2010年01月16日
「続伏見桃片伊万里」25
もうお光は寂しさを表に出さない。
これからは、小女を置いて、ゆくゆくはまた南禅寺堂町で小間物の小商いを初めて暮らすということになっていた。
お光と、付添ってきた隼人が舟から下りる。
今日を戻る日に決めたのはお光自身という。
(死者を送る日、生別も死別も、けじめをつけるのか)
山に積み上げられた善男善女寄進の護摩木が、京を囲む山の五か所に積み上げられ、点火のときは迫っていた。
このあたりは、如意が岳の大文字がよく見える。
川辺の涼風もあり、送り火を見る善男善女が、集まっていた。
「ご苦労だったな」
返事はなく、隼人はただ黙って燃える火を見ていた。
「送り火か、早いものだ。慎一郎が死んで、七回目の」
宙を見る傍白であった。
歓声が上がった。
未刻となったらしい。
山の火が燃上がる。
これから、少しずつ間をおいて、
「妙と法、舟形、左大文字、鳥居」
と小半時あまりのうちにそれぞれの山の火が付けられていく。
「慎一郎はん?、死んだて?」
お光は聞咎た。
「いや、七年前、伏見の慎一郎はまだ生まれてもおらんよ。その仏は、栗林慎一郎と申す、俺達の蘭学塾の仲間だ」
やむなく、圭吾がいう。
栗林慎一郎、嘉永六年一月二十六日没。享年は二十歳であった。
「俺が、殺したのさ」
「隼人!」
圭吾の声を無視し、隼人は続ける。
「酒毒が抜けたばかりの頃、ふらふらで馬に蹴殺されかけた。飛び込んで、俺庇って、身代わりに死んじまったのが・・栗林慎一郎。もったいない、とてもとてのこんな出来損いと引き換えにできるような凡才じゃなかったのに、二十歳で死んじまったんだ!」
「村田せんせ」
これからは、小女を置いて、ゆくゆくはまた南禅寺堂町で小間物の小商いを初めて暮らすということになっていた。
お光と、付添ってきた隼人が舟から下りる。
今日を戻る日に決めたのはお光自身という。
(死者を送る日、生別も死別も、けじめをつけるのか)
山に積み上げられた善男善女寄進の護摩木が、京を囲む山の五か所に積み上げられ、点火のときは迫っていた。
このあたりは、如意が岳の大文字がよく見える。
川辺の涼風もあり、送り火を見る善男善女が、集まっていた。
「ご苦労だったな」
返事はなく、隼人はただ黙って燃える火を見ていた。
「送り火か、早いものだ。慎一郎が死んで、七回目の」
宙を見る傍白であった。
歓声が上がった。
未刻となったらしい。
山の火が燃上がる。
これから、少しずつ間をおいて、
「妙と法、舟形、左大文字、鳥居」
と小半時あまりのうちにそれぞれの山の火が付けられていく。
「慎一郎はん?、死んだて?」
お光は聞咎た。
「いや、七年前、伏見の慎一郎はまだ生まれてもおらんよ。その仏は、栗林慎一郎と申す、俺達の蘭学塾の仲間だ」
やむなく、圭吾がいう。
栗林慎一郎、嘉永六年一月二十六日没。享年は二十歳であった。
「俺が、殺したのさ」
「隼人!」
圭吾の声を無視し、隼人は続ける。
「酒毒が抜けたばかりの頃、ふらふらで馬に蹴殺されかけた。飛び込んで、俺庇って、身代わりに死んじまったのが・・栗林慎一郎。もったいない、とてもとてのこんな出来損いと引き換えにできるような凡才じゃなかったのに、二十歳で死んじまったんだ!」
「村田せんせ」
Posted by 渋柿 at 17:29 | Comments(0)
2010年01月16日
「続伏見桃片伊万里」24
三月が、たった。
この間の世の動きを年表に見ると、安政六年の初夏には歴史の大変動が起こっている。
桜田門外でこの三月に横死した井伊直弼の手により、前年諸外国と結ばれた修好通商条約に基づいて、函館・横浜・長崎の港が、アメリカはじめイギリスやフランスに対して開かれるたのだ。
時代は、さらに諸国列強の利権まで絡み、風雲は急を告げることになる。
圭吾は蘭学を通して当時の他者よりはずっとその事情に通じていた筈である。
だが日記を読む限り、そのことにあまり思いをいたした様子は見えない。
とまれ、
「お光ほぼ本復いたし―」
伏見の村田隼人の手紙を受取ったのは昨日だった。
師は、手紙を渡しながら、いったのだ。
「そういえば、書過町からも先頃書状がまいっての、叱られたわ」
書過町。
大阪・淀橋、圭吾が隼人らと際所に入門した蘭学塾の所在地である。
師は旧友のその蘭学者も書過町と呼ぶ。
相手が師を草川町と呼ぶように。
「はあ」
「何時まで堀を便利使いしておる、さっさと肥前へ返せ、とな」
「先生!」
「確かに、お前にあまえておったようじゃ。もしこのまま京に留まって医名を揚げたければ、それもよい。じゃが」
穏やかに師は続ける。
「じゃがなあ、わしの歳を考えていいだせずにおったなら、帰れ。もうわしも門を閉じて隠居する時期じゃろうて」
「先生、私は―」
「お前は、日本一の村医者になる男だよ」
師の言葉が、万雷のように聞こえた。
京の五山に盂蘭盆の送り火が燃える、八月十六日。
東山・如意が岳(大文字山)山腹の
「大」
の字を皮切りに、北山を経て西に向かい
「妙と法、舟形、左大文字、鳥居」
の送り火が燃える日であった。
伏見の村田隼人の元で三月を過ごし、お光は京に戻ってきた。
いつもの三条大橋、船着場であった。
伏見からもどった高瀬舟を、堀圭吾が出迎える。
(これも覚悟の表れか)
この間の世の動きを年表に見ると、安政六年の初夏には歴史の大変動が起こっている。
桜田門外でこの三月に横死した井伊直弼の手により、前年諸外国と結ばれた修好通商条約に基づいて、函館・横浜・長崎の港が、アメリカはじめイギリスやフランスに対して開かれるたのだ。
時代は、さらに諸国列強の利権まで絡み、風雲は急を告げることになる。
圭吾は蘭学を通して当時の他者よりはずっとその事情に通じていた筈である。
だが日記を読む限り、そのことにあまり思いをいたした様子は見えない。
とまれ、
「お光ほぼ本復いたし―」
伏見の村田隼人の手紙を受取ったのは昨日だった。
師は、手紙を渡しながら、いったのだ。
「そういえば、書過町からも先頃書状がまいっての、叱られたわ」
書過町。
大阪・淀橋、圭吾が隼人らと際所に入門した蘭学塾の所在地である。
師は旧友のその蘭学者も書過町と呼ぶ。
相手が師を草川町と呼ぶように。
「はあ」
「何時まで堀を便利使いしておる、さっさと肥前へ返せ、とな」
「先生!」
「確かに、お前にあまえておったようじゃ。もしこのまま京に留まって医名を揚げたければ、それもよい。じゃが」
穏やかに師は続ける。
「じゃがなあ、わしの歳を考えていいだせずにおったなら、帰れ。もうわしも門を閉じて隠居する時期じゃろうて」
「先生、私は―」
「お前は、日本一の村医者になる男だよ」
師の言葉が、万雷のように聞こえた。
京の五山に盂蘭盆の送り火が燃える、八月十六日。
東山・如意が岳(大文字山)山腹の
「大」
の字を皮切りに、北山を経て西に向かい
「妙と法、舟形、左大文字、鳥居」
の送り火が燃える日であった。
伏見の村田隼人の元で三月を過ごし、お光は京に戻ってきた。
いつもの三条大橋、船着場であった。
伏見からもどった高瀬舟を、堀圭吾が出迎える。
(これも覚悟の表れか)
Posted by 渋柿 at 10:39 | Comments(0)