2010年01月18日
「続伏見桃片伊万里」29
山の送り火は、尽きかけている。
「大阪の塾で出会った時は、互いにまだ十七だった」
「それから十年か。波乱万丈、いや支離滅裂、気がついたらここで慎一郎の送り火だ」
「その支離滅裂につき合わせて貰ったよ」
学業は、大阪書過町の師と京の南禅寺草川町の師の恩によってなった。
だが自分に先駆けて開業し、試行錯誤、町医者として一家を成すまでの隼人の苦闘であった。
傍らで見せて貰った恩はそれに劣らぬ。
(しかも、あの地獄から這い上がって)
「そうだ、忘れてた」
隼人はつと屈み、背に廻していた風呂敷を開いた。
中にまた小風呂敷の包みと、瓢。
「柞櫛かあ。俺にも貰えるのか!」
「ああ、お前にもってさ。お登世とお千代にも貰った」
最初に解かれた包から隼人が示した女櫛は、確かに型も歪み、櫛目も不揃いだった。
ただ、握る手の内に官能的な温もりさえ感じられる。
磨き抜かれていた。
(正妻さんが泣くはずだ)
「それから」
次にまた隼人は、油紙の包を取り出した。
「これは?」
「灰釉だよ、柞の。伏見稲荷から柞の木切れもらって櫛作るとき、お光さん、皮も木屑も途中で割れたのも取り除けてな。灰にして、毎日毎日灰汁掬って水替えて。きっちり一月な。それを乾かした」
「そうか」
「使えそうか?」
「ああ、知合んの窯元んところに届けるよ」
「圭吾」
「何だ?」
「お光さん、もう酒は断てる、って思う」
「おれもそう、思う」
(そしてお前も、もう本当に大丈夫らしい)
「大阪の塾で出会った時は、互いにまだ十七だった」
「それから十年か。波乱万丈、いや支離滅裂、気がついたらここで慎一郎の送り火だ」
「その支離滅裂につき合わせて貰ったよ」
学業は、大阪書過町の師と京の南禅寺草川町の師の恩によってなった。
だが自分に先駆けて開業し、試行錯誤、町医者として一家を成すまでの隼人の苦闘であった。
傍らで見せて貰った恩はそれに劣らぬ。
(しかも、あの地獄から這い上がって)
「そうだ、忘れてた」
隼人はつと屈み、背に廻していた風呂敷を開いた。
中にまた小風呂敷の包みと、瓢。
「柞櫛かあ。俺にも貰えるのか!」
「ああ、お前にもってさ。お登世とお千代にも貰った」
最初に解かれた包から隼人が示した女櫛は、確かに型も歪み、櫛目も不揃いだった。
ただ、握る手の内に官能的な温もりさえ感じられる。
磨き抜かれていた。
(正妻さんが泣くはずだ)
「それから」
次にまた隼人は、油紙の包を取り出した。
「これは?」
「灰釉だよ、柞の。伏見稲荷から柞の木切れもらって櫛作るとき、お光さん、皮も木屑も途中で割れたのも取り除けてな。灰にして、毎日毎日灰汁掬って水替えて。きっちり一月な。それを乾かした」
「そうか」
「使えそうか?」
「ああ、知合んの窯元んところに届けるよ」
「圭吾」
「何だ?」
「お光さん、もう酒は断てる、って思う」
「おれもそう、思う」
(そしてお前も、もう本当に大丈夫らしい)
Posted by 渋柿 at 21:00 | Comments(0)
2010年01月18日
「続伏見桃片伊万里」28
「何ですねん。駕籠の中でいいましたやろ、『お母ちゃんがお世話になりました』って、せんせ方にちゃんと挨拶しなはれ」
お米に促され、正吉ははにかんだように
「お世話になりました」
といった。
お光正吉と播磨屋のお米を乗せた駕籠が闇に消えるまで、見送った。
「お前もそう思うか?」
隼人がいった。
「ああ」
「痛いのは左というし・・」
左肩の痛み―。
それが稀に心の臓の発作、今でいう狭心症や急性心筋梗塞の前触れとは、二人とも初学の頃きいたことがあった。
「俺達も苦労性だなあ」
「まあ、取り越し苦労だろうよ」
「医者ってのも、因果なものさ」
「隼人、俺、来月・・伊万里に帰る」
圭吾が、淡くなっていく送り火を見上げた。
「いつ、決めた?」
「きのう、な。先生もおっしゃる。いろいろ、整理がつき次第、発つ」
学問の先進地で暮らした。
都に心残りは、ある。
吾が生涯は村医者、その初心の筈が、心は揺らいでいた。
迷いを断つまでに要した時は、短くはなかった。
「多分、次に逢うとき、お前はそういうと思ってたよ。何所で開業するんだ?」
「親父の店の、離れだ」
「肥前・伊万里津、か。遠いな」
二人とも、これが永別となると、このときは思った。
お米に促され、正吉ははにかんだように
「お世話になりました」
といった。
お光正吉と播磨屋のお米を乗せた駕籠が闇に消えるまで、見送った。
「お前もそう思うか?」
隼人がいった。
「ああ」
「痛いのは左というし・・」
左肩の痛み―。
それが稀に心の臓の発作、今でいう狭心症や急性心筋梗塞の前触れとは、二人とも初学の頃きいたことがあった。
「俺達も苦労性だなあ」
「まあ、取り越し苦労だろうよ」
「医者ってのも、因果なものさ」
「隼人、俺、来月・・伊万里に帰る」
圭吾が、淡くなっていく送り火を見上げた。
「いつ、決めた?」
「きのう、な。先生もおっしゃる。いろいろ、整理がつき次第、発つ」
学問の先進地で暮らした。
都に心残りは、ある。
吾が生涯は村医者、その初心の筈が、心は揺らいでいた。
迷いを断つまでに要した時は、短くはなかった。
「多分、次に逢うとき、お前はそういうと思ってたよ。何所で開業するんだ?」
「親父の店の、離れだ」
「肥前・伊万里津、か。遠いな」
二人とも、これが永別となると、このときは思った。
Posted by 渋柿 at 14:50 | Comments(0)