2010年01月09日

「続伏見桃片伊万里」16

 僅かな、救いを見たように思った。

 翌朝、早朝の三条大橋。
 すぐ脇に高瀬舟の船着場がある。
 ここから四里ほど川下が伏見である。
 伏見は、江戸初期角倉了以が開いた運河・高瀬川と、淀屋常庵が水運を整備した淀川が交わる地でもある。
 この川辺で診療所を開く旧友、村田隼人は、圭吾と同年の二十七。
 圭吾が中肉中背というより貧弱といっていい体つきなのに対し、背が高い。
 昔、酒毒に陥っていた頃はがりがりに痩せていたものだが、今はそれなりに貫禄が付いている。
 圭吾が播磨屋に語ったように、妻・登世と二人の子の所帯持ち、それらしい風貌になっている。
 書状を、高瀬舟の船頭に託した。
 船着場近辺なら心付けを添えれば、日常このような文使いも頼める。
 圭吾は突然の勝手な依頼を詫び、酒毒の患者を預かって欲しいと、事情を記した。
(お光を引取るため、早速にも今日の夜舟で伏見を立ち、明日早暁迎えにきて欲しい。未明の船着場待つ。駄目ならその旨、船頭に言付けてくれ)
 
 南禅寺草川町の師の家に戻ると、すでに播磨屋が訪れて首尾を待っていた。
 お光を伏見に移すことができそうだというと、すぐに支度を調えるという。
 流石に、安堵の色が見えた。

 翌、早暁。
 三条大橋の船着場で村田隼人を迎え、お光の家へ向った。
 東山の麓は滴るような新緑であった。
 南禅寺堂町まで歩きながら、圭吾はお光と自分の関りを隼人に語る。
 乳呑児の死とその真相・柞櫛職人だったという父・東山の黒髪を梳す柞櫛・肥前染付の柞灰釉・播磨屋が託した五十両隼人は、ただ、聞いていた。

 髪を結う気力も張りも、もうないのだろう。
 髷は根が解かれたまま、肩や腰に纏わっている。
 一年半ぶりにお光の、酒に荒んだ凄まじい窶れには衝撃を受けた。
 だが、高瀬夜舟に乗せて隼人の家に連れて来るのは覚悟したほどの難行苦行ではなかった。



Posted by 渋柿 at 11:23 | Comments(0)
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