど。人が死ぬって辛いよな。あの夜、高瀬舟でお光さん叫んだろ、絶対お店さま許さん、って。慎一郎の親御も、過ちで吾子殺した俺を、殺してやりたいほど、憎まれた夜もあったろうよ」
「いや、ご両親は一言もそんなことは―」
栗林慎一郎の遺骨を備中足守の老親のもとに届けたのは、圭吾だった。
悲しみの中にも毅然と吾子を褒めたのを、この目で見、この耳で聞いている。
隼人は、薄く笑った。
「お前も、親になればわかる」
「いいえ!」
お光がいった。
「違います。人は、親には、必あらず赦す日が来るんどす。そやないとあんまり悲しすぎるやおへんか」
「お光さん―」
圭吾は、お光の顔を見た。
(この人は、もう赦しているよ)
傍らで隼人が頷いている。
「お母ちゃん」
幼い声がして、闇の中から小さな影がお光に抱きついてきた。
「正吉!」
「迎えに来たで。お店のお母はんも一緒や」
弾む声であった。
「お店さまが?」
「うん」
正吉は後の闇から、一人の女の手を引いて来た。
「駕籠できたんや。お母ちゃんのもあるで。―お母はん、帰りはそっちで一緒に乗りいって、なあ」
「へえ、久しぶりにお母ちゃんのひざで甘えぇな」
うす闇の中でも、絹物の大家のお内儀の身なりはわかった。
声は四十前の、落ち着きを含んでいる。
(しかし、なあ)
(お店さまが、迎えか)
(お光さんに、この刺激はまだ早すぎるんじゃ)
隼人と圭吾は顔を見合わせた。
「村田せんせ、堀せんせ。播磨屋の米でございます。この度はほんまにもう、ありがとうさんでおました。―お光はん、よう戻ってくだ張りましたなぁ」
播磨屋の本妻、お米は、深々と頭を下げ、お光の手をとった。
「お店さま―」
「あんたにゃあ幾等詫びても詫び足りまへん。どうか堪忍してなあ」
「堪忍て―」
「いえ、赦してもらおやて虫がよすぎますなあ。一生、あてを恨んでくだはれ。あてに出来る償い、何なりとさせて頂きますぅ」
お光は、すぐには答えることが出来なかった。
泣くような、笑うような表情に顔を歪めて、必死に言葉を出そうとしていた。
「いや、ご両親は一言もそんなことは―」
栗林慎一郎の遺骨を備中足守の老親のもとに届けたのは、圭吾だった。
悲しみの中にも毅然と吾子を褒めたのを、この目で見、この耳で聞いている。
隼人は、薄く笑った。
「お前も、親になればわかる」
「いいえ!」
お光がいった。
「違います。人は、親には、必あらず赦す日が来るんどす。そやないとあんまり悲しすぎるやおへんか」
「お光さん―」
圭吾は、お光の顔を見た。
(この人は、もう赦しているよ)
傍らで隼人が頷いている。
「お母ちゃん」
幼い声がして、闇の中から小さな影がお光に抱きついてきた。
「正吉!」
「迎えに来たで。お店のお母はんも一緒や」
弾む声であった。
「お店さまが?」
「うん」
正吉は後の闇から、一人の女の手を引いて来た。
「駕籠できたんや。お母ちゃんのもあるで。―お母はん、帰りはそっちで一緒に乗りいって、なあ」
「へえ、久しぶりにお母ちゃんのひざで甘えぇな」
うす闇の中でも、絹物の大家のお内儀の身なりはわかった。
声は四十前の、落ち着きを含んでいる。
(しかし、なあ)
(お店さまが、迎えか)
(お光さんに、この刺激はまだ早すぎるんじゃ)
隼人と圭吾は顔を見合わせた。
「村田せんせ、堀せんせ。播磨屋の米でございます。この度はほんまにもう、ありがとうさんでおました。―お光はん、よう戻ってくだ張りましたなぁ」
播磨屋の本妻、お米は、深々と頭を下げ、お光の手をとった。
「お店さま―」
「あんたにゃあ幾等詫びても詫び足りまへん。どうか堪忍してなあ」
「堪忍て―」
「いえ、赦してもらおやて虫がよすぎますなあ。一生、あてを恨んでくだはれ。あてに出来る償い、何なりとさせて頂きますぅ」
お光は、すぐには答えることが出来なかった。
泣くような、笑うような表情に顔を歪めて、必死に言葉を出そうとしていた。
Posted by 渋柿 at 10:46 | Comments(0)